
アカデミー出身の選手が続々とトップチームに昇格していくシント=トロイデン(以下STVV)。なぜ彼らは小クラブなのに、タレントを囲い込み続けることができるのだろうか。それは育成部長の高野剛の作る個々の選手の育成計画に対し、選手、親、代理人が絶大な信頼を置いているからだ。
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「しかも私にはプレミアリーグでの指導経験と、FA(イングランドサッカー協会)のプロライセンスがあります。これらは大きい。具体的なサッカーの話――、例えば戦術の話、技術の話を親や選手、代理人がきちんと聞いてくれます。もし私がA級ライセンスのままだったり、プレミアリーグのクラブの指導歴がなかったら、私の話に疑問符が付くと思うんです。STVVに来たとき、私はこういう土台ができていたので、早い段階から信頼してもらうことができました」
今回は高野のFA プロライセンス取得までの奮闘と、STVVでの今を紹介しよう。
高野にはプロライセンスより先にA級の高い壁があった。「A級をどうしても取りたい。ダメなら指導者から足を洗う」。そんな覚悟で高野は2010年、イギリスへ渡った。
イギリスに住むためにはビザが必要。だから高野は翻訳会社の職にインターネットで応募して、受かってから渡英した。彼がリーズという地に住み始めたのには、こうした背景があった。しかし、高野の目標はあくまでFAコーチングライセンスのA級取得である。そのためにも、どこかのクラブで指導経験を積んでいく必要がある。
「サンフレッチェ広島時代、分析官として対戦相手の試合に先乗りしていたとき、Jリーグの審判の質向上のために日本に来ていたイングランド人がいました。彼とは連絡先を交換したり、試合会場で会ったりして、しょっちゅう話をしてました。イギリスに引っ越すことになり彼に連絡したら、地域のサッカー協会の人を紹介してもらいました」
さっそく引っ越しの挨拶をすると、「B級ライセンスのサポートコースがある。ちょっとした補習で内容的には面白くないかもしれないが、人と会うには絶好の場所だから行ってみたら」とアドバイスをくれた。そこで高野は後に大親友となるダレンと知り合った。
「ダレンはブリックハウスという11部リーグのチームを指導してました。彼にメールで『今度、練習を見させてほしい』と連絡したら『ウエルカム。うちに来て感想を教えてほしい』と。その次は『今度は練習してよ』となり、『おお、面白いことをやってくれたね。じゃあ次も』『また次も』と続くうちにチームの成績がどんどん上がっていった。
ハダースフィールドタウン(当時リーグ1/イングランド3部相当)はブリックハウスから車で15分の距離なんです。彼らのスカウトの耳に『ブリックハウスの成績が急上昇しているらしく、どうやら日本人指導者が関わっているらしい。今度、呼んでみよう』となりました」
ハダースフィールドタウンとのミーティングの場で、高野はFAのA級ライセンス取得のためにイギリスに来たことを告げた。
「分かった。ライセンスのサポートはうちでもできる。FA指導者ライセンスの講師たちがプロクラブのアカデミーに週に1回来て指導者講習や指導者育成をしてくれる。君のような再試験を受ける人のサポートもある。『何が足りない』『こうしたほうがいい』ということも手取り足取り教えてくれるというサポートもある。だからうちのU13チームを見てほしい」
こうしてハダースフィールドタウンでの指導を始めた頃、「クラブの育成カリキュラムとかフィロソフィーなどを作るからそっちにも加勢してくれ」となった。それがイングランドプロクラブの全アカデミーで一斉に実施されたEPPP(イー・トリプル・ピー)という育成改革プログラムの内容に関するものだった。そのEPPPが結果的にイングランドフットボールと代表チームのレベルアップにつながった。これはのちにJリーグの『Project DNA』の礎にもなった。
「A級ライセンスの最終テストは、後にリバプールのヘッド・オブ・コーチングになった方が担当でした。EPPPのクラブフィロソフィーを作っているときに、その人が自分の考えを引き出してくれたんです。テストの最終合否を出す人が私の情報を全部知っていたので、ある程度テストができていれば合格できた、というのは後になって知りました。こうした流れでA級に合格しました」
