
「はだしのゲン」の作者との会談
マサルをはじめ児童全員が新井をクラスのリーダーとして認めてくれていた。新井は、ゲ ンが父から受けた遺言「どんなに踏まれても踏まれても真っすぐ伸びる麦のように生きろ」を舞台の上で力強く短いセリフでいい切った。
「わしゃあ、麦になるんじゃあ」
クラスの誰一人として取り残すことなく、全員が楽しい学校生活を送ってくれることを考 えて学級運営をしていた佛圓は「新井君は太陽のようにクラス全員を照らしてくれました」という。
佛圓はしかし、一年間しか新井の担任をすることができなかった。ガンボたれは両親の仕事の関係で3年生を終えると同時に転校することが決まったのである。佛圓はお別れの会を開いた。マサルは朝から、新井の胸に顔をうずめて「行かないで! 行かないで!」と号泣し、クラスの仲間もそれを見て皆、もらい泣きしていた。
新井と佛圓は転校後も深く結びついていた。新井が広島工業高校の三年生のとき、ユニフォーム姿で小学校の職員室に入ってきたことがあった。
「先生、広陵に勝ちました!」
二岡智宏(のちに巨人など)、福原忍(阪神)を擁し甲子園でも優勝するのではないかと言われていた広陵を県予選の3回戦で下し、そのことを報告するために球場から直行して来たのである。
「新井君がその後、カープに入団してプロになって、阪神に移籍して選手会の会長になってがんばっていたのは、知っていました。9歳のときの新井君がクラスの特に弱い立場の子たちと繋がりながら、物事を皆のために進めていくのを見ていましたから、私は強さと優しさを持っていたあのときと同じだと感じたわけです」
阪神の四番を務めながらの WBC との折衝はあまりの激務であり、新井の身体がガタガタになったときは、元担任の血が騒いだ。
励まそうと考えた佛圓は「お前の一番好きな人に会わせてやる」と伝えた。「はだしのゲン」の作者である中沢啓治氏との会談をセットしたのである。
当時、中沢は肺がんで入院中であったが、平和教育を長きにわたって行なっていた旧知の佛圓の依頼を快諾してくれていた。
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「阪神に行くとは、いったいどういうことか!」
新井は小学三年生以来、憧れていたゲンの作者との対面に緊張していた。病室に入ると、 中沢はあいさつもそこそこに、いかに自分がカープを愛しているかをとうとうと語り出した。
自分は「広島カープ誕生物語」という漫画を描いたほどにこの地元球団を創立以来、応援してきた。焼野原になった広島の復興のシンボルであり、資金難のときは市民が樽募金で支えた。それなのに広島生まれで広島育ちの選手が阪神に FA 宣言して行くとは、いったいどういうことか!
新井は思わず、身をすくめた。しかし、中沢はすぐに満面の笑みを浮かべた。
「わしは阪神に行ったあと、選手会長になってからの君の動きをずっと見ておった。東日本大震災の年に文科省に掛け合ってシーズン開幕を延期させたこと。そしてアメリカに向けて、不平等な条件を抗議して権利を勝ち取ったこと。素晴らしかった。わしは君を見直した。君はどこへ行っても広島の子じゃ。ずっと応援しとるけえな」
佛圓は中沢との病室での会談の際、手垢でボロボロになった「はだしのゲン」の9巻を持 って行っていた。
「たまたまこれだけが手元に残っていましたが、これは新井君が読み込んだものです」
中沢は表紙を愛しそうになでると「漫画家冥利に尽きるのう」と微笑んだ。
ゲンの9巻にはこんなシーンがある。
ゲンと同じ戦災孤児の夏江という女子が原爆の後遺症で命を落とすと、病院の連絡を受けた役人がやってきて、夏江の遺体を渡してくれたら、立派な葬儀を我々で行ない、そのうえで3万円の香典料を出すと言う。ゲンはこれに激怒する。
「おどれらアメリカの手先になって原爆の資料をせっせと集めている ABCC(米国原爆傷害調査委員会)じゃろう」「おどれら日本人のわしらを助けるためじゃないわい。アメリカの国が原爆をおとされたときの準備にアメリカ人のためにせっせと資料をあつめるだけじゃ」「やっと静かなねむりについたのに死んでまで原爆を落としたアメリカのくいものにさせてたまるか」と怒りをぶつけて追い返してしまう。
はだしのゲンは現在、25の言語に翻訳されて世界中で出版されているが、原爆の悲劇を何も知らないアメリカの若者に読ませようと、初の英語翻訳版を1978年に完成させた編集者の大嶋賢洋氏はゲンの魅力をこう分析している。
「原爆投下は明らかに国際法違反で人類に対しての犯罪。でも漫画の中ではゲンだけが唯一アメリカに対して『お前たちなんでことをやったんだ!』と真っ当に怒っている。その真っ当に怒ること自体が日本政府としては今は困ったものだと思っている」