〈カープ・新井貴浩の流儀〉踏まれても踏まれても真っすぐに…選手会会長時代はWBC辞退も示唆した“広島のガンボたれ”の原点

最もコミッショナーになってはいけない人物 

本来、日本代表のライツを守り、NPB の赤字を改善するように WBCI に要求すべきは、 NPB トップである加藤良三コミッショナー(当時)であった。加藤は元駐米日本大使であり、コミッショナー就任時に米国への大きなパイプを期待する声も一部の評論家の中ではあったが、それはあまりに浅はかな期待であった。

駐米大使であればこそ、米国に従順であることは、日本の戦後外交の歴史を見ていけば明ら かであった。日本の主権を侵害している日米合同委員会のトップは外務省北米局長である。実際、WBCI との不平等条約の改正についてはまったく逆に機能していた。

加藤は問題の本質に一切、触れようとせず、ただただ「ファンのために WBC へ参加すべきだ」との主張を繰り返していた。米国への交渉において、その属性から、加藤はこの時期に最もコミッショナーになってはいけない人物だった。

新井はなぜこれほど大きな国辱的問題にコミッショナーがまったく動かないのか、いらだ ちを感じながらも選手会として NPB との協議を継続させていった。結果的に NPB は選手会に尻を叩かれるかたちで WBCI と交渉し、付帯条件として WBC のロゴを使わなければ、独自のスポンサー活動ができるということを確約させた。

最終的にこのチキンレースは、WBCI による収益の配分こそ変わらなかったが、スポンサー権や日本代表グッズの商品化権は認められた。本来、保持して当たり前の権利を取り戻したことで、収益増は確実に見込めることとなった。

このあたりが、落としどころと見た新井は9月4日に WBC への参加を決めた。アメリカを前に腰の重かったNPB を選手会が動かしたことは大きかった。駆け引きを成功裏に終えた新井は、甲子園での試合開始前にユニフォーム姿で記者会見を行なったが、柔和で温厚な普段の表情とは打って変わり、珍しく語気を強めて名指しで球界の最高権威を批判した。

「これまでのこの屈辱的な条件の中で、加藤コミッショナーが、『日本の野球界のことを考えて WBCに参加すべきだ』と言われていたことが残念でなりません。コミッショナーこそ、先頭を切ってWBCI と闘ってほしかった」

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「(新井は)広島弁でいうガンボたれですよ」 

この新井のふるまいを見て、「9歳の頃から、まったく変わっていない」と感慨に浸っていた人物が広島にいた。かつて広島市の小学校教員で、現在は広島都市学園大学で子ども教育学部の学生たちを指導している佛圓弘修教授である。

ここで外務省も腰を引くアメリカに頑として筋を求める新井のルーツに迫ってみる。

佛圓は20代のときに自ら望んで教育困難校に赴任していった。その西区の小学校で他の児童よりも頭ふたつ抜け出た体の大きい少年を三年時に受け持つことになった。それが新井だった。

「広島弁でいうガンボたれですよ。負けず嫌いで勝負事は絶対に逃げないような子でした」

いつも強気で上級生にドッジボールで勝負を挑まれたら、真っ向から受けて立って勝利した。苦手な水泳では負けることが分かっていたが、それでも息が続く限り泳ぎ続けてクラスメイトからの喝采を浴びた。

一方で弱い者いじめは絶対に許さず、そんな現場を見つけると必ず抑止した。マサル君という障がいを持った子がクラスにいた。インクルーシブ教育などという言葉もなかった時代だが、人権教育の先進県と言われた広島では、当たり前のように一緒に授業を受けていた。

休み時間などで体の小さなマサルがからかわれそうな空気になると、新井は即座にそばに寄って、手を繋いでいた。「マサルをイジメる奴は、わしがシゴウしちゃるけえ、覚悟せえ」と無言でガードしたのである。

子どもたちに読者の習慣をつけてほしいと考えた佛圓は、自費を投じて学級文庫を作った。その中の一冊が「はだしのゲン」だった。9歳で親や兄弟を原爆で亡くしながら、戦後の混乱期をたくましく真っすぐに生きる少年ゲンの物語である。新井はそれをボロボロになるまで読み込んでいた。

「私は被ばく二世、新井君は被ばく三世です。私は『ゲン』のシリーズを揃えましたが、彼は授業が終わってもすぐに帰ろうとせずにいつも残って食い入るように読んでいました。心優しい少年が社会悪や矛盾に懸命に立ち向かう姿に心打たれたんでしょうね。ガンボたれは『僕はゲンになりたいんです』と、ことあるごとに言っていました」

その夢はまず小学3年生で実現する。「学生発表会」というクラスごとに出し物をする会があった。佛圓学級は、当然のように「はだしのゲン」の演劇を行なうことになった。そして児童の投票で決められた配役では、主人公の中岡元に新井が全員一致で選ばれた。

「あのイチローでも野球殿堂入りは満票ではなかったですよね。でもうちのクラスは、100%でしたよ(笑)」