その1か月後、2012年1月、サンフレッチェ広島の李忠成がチャンピオンシップ(イングランド2部相当)のサウサンプトンに移籍した。李忠成の代理人、稲川朝弘が「2週間だけでいいから、ちょっと李のことを助けてくれないか」と高野に頼んできた。
勤めていた翻訳会社には10日間の有給休暇があったが、すでに彼は1週間使っていて、とても2週間も休めないはずだった。
「しかし、ここがサッカーの母国イングランドなんですよ。『2週間なのですが、よろしいでしょうか?』って無理も承知で社長に訊いたら『すごいことじゃないか! 行って来い!』となったんです。それからサウサンプトンに行って、チュンソンの身の回りの整理、練習の入り、ロッカールームでのチームメイトとの橋渡しなどをやって2週間が経とうとしました。そうしたらチュンソンが『もうちょっといてほしい』と。またコーチ陣からも『高野にもう少しいてほしい』という話が出てきたんです」
コーチたちは、自分たちが言っていることをキチンと李忠成に伝わっているのかどうか心配なので、高野のことをいろいろ試してサッカーの話をしたりする。そのテストに高野は受かったわけだ。こうして翻訳会社の有給休暇が3週間伸びた。
この間にサウサンプトンの出した答えは「高野は使える」。プレミアリーグに昇格した2012-13シーズン、高野はサウサンプトンのコーチングスタッフになった。
12月上旬、レセプションパーティーの場でナイジェル・アドキンス監督から「お前、もうそろそろビザが切れるな。ビザを申し込むのに肩書は何がいい?」と訊かれた。それは事実上、契約延長のオファーだった。しかし直後に指揮官がマウリシオ・ポチェティーノに代わったため、サウサンプトンを退団することになった。
「プレミアリーグは試合を決める差が本当にわずか。ポジショニングの10cmのズレがゴールに繋がる。そういうのはなかなか日本では見られない。試合のスピードの速さだけでなく、スタッフとしても日々の取り組みのスピード感だとか、プレッシャーを負いながらコーチ陣と監督が日々、活動をしていかないといけないのかとか、現場でないと見えないものがいっぱいありました」
イギリスのビザが切れ、再び日本に帰った高野はアビスパ福岡に入った。仕事はマリヤン・プシュニク監督の通訳兼アシスタントだった。郷里のクラブで働く喜びに「自分の中で、身体の奥底深くからエネルギーが湧き出てくる」のを実感しながらタスクに打ち込んだ。
「私が地元のクラブに入って、家族、恩師、友人、知人が嬉しく思ってくれているのを見て、活力とか元気とか、そんな言葉では表現できないパワーが湧き出てきたのを感じた。そのパワーを地元に還元し、地域のパワーを循環させるような地域貢献をしたかった。だからスタジアムにお越しになったサポーターの方々、お客様、スポンサーの方々が喜んでいる姿を見て、ひと仕事を終えたホッとする一瞬があった。だから引き分けの試合でもハードワークして『よく頑張った』と拍手が沸いたときに『明日の月曜日から皆さんがパワーを発揮できるような力を起こすことができたかな。地元で働くというのはいいな』と思いました」
アビスパ福岡で2年働いた後、「そろそろ監督をやりたい。A級ライセンスしかないけれど、どこでできるだろうか」と思っていたところ、知り合いの代理人がタイのクラブを紹介してくれた。BBCUという2部リーグのクラブを1部に上げるのが高野のミッションだった。「規律の高野」はタイでどのようなアプローチをしたのだろうか。
「タイの環境は緩いので、私が来る前は選手の到着が30分遅れることもあったらしい。しかしBBCUは、東大クラスの大学(チェラーロンコーン大学)のサッカー部が独立してプロになったので、オーナー、コーチ、選手には大学OBがたくさんいるんです。オーナーはしっかりした人で、とても規律的な人でした。タイ人から見る日本人は規律正しさのスタンダードが高いので、そういう仕事をしてくれる監督を雇いたいという意向のもと、代理人を通じて私が呼ばれました」
オーナーはコーチに「選手の出席名簿を取るように」と命じ、遅刻した選手は給与がカットされるので、高野が特に何もしなくても練習時間に遅れることなく、むしろ早めに全員集まった。
「だけど取り組む姿勢は別物じゃないですか。特にリーグ戦で厳しくなってきたとき。選手の気持ちの中には『タイ的当たり前』『タイ的常識』があるので、僕が要求することに対して摩擦が生じることがあったんですね。それを解決するためには話し合いです。僕も妥協しながらも『ここはこうする』と通す。
