
ジントシオ氏
突き抜けた男たちの魂の叫びをお届けする連載企画「死ぬ前までにやっておくべきこと」。前回に引き続き、野球応援の革命家とも呼ばれたジントシオ氏に、波乱の応援人生と現在の生活を語ってもらった。
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千葉ロッテマリーンズで応援団長として圧倒的な存在感を示したジントシオが、同じパ・リーグの東北楽天ゴールデンイーグルスで応援プロデューサーとして活動する。
球界でも前代未聞となるこのニュースに、各球団の応援団界隈が揺れたのは2018年のこと。
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「まさか楽天から依頼が来るとは思いませんでした。その前にも他の球団や、リーグから『応援を変えてほしい』という依頼はあったんですが、やっぱり元からいらっしゃる応援団の方や、応援歌も根付いているので話は全部頓挫していました。この楽天からのオファーは今ある応援歌を『分かりやすく初めて球場に来た人にも歌えるように』変えてほしいという依頼です。応援プロデューサーとしての立場を明確にして、韓国や台湾のような音源を使った“球場全体での応援スタイル”がやれると聞いて受けました。ただ、蓋を開けたら実質球団と応援団の仲介役で、ライトファン向けのシンプルな応援に刷新したい球団側と、今まで応援を作ってきた応援団側の板挟みになった。結局、この年限りで創設時から活動していた私設応援団の団体が解散することになってしまいましたから」
そして翌19年の開幕前に、大部分の選手応援歌の刷新を発表するとSNSは大炎上。ジンは悪い意味でツイッター(当時)のトレンド入りを果たしてしまった。
新たに発表した曲の中から島内らの名曲も生まれたが、元からいた応援団やファンにとってはどんな応援であれ、それまで作り上げた応援の歴史と伝統を破壊しに来た招かれざる外敵であることに変わりはなかった。
結局、球団側と応援団が協議して1週間後には約半分の応援歌が元に戻された。
すぐにお蔵入りになった曲がありジンは残念だった。
次の年には新型コロナの感染拡大が始まったが、オンラインで演出と応援の融合を形にすることもでき、21年いっぱいをもって、ジンは楽天を退団した。
在籍期間は4年だった。
現在も社会人野球などに楽曲を提供

ジントシオ氏
「非常に難しい立場でした。反対意見も多かったですが、改革を支持してくれる人もいた。目標は当初の半分はできたかな。僕が辞めたあと、楽天の応援も元に戻りつつあります。応援はそういうもの。今いる応援団の人が新しい歴史を作っていく。それは、ロッテも楽天も同じ。それでいいんですよ。でもね、仙台での4年間はオレの人生でも素晴らしい時間だったんです。出会えた人はいい人が多かったし、野球に熱くて、人は優しい。オレ、この仙台で出会った人と結婚したんです。オレの第2の故郷になったんですからね」
現在は奥さんと共に出身地である東京へ戻り、一昨年には娘も誕生。「人生で最も幸せな時間を過ごしています」と、娘の写真に相好を崩す。
メインの仕事は映画やドラマなど撮影現場のスタッフとして働く一方、各方面からの作曲依頼は続き、最近も社会人野球のトヨタ自動車や近畿大学などに楽曲を提供。
独立リーグの「佐賀インドネシアドリームズ(当時)」や、NPB選手の合同引退試合「ラストゲーム」の応援団長にも起用された。
著書も出すなど、応援団に所属していたとき以上に充実した生活を送っている。
「やっと分かったんです。一人の方が自分の性に合っているって。組織に属さず、やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。応援団はいろんな人たちの思いがあります。あっちの人を立てて、こっちの人の意見を聞いてね。なんだろう、あの頃って謝ってばかりでしたね。組織を背負っていると、対立も起こります。でも人対人になれば分かり合える。今になって対立した人たちと、組織を離れて話してみると、ただの昔の仲間ですから。今は仕事も充実しているし、家庭も幸せ。30歳のときに西武園ゆうえんちの駅でレオライナーに乗ろうとしたら子供連れの中学の同級生に『まだ応援団なんてやってたんだね』って言われて負けた気がしたんです。それ、分かります? あの頃に比べたら、40代半ば、実にいい感じです。明日も朝から撮影現場に行くんですが、個人事業のペースで働いて、空いた時間で、依頼が来た応援歌をどう作ろうかって。今は本当にやりたい音楽だけを追求できています」
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「応援のプロ」の肩書を封印
ジンは応援のプロを名乗ることをやめた。
小学生の頃、目立つのが好きで、何かを表現するのが好きだった少年は30年にわたるプロ野球応援団での激闘の時間を経て、ようやく“死ぬまでにやるべきこと”という本懐を見つけた。
「応援は好きです。知らない人たちが、同じ歌を歌い、球場が一体となったときのあの雰囲気は最高です。だけど、かつての伝説的な応援団長みたいな『死ぬまで一つのチームを応援する』というスタンスとは違うのかな。オレはやっぱり、自分の作った曲で多くの人が喜んでくれて、みんなで歌える曲を作るのが好きなんですよ。だから、死ぬまでに代表曲を作りたいんです。多くの人、それこそ国民全員が歌える『上を向いて歩こう』みたいなね。あとは、子供の成長が何よりの楽しみですね。娘がライトスタンドで応援団をやりたいと言ったら? うーん…考えたくないですね」
ジンはそう言ってかぶりを振った。
2歳の娘は野球が好きで、ダンスも、歌も好きだという。
もしも数年後、父のラッパに興味を持った娘に「応援団になりたい」と言われたら、ジンはきっと「好きなことをやれ」と言うだろう。
30年前、大好きだった父親がそう言ってくれたように。
(完)
取材・文/村瀬秀信
「週刊実話」4月3日号より