
「日本人選手の欧州への登竜門」として知られるシント=トロイデン(以下STVV/ベルギー)には、もうひとつ別の顔がある。それはアカデミーで育てたタレントたちを、戦力として積極的にトップチームに引き上げる「育成型クラブ」であるということ。現在のSTVVは日本人とベルギー人の混成チームだ。
【画像】絶世の美女がずらり! C・ロナウドの“元恋人&パートナー”たちを年代順に一挙公開!
先日、日本のテレビ局が同クラブを取材した際、STVVのアカデミーからトップチームに昇格したヒューゴ・ランボッテ(18歳/DF)は、「セカンドチームの監督から何を教わりましたか?」と訊かれて「規律を学びました」と答えていた。映像を見ながら高野剛は「たしかに俺、そのことをめちゃくちゃ言ってるな。セカンドチームの選手たちの間では『高野=規律』という図式が出来上がっているんだな」と感じていた。
これまでアメリカ、日本、イングランド、タイで活躍し、現在はベルギーで辣腕を振るう。その『規律の高野』の原点はアメリカにあった。
1991年に東海大五高校(現東海大福岡高校)を卒業した高野は、アメリカに留学した。叔母が国際結婚していたこともあり、英語が身近な環境で育ち、子どもの頃から「将来はアメリカに行って英語を学ぶんだ」と夢見ていた。だからアメリカ留学は純粋に語学のため。サッカーとは無縁のはずだった。それでもシアトルの語学学校に通っているうちに交流の輪は広がっていき、サッカーをする場も得た。そんな折り、高野はスカジット・バレー大学の卒業生と会った。
「君、サッカーうまいね。うちの大学はオープンに練習参加できる日があるから、行ってみたら?」ということで練習に行ったところ、監督からトライアウトに誘われ、これに合格した。
「ひとり、特待生もいたんだですが、彼も一応、トライアウトを受けないといけなかった。『コイツはうまいから潰せば受かる』と思って、ファウル気味でしたがバチバチ行きました。彼は『お前はしつこくて大変だった』と言ってましたが、そういうところを監督が気に入ってくれたようです。持久走も私が一番でした」
語学学校を卒業するまであと1コマ残っていたが、相談すると「TOEFLの得点は大学に入学できるレベルに達しているし、チャンスがあるんだから」と背中を押してくれた。
高野はサイドバックだった。
「持久力は1500mを4分15秒で走った。100m走も11秒くらいでした。アメリカの選手は身体能力が高い選手が多かったが、守備でも負けなかった。『コイツは走れて、守れて、クロスができるし頑張り屋さんだ』と評価されました。10番のポジションをやったこともありました。日本人は小回りがきくので、外国人が一歩踏む間に僕たちは2歩踏める。それがウケたんだと思います。主に戦うところはサイドバックでした」
スカジット・バレー大学は2年制だった。「ここを卒業したら4年制大学に編入したいな。サッカーでなんとかならないかな」と高野は考えていた。チームメイトに日系人のケビンがいた。セントラル・ワシントン大学の監督は最初、ケビンに注目していた。しかし「もうひとりのアジア人も面白そうな選手だ」と高野のことも練習参加に招く。その結果、「お前も入部してほしい」と4年制のセントラル・ワシントン大学に進学することになった。
セントラル・ワシントン大学のあるエレンズバーグから車で30分のところにヤキマという小さな町がある。そこのクラブはアメリカの3部リーグに所属していた。ヤキマのアシスタントコーチが監督に「面白い選手がいる」と高野のことを伝え、彼はこのチームでもプレーするようになった。
「しかもアメリカはシーズン制なので、3部リーグは春から夏、大学リーグは夏から秋と、時期が被らないから掛け持ちしてプレーできるんです。この時期にシアトル・サウンダーズの監督から誘いを受けて、大学を卒業後は翻訳会社に就職して働きながら、サウンダーズのセカンドチームで活動しました。ここまでが私のプレー経験です。1997年から木下桂がトップチームでプレーしてました。川崎製鉄(現ヴィッセル神戸)でプレーしていた選手です。彼が日本人初のアメリカでプレーしたプロサッカー選手です。私は98年と99年です」
毎朝4時半に起きて2時間かけてクラブに行き、9時から11時まで練習。そこから翻訳会社に行って仕事をした。
「毎日、こういう生活をしていたら、車は壊れてしまうし、僕の身体も参ってしまってハムストリングを負傷した。クラブから『しっかり治して合流してほしい』と言われたんですが、アメリカのシーズンは短いのでこれは痛い。結局そのままシーズンが終わり、契約をもらえませんでした」
このとき24歳。身体のこと、スポーツ医学のこと、サッカーの技術のことなど、ありとあらゆることを勉強したりもした。そして完全燃焼した。
「これ以上、自分の身体がパワーアップするのは難しい。そう思った瞬間、『選手としてなんとしても』という執念がなくなってしまったんです。24歳から上達していく選手は多い。しかし私は選手としてやり切った。30歳を過ぎても現役を続ける選手は本当に凄いと思います」