タイは年功序列の国。オーナー、強化部長の下にいたのがヘッドコーチで、僕の右腕でした。彼は元タイ代表の選手で人としてもしっかりしてました。彼が『僕も高野の考えに疑問が残る。でも高野がこうすると言った以上、やるしかない。やろう』と他のコーチを促し、そこから選手に伝わったのは大きかった。だから、最後の方で踏ん張ることができ、1部に昇格できました」
オーナーや強化部長にスタメンや交代策を操作されることもあった。開幕戦直前、ロッカールームで選手が着替えているときに、オーナーから「右SBを代えろ」という指示が入った。高野は猛烈に反論したものの受け入れるしかなかった。
「試合中の選手交代もオーナーの意向がコーチ陣に渡っていた。だけどリーグ後半戦は『昇格したいんだったらここの采配は私に任せてくれ。別にクビになってもいい。しかしここで勝ちたいのなら、私の采配は間違いないから』という状況でした。それで勝ったから良かったものの、負けてたらクビが飛んでたかもしれない。本当によく昇格できました。
私はタイのサッカーや指導環境、タイ文化や歴史、タイ人の思考の仕方などを深く勉強していたので、彼らが何を見ることができ、何が見えないか分かっていた。それも考慮しながらコーチたちと話し合って、全員で協力し合ったのが結果につながったと思います。コーチ、選手たちの理解を含めて、規律があったからこその昇格でした」
新シーズンの編成のこと、オーナーの試合への関与のことなど、高野にとっては飲めないことも多くBBCUから1年で身を引いた。そして16年からギラヴァンツ北九州のアカデミーダイレクターに就任した。「お前、タイから戻ってきたのか。なら一緒にやろう」と誘ったのはアビスパ福岡時代の強化部長、野見山篤だった。
「結婚したばかりで、子どもも産まれるからご両親の近いところで働けたらいいね。カテゴリー(当時J3)とか給料とか云々ではなく、地元で働けることがありがたいね――と妻と話しました。妻は野見山さんと同じ飯塚高校出身で、私にとっても彼女にとっても北九州は同じ福岡県ということで地元でした」
ギラヴァンツ北九州での1年目の途中、突然、FAから高野宛にメールが届いた。そこには「あなたはプロライセンス受講資格があるので応募しませんか?」と書かれてあった。実はアビスパ福岡時代、「監督をやろうにもA級までしか持ってない。だけどプロライセンスを受講するハードルは高いし、お金が何百万円もかかってしまう」と悩んでいた。しかしBBCUの給料やボーナスなどで貯金ができていた。さらに妻も少しお金を工面してくれた。
「ギラヴァンツ北九州には『プロライセンスの受講資格ができたら行ってもいいですか?』とあらかじめ確認していました。イギリスを1回往復するのに30万円くらい。それを2年間にかけて8回。受講費が200万円。だから450万円くらいかかった。だけどUEFAのライセンスの中でもFAの資格は最高峰のレベルで、日本人はまだ誰も行ったことがない。
450人の中から2次テストで36人まで絞られて、そこから27人まで絞られました。最終テストはセント・ジョージズパーク(FAナショナル・トレーニングセンター)に行って1泊2日で受けるんです。受付のところで名前を書いていたら、デカいやつが入ってきた。それがマンチェスター・ユナイテッドのキャプテンだったネマニャ・ヴィディッチだった。その後に来たのがニッキー・バット。『こういう人たちと受験するんだ。自分は恐ろしいところに来たな』と思ったらめちゃくちゃ脂汗をかいた。
FAではオン・ザ・ピッチの戦術的な指導はA級ライセンスまでで全部終わらせるんです。プレミアリーグの監督はクラブの顔であるし、クラブの経営も左右するので、クラブの中のリーダーシップ、人のマネジメント、判断力を持たないといけない。戦術の授業では現在の試合を見ながら『これからの5年で戦術はどうなるか』というのを予測を建てながら、監督は活動していくことを学ぶ。
コース中のディスカッションは『フットボール最前線の、先見性のある話』に及んでいくことが多かった。そこのディスカッションに貢献できない人は自然と話から置いていかれる。聞いた話によると、だからこそ最終テストでは頭の回転の速さ、記憶力、人間関係の構築力なども試されていたとのこと。受講生27人でのディスカッションは、進むテンポがすさまじく速く、一コマ50分だけでも頭が疲労困憊した。講義1回の滞在はおよそ2泊3日ぐらいの日程でしたが、とても濃かった」
