
【東京都千代田区発】縁あって通販基幹システムを担う会社の社長と出会った中村さん。テレビ局時代から一貫して関わり続けてきた通販ビジネス。その知見を背景に、いくつもの提案をするうち、社長を引き継ぐことに。経営状態が悪いのは知っていたが、なんとかなると踏んで承諾。ところが蓋を開けてみると目を覆わんばかりの惨状。周囲の誰もが撤退を促した。しかし、通販ビジネスには大きな可能性があると信じて、あえて火中の栗を拾う決意を固めた。一度は死の淵をさまよいながらも再建に奔走。最後に会社を支えたのはエンジニアの職人魂だった。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●社長を引き継いでくれと言われ 安請け合いでやってみたが……
奥田 テレビ局から広告代理店、通販コンサルタントを経て、通販の基幹システム会社の社長として迎え入れられたわけですが、そもそもITの知見はどの程度お持ちだったんですか。
中村 まったくありません。プログラムは1行も書けません。ただ、テレビ局時代から通販にずっと関わってきたので、そのあたりの土地勘はありました。通販業界では名だたる企業が採用している基幹システムなんです。感覚的ですが、このシステムはすごいということはわかりました。
奥田 社長を引き受けるにあたって、ずいぶん大変な思いをされたとか?
中村 最初は前社長に「一緒にやらないか」と誘われたんです。ところが「実は社長を引き継ぐ想定で入ってほしい」と。さすがにそれは考えさせてほしいと保留して、財務諸表なんかを見せてもらったんです。これがかなり厳しくて。
奥田 どれくらいの状態だったんですか?
中村 詳しくは差し控えますが、相当な債務があったんです。ただ、これくらいならなんとかなりそうだと思いました。安請け合いしてしまったんですね。ところが、実際に社長を引き継ぐと、簿外債務がさらに倍以上あったんですよ。
奥田 ふたを開けてびっくりという感じですね。
中村 弁護士や先輩方には「これはつぶさないといけない会社だ」と、ガンガン言われました。ただ、そう言われると……。
奥田 逆に「やってやろう」となる。
中村 なぜ今諦めなきゃならないんだと。どうせダメになるんだったら、3年後でも5年後でも一緒だろうと。みんなに反対されながらも前に進むことにしたんです。もし今、当時の僕にアドバイスするとしたら、絶対に引き止めますけどね(笑)。
奥田 どうしてそこで引かずに前に進めたのですか。
中村 理想があったんです。もともと広告が大好きだったので、広告をやりたいと思っていました。ただ普通の広告だと、やっぱり電通とか博報堂に持っていかれるわけです。ところが、通販なら実売のデータがある。データと結び付けた広告なら、大手の代理店と戦えるんじゃないかと。
奥田 通販の基幹システムを担っている、という点でポテンシャルが大きいと思われたんですね。なにかピンと来るものがあったわけですか。
中村 これまで「行ける」と思った仕事で外したことがないのが自慢です。この会社にも「行ける」と思える部分がありました。通販ビジネスはファブレス。企画だけ真ん中にあって、あとは決済代行とか物流とかはOEMでつくらせたりして、全部変動費でやりくりします。固定費を下げて、商品を市場に10発出して1発当てて回収する、みたいなビジネスが基本なんです。そして当たったものをどんどん大きくしていく。このど真ん中に、唯一入っているのがうちの基幹システムなんです。あとは決済や物流のサービスを僕らがつくればいい。顧客のサービスとシステムをきちんと手当できて、顧客の会社をよくできるわけです。やるからにはお客さんの事業を成功させたいじゃないですか。
奥田 とはいえ目の前の債務はあるわけで、理想だけで会社経営はできませんよね。
中村 大きな負債を返しつつ会社を切り盛りしていくのはとても厳しかったですね。4年間くらいは毎日毎日、それこそ正月も返上して働きました。それで3年半ほど前に心筋梗塞でぶっ倒れて、心停止しちゃった。ただ会社の可能性を信じて頑張りました。実は29歳の時に、仕事が暇すぎて中小企業診断士の資格を取ったんです。
奥田 そう簡単に取れる資格じゃないですよ。
中村 年間で、多分1000時間は勉強しました。経営者を説得できるくらいの経営知識がないと、出世できないと思ったんですね。なら勉強してみようかと。午前中くらいは会社にいて午後は図書館とか行って、ずっと勉強していました。会社の再建に、その時得た知識も役立ちました。
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●優秀なエンジニアがいたからこそ会社が存続できた
奥田 とはいえ、何事もなく順調に経営再建ができたわけではありませんよね。
中村 もうダメだというのは何度もあったんですが、社長を引き受けて1年ほどしたときに「本当にダメだ」という瞬間がありました。社員には正直に打ち明けました。「今の状況は真っ暗だ」と。「家族もいて生活もあるだろうから、ほかの会社に行ってもらってかまわない。ただこれは夜明け前の暗さだと思ってほしい。僕はここに最後まで残る」と。
奥田 何人も辞めていったのでしょうね。当時はどれくらい社員がいらしたんですか。
中村 僕を入れて9人でしたが、全員残ってくれました。逆に、それ以降みんなの目の色が変わって、なんとか乗り切れました。会社の一体感も増して、ステージが一つ上がった感じがしましたね。
奥田 会社が存続できた一番大きな要因は何でしょう。
中村 すごく優秀なエンジニアがいた、残ってくれた、ということです。基幹システムを担っているので、エンジニアがいなくなると、顧客の業務が止まります。注文すら受けられなくなる。彼らは職人なので、顧客の業務は絶対止めないという矜持があるんですね。彼らがいてくれたから今があります。おかげで借金も全部なくなりました。
奥田 現在も開発の方が多いんですよね。社員数はどれくらいになりましたか?
中村 今、31人です。3分の2以上が開発を担当しています。なんとかここまで来ることができました。
奥田 オフィスの入り口にいくつもの国旗が飾ってありましたが……。
中村 社員の母国の国旗です。外国人比率が4割くらいと多いんです。そのため、特に社内のコミュニケーションは大事にしています。勤務形態も全員出社なんです。朝みんなで掃除したり朝礼したり、月に1度はプレミアムフライデーと言って飲んだり、学校みたいな会社ですね。
奥田 最後に、これからどんな会社にしていきたいとお考えですか?
中村 システムだけじゃなくて、倉庫だとか、コールセンターだとか、通販事業をトータルに支えられる企業になりたいと思っています。さらにいえば、僕は「思い出」という言葉がとても好きなんです。人を支えたり、成長につなげたりする原動力の一つだと思います。互いに共有できる思い出をどれだけ残せるか。20年後に「あの時、ああだったよね」と、どれだけの人たちと酒が飲めるか、ということも大事にしていきたいですね。