現役引退を決めた時期、勤めていた会社が倒産してしまった。貯金を取り崩しながら2、3か月生活していたが、それも底を付きそうになる。サッカーコーチをしている友人が「生活に困っているなら一緒にやらないか」と高野に声をかけた。ピッチに行くとお父さんコーチたちが子どもたちにサッカーを教えていた。やがて、高野は「うちの娘にもサッカーを教えてほしい。謝礼は1時間このぐらいで」と父親のひとりから頼まれた。
「それから噂が広まり、口コミでいろんなところから『教えてくれ』となった。サッカーを教え始めたら、そっちのほうに火が付いてしまった。だから選手としての未練は何もなかった。選手としてはやり切った。アメリカで指導者ライセンスを取り始めたのも、サッカー仲間から『取っておいたほうがいい』と言われたからです。イングランドの指導者ライセンスも、アメリカで取り始めました」
こうして指導者・高野剛が誕生した。
「当時のアメリカのお父さん・お母さんたちはNASL(旧北米サッカーリーグ)でペレ、ベッケンバウアーたちがプレーして、サッカーが流行った世代です。シアトル・サウンダーズがNASLに参加していたということもあり、シアトルでサッカーは人気スポーツでした。サッカーは高校までアメリカの4大スポーツより人気があるんですが、それが大人まで続かず、『アメリカはサッカー不毛の地』と言われていたんです」
アメリカに骨を埋めるつもりだった。
「7年間、アメリカでサッカーを指導しました。ワシントン州内で私の名前も知られてきて、いろいろなところから声がかかり、パーソナルトレーナーをしたり街クラブのアカデミーダイレクターをしたり、本気でやったら年間800万円くらいの収入になるんです。『これは素晴らしいな』と思ってました」
だが、指導者として軌道に乗った高野だったが、ビザの延長に目処が立たなかった。
「これ一本でやりたいのにビザが切れてしまう。この地域にはマイクロソフト(本社レドモンド)やマッキー(同ウッディンビル)といった世界的に有名な会社があり、上層部の人や弁護士などの息子さん、娘さんを私は教えていた。彼らが私のことを『コイツはできるぞ』と認めてくれたので『俺たちがビザのことを何とかしてやる』と申請のことなど調べてくれたんですが、その最中にビザが切れてしまい、日本に帰らないといけなくなった」
出国までの1か月半、荷物をまとめながら「ひょっとして、これはチャンスなのかな」と高野はずっと考えていた。
「2005年、Jリーグが発足して10年余り。俺もJリーグで本当のプロを目ざせるかもしれない。それが無理だったとしても、ビザのことを気にすることなく自分で街クラブを作るのもいい。そっちに気持ちを切り替えよう――。そういう気持ちで帰国しました」
それから月日が経ち、アメリカで指導した子どもたちは成人した。ある親から高野の元にメールが届いた。
「高野、ありがとう。誇りに思ってほしい。あの子は弁護士になりました。あの子はお医者さんになりました。あの子は大手会計事務所に勤めてます。あの子はミス・アラスカに選ばれました。それはあなたの力です。あなたは子どもたちに、何かに打ち込むことの大切さを教えてくれたのです」
「それは彼ら、彼女らの力で成し遂げたことなんだけどな」と感じながらも、高野には思い当たる節もあった。アメリカはマルチスポーツが当然の国。週末、午前中はサッカー、午後はバスケットボールが重なることもある。そのことについて、高野はルールを設けたのだ。
「スポーツをいろいろやることは、私も否定しません。しかし、最優先するスポーツを持ったほうがいい。活動日が重なったらバスケットボールを選んでもいい。だけど、その場合は、うちのチームで次の試合に出ることができない。
一方、アメリカのスポーツ事情もあるので、『年に3回だけは他のスポーツの試合を優先してもいいよ。だけどそれ以上はダメだよ』と少しバッファー(緩衝帯)を設けました。だけど、サッカーをやるときは練習も含めてここで一生懸命やる、と。あれから何年も経ってから『なにかに打ち込むということを教えてくれた』とメールが来ました。誰かの人生に貢献できて嬉しいと思いました」
アメリカでスポーツはあくまでスポーツであって、体育ではないはず。それでも高野の指導に人生訓を得た親や子どもたちがいたのだ。
「当時のアメリカにはMLSがなく、その下部組織もなかったので、街クラブが中心でした。趣味としてエンジョイしたい人たちがあるグループがあれば、『大学の特待生を狙うぞ』という真剣なグループもあって、その間にラインがあるんです。
STVVのアカデミーもエリート(育成)と街クラブ(普及)に分かれているんです。普及はU6からU19まであって、あくまで趣味としてサッカーをやりたい人。エリートはエリート。プロを目ざす子どもたちです。そういうところを目ざしている子どもの親は『人として』という価値観の大事さを知っている人が比較的多いです。特にSTVVのあるシント=トロイデンのエリアはハードワークを飛び切り大切にします。