2018年にFAのプロ指導者ライセンスを取得した高野は同年、Jリーグの育成改革プロジェクト『Project DNA』に携わり、21年からSTVVに活躍の場を移した。
日本のIT企業、DMM.comがSTVVを買収したとき、アカデミー出身の選手はトップチームに数名しかいなかった。しかし高野が育成部長を務めるようになると、一気にアカデミーからトップチームに昇格していく選手が増えた。特に昨季、23-24シーズンはDFマット・スメッツ(現ヘンク/ベルギー代表)、MFメティアス・デロージュ(現ヘント)、FWヤルネ・ステウカース(現ヘンク)といった10人のアカデミー出身選手と、日本人選手が噛み合い、成績は9位と中位だったが艶やかなフットボールでベルギーのサッカーファンを魅了した。
今季は残念ながらトップチームは残留争いの真っ最中で、成績は振るわないが、そのことを考慮しても6人のアカデミー出身者がメンバー表に名を連ねることがあるのは凄い。特にベルギーカップ準々決勝でヘンクと対戦したときには、両チームメンバー総計40人のうち合計8人ものSTVV育ちの選手でメンバー表が埋まった。
しかし、ベルギーサッカー界のアカデミーは仁義なき戦いが横行し、ビッグクラブが根こそぎタレントを引っ張っていってしまう。小クラブのSTVVは、どのようにしてタレントをクラブに引き止めているのだろうか。
「思春期の遅い選手やB級クラスのタレントをまったくお金を使わずして確保し続け、着実に育てていくことに関しては、私たちは自信を持っていいと思います。その秘訣は選手、親や代理人との信頼です。13歳、14歳の選手にはもう代理人がいますから、親と媚びることなく面談して、親、選手、代理人から信頼してもらえるよう、持っていくしかないですね」
親や選手の信頼を掴む方法のひとつが、選手一人ひとりの成長を予測した資料だ。
「マット・スメッツ、マッツ・カウパースやアルトゥール・アレクシスたちには、こうした育成計画をグラフにして見せてやってきて、今はセカンドチームで頑張ってます。すると他の選手が『お前、どうしてこんなに伸びてきたんだ』という話になってロッカールームがざわついて、それが親たちにも伝わり波紋を呼んだ。
僕が『この選手はこうなります』『この選手をこうしていく予定です』と両親に話したことが1年、2年経って叶うという確実性がある。しかし『トップチームに行けるかどうかはさすがに分かりませんよ。しかしトップチームの扉の手前までは、僕が確実に連れていきます。ただ、本人のやる気が続き、彼が自分の成長に責任をもって行なうことができればという条件が付きます』とは言っております」
具体的なミーティングの模様はこうだ。
「マット・スメッツはサッカーへの姿勢がとても良く、ご両親も落ちついた方たちです。『息子さんはこういう感じでアンダー18、セカンドチームに上がっていくことを考えてます。特にすごい身体能力があるわけではないけれど、危機察知能力がとても良いし、ボールを持っても落ちついていて、良い土台があるから、私としては息子さんにSTVVで関わらせてもらいたい』という風に進めました」
それが現実のものになってロッカールームがざわついたのだ。
「もちろん、これまでに失った逸材もいましたよ。『お金は大事だし』『プロ契約をもらえるし』とか。だけど今季、プロ契約をしてトップチームでベンチ入りし続けている17歳のジェイ・デイビッドは2年前にフランスからオファーが来て、その条件もかなり高額だった。そこで私が『STVVは予算がなくお金を出せないけれど、ここで本気でやったら間違いなく良くなる。そのことを信じられるのなら、残ってほしい』と話したら『高野に任せました』と言ってくれて今がある。彼がトップチームでデビューしたときはお父さんが私のところに抱きついてきました(笑)」
18歳の青年がアメリカへ渡ったとき、サッカーで生計を建てるようになるとは夢にも思っていなかった。しかし高野の履歴を辿ってみると、サッカーの指導者はまさに彼の天職だったのだろう。「ここから世界へ」がSTVVのスローガン。それは日本人選手だけではなく、51歳の高野も目ざすところである。
<了/文中敬称略>
取材・文●中田 徹
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