李氏朝鮮の両班、彼らは多くの奴隷を必要とする生活を送っていた / credit:Wikimedia Commons

すぐお隣の国でありながら、朝鮮半島の歴史を知っているという人は少ないかもしれません。

朝鮮半島には14世紀末期から20世紀初頭にかけて李氏朝鮮という国家が存在していました。

李氏朝鮮は、500年近い長い歴史を持つ王朝であり、その間に多くの文化的、社会的な成果を上げています。

特に、15世紀のセジョン大王(世宗)の治世は、ハングルの創造や科学技術の発展など、多くの業績を生み出し、韓国の歴史においても誇り高い時代とされています。また、儒教に基づく社会制度や倫理観は、現代の韓国社会にも深く根付いており、その影響は今も色濃く残っています。

しかし、長きにわたる王朝が必ずしも安定して続くわけではありません。特に李氏朝鮮末期には、内政の腐敗や社会的不正義が深刻化し、国の状況は極めて厳しくなりました。

今回は、この時期の問題点に焦点を当て、李氏朝鮮の末期の社会の暗黒面について紹介してきます。

なおこの研究は、小川隆章(2020)『近世朝鮮社会の4つの特徴に関する付加的考察』環太平洋大学研究紀要17巻に詳細が書かれています。

目次

ガチで箸より重いものを持たない!? 支配層「両班」と人口の4分の3を占めた奴隷反社と同レベルだった李氏朝鮮末期の役人、宵越しの銭しか持てない庶民やる気のない裁判官、中世レベルの拷問を行っていた拷問官

ガチで箸より重いものを持たない!? 支配層「両班」と人口の4分の3を占めた奴隷


李氏朝鮮の両班、彼らは多くの奴隷を必要とする生活を送っていた / credit:Wikimedia Commons

李氏朝鮮は、実に不思議な奴隷制度の舞台でした。

李氏朝鮮の奴隷制は、まるで時の流れを忘れたかのように、前近代世界のどこよりも緻密で壮大な制度として存在していたのです。

1663年、ソウル北部では、住民の75%が奴隷という驚異の数字を示す資料がありました。

まるで、普通の町の住民のうち、4人に3人が奴隷であるかのような、非常に高い割合で奴隷が暮らしていたのです。

ここまで李氏朝鮮に奴隷が多く存在したのは、当時の支配的な階層である両班(ヤンバン)が多くの奴隷を必要とする生活スタイルをとっていたからです。

というのも朝鮮の両班層は、読み書きができる教養のある層でしたが、肉体労働は他人任せ。両班は、まるで絵に描いたような高貴な存在であり、自分の手足として奴婢を必要とするような人たちだったのです。

彼らは、身体を動かすこと自体を、まるで忌避すべき儀式のように感じ、名実ともに箸より重いものを持たない生活を送っていたようです。

そのことは西洋の外交官がレクリエーションとしてテニスを行っているのを見て、「どうしてあのような労働を下人にやらせないのだ」と呆れたという逸話さえ残っています。

(広告の後にも続きます)

反社と同レベルだった李氏朝鮮末期の役人、宵越しの銭しか持てない庶民


李氏朝鮮の役人の横暴は当時の基準でも批判されるものであった / credit:いらすとや

また西洋人の記録によれば、李氏朝鮮末期の役人は、いつもどこかでこっそりと庶民の財産をむさぼる、言わば“公盗”のごとき振る舞いを繰り広げていました。

科挙の試験(両班になるためには表向きは科挙に合格しなければならなかった)もコネと金銭で決まっていたのです。

もし、庶民が懐に余裕を見せれば、役人たちは「ちょっと金貸してくれよ」と無理をいい、拒めば投獄、鞭打ちという、まるで中世の拷問のような仕打ちが待っていました。

そして、借りた金は一向に返されることはなかったといいます。

もちろん当時の役人の倫理観は現在とはかなり異なっており、日本を含め世界中で賄賂が横行し、庶民には厳しい年貢の取り立てで苦しめていた事実はあります。

とはいえ、李氏朝鮮における官僚の腐敗は、やはり一段と際立っていたようです。

そのことは当時の李氏朝鮮に滞在していた外国記者が「役人はみな盗賊」というタイトルで新聞に記事を出したり、李氏朝鮮に偵察に行ったロシアの貴族が報告書に「朝鮮慣習法の基礎は収奪である」と書いたりしていたことからも伺えます。

その結果、庶民は自らの生活費を何とか守るため、家族がぎりぎり生活できるだけの金額しか稼がないようになりました。

どんなに庶民が苦労して稼いだとしても、役人たちはそのたびに新たな略奪の手口を編み出したということもあり、庶民はもし思わぬ臨時収入があったとしても、資産を築くことなくすぐに使い果たしていたのです。