アメリカでも両方のグループを指導しました。趣味でやりたい子どもたちには、楽しい雰囲気、楽しいドリル、試合環境を作ってあげる。そして『もうちょっとうまくできたら、もっと楽しいよ』というのは教える。だけど上達や向上を目ざすと、彼らにはストレスにしかならない。
一方、『プロを目ざすぞ』『特待生を狙うぞ』という子どもたちは、『そこに行くためにどうしたらいいのか教えてほしい』と思っている。そのためにはこういう技術が必要だ、こういう戦術理解が必要だ、だから規律もしっかりやることも大事だ――ということなんです」
帰国直後は東海大五高校Bチームを指導した。ある日、サンフレッチェ広島の強化部長とスカウトが同校を訪れた。
「スカウトの足立修さん(現Jリーグフットボール本部)は私にとって高校の1年先輩なんです。平清孝先生(現岡山学芸館高校ゼネラルアドバイザー)が『彼のこと、分かるか?』と訊いても、足立さんも13年ぶりなので分かるわけがない。『高野です』『おおっ!』となった。そして『こちらは強化部長の織田秀和さん(現ロアッソ熊本強化部長)だ。何か持ってないのか?』と平先生が言ったんですが、常に私は経歴書を持っていたんですよ(笑)。それで平先生が織田さんに『ジュニアユースかユースで、どこかないですかね』と。その経歴書が後々大きかった」
その後、高野は北から順にJリーグの各クラブを回りながら、面接や練習見学を繰り返す。関西のあるクラブを訪れていた頃、彼の元に足立から「高野、いまお前、何してるんだ? 日当を払うから2週間だけサンフレッチェ広島を手伝ってほしい」と電話がかかってきた。
「ヘッドコーチの影山雅永さん(現JFA技術委員長)がAFCプロライセンスを受講していて2週間いなくなる。そこで人が必要になり、私の経歴書が活きたんです」
当時の広島は対戦相手の分析を横内昭展(元日本代表コーチ、ジュビロ磐田監督など)と影山が担当していた。高野は影山不在時のサポート役だった。
「当時の小野剛監督はFAのインターナショナルライセンスを受けていたので、私と視点や感覚が合うのではということで、入れていただきました。あと、横内さんは東海大五の大先輩なんです」
2週間の予定が1か月に伸び、やがてシーズン最後までやり切ることになった。そして翌2005年シーズンから育成部門コーチとして高野は広島に入団することになった。
「広島駅を降りた瞬間の風景・空気をまだ覚えています。直感的に『ここだな』と感じました。当時、Jリーグで最先端のフットボールをするクラブ、強豪クラブからもお話をいただきましたが、広島が光って見えました。今になって思うのは、キャリアの分岐点に立ったとき、プラス・マイナスを考えて頭の中を整理しても、最後は『えい!』という直感です。その直感を突き詰めるまでに、きちんと宿題をしたり考えたりしておかないと後々後悔することになります。ともかく最後は『えい!』。その後のキャリアもそうでした」
08年にはトップチームで分析を担当することになった。
「当時の広島はJ2で、しかもリーグ戦が3回総当たりということで試合数がとても多かったんです。対戦相手の分析をしていた森保一さん(現日本代表監督)がアウェー帯同メンバーから外れた選手たちの練習も見ていた。監督のミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ)は『相手チームだけでなく、相手の選手一人ひとりの分析が欲しい』と求めてきたので、森保さんひとりではとても分析が務まらない。アカデミーのなかで私の分析の評判が良かったので、こうして森保さんと一緒にトップチームで分析を担当するようになり、共に徹夜しながら仕事をしました」
こういうパターンで得点します、こういうパターンで失点します――。その分析が実際の試合で現れることが多く、高野はペトロヴィッチの信頼を掴んだ。チームはJ1復帰を果たした。
「2009年、ここからが大変だったんです。私はまだJ1を見る力がなかったので、毎回同じ分析内容になってしまう。『これはいかんなあ』と自分でも思いつつ改善できない。自分の力不足もあってこのシーズンで契約が終わり、私もごもっともと思いました」
高野はFAのコーチングライセンスをB級まで持っていたが、A級ライセンスは7回落ちていた。
「イギリスに行こう。これが最後のチャンスだ。これでA級に受からなかったら、自分にコーチの道は向いてない。力がないし、素質もないんだ、と。人生のすべてを懸けてイギリスに引っ越したんです」
2010年、高野剛、36歳のときだった。
<後編につづく/文中敬称略>
取材・文●中田 徹
【記事】後編はこちら! 英国、福岡、タイ、北九州、そしてベルギーへ…波瀾万丈キャリアを歩んだ日本人がアジア初の“世界最難関プロライセンス”を取得するまで【現地発】
【画像】9頭身の超絶ボディ! 韓国チア界が誇る“女神”アン・ジヒョンの魅惑ショットを一挙チェック!
【画像】“世界一美しいフットボーラー”に認定されたクロアチア女子代表FW、マルコビッチの魅惑ショットを一挙お届け!