エミュー、オーストラリアを代表する鳥である / credit:pixabay

1932年、オーストラリアの西部に位置する広大な大地で、奇妙かつ滑稽な戦争が勃発しました。

その名も「エミュー戦争」。

この戦争は、飛べない大型鳥エミューと、最新鋭の武器を持つオーストラリア軍との間で繰り広げられたのです。

しかし、その結末は誰もが予想しなかったものでした。

この記事ではエミュー戦争とその顛末について紹介していきます。

目次

エミュー、襲来逃げ足の速いエミューに歴戦の猛者も苦戦エミューに負けたオーストラリア軍

エミュー、襲来


エミューによって荒らされた畑、オーストラリアの農家にとってエミューはまさに天敵であった / credit:wikimedia Commons

1920年代後半、広大なオーストラリア内陸部は、希望と新たな挑戦の舞台となっていました。

第一次世界大戦から帰還した退役兵や新たな開拓者たちが、広大な大地に根を下ろし、未来を夢見て農業に邁進していたのです。

しかし、同時に厳しい経済情勢が彼らを襲い、世界恐慌の影が色濃く迫る中、農民たちは収入減少と生活苦に直面していました。

そんな中、自然界からの予期せぬ襲来が、彼らのもとへ更なる混乱をもたらします。

繁殖期を終えた数万羽にのぼるエミューたちは、乾いた大地を横切り、求める水や餌を求めて広がる農地へと進入したのです。

果敢な生命力と俊敏な足取りで、エミューたちは手入れの行き届かない畑を次々と荒らし、耕作中の作物をむさぼり尽くしていきました。

農民たちは、長年の努力で育んだ収穫に対して、容赦ない自然の猛威に立ち向かうことを余儀なくされ、その苦悩は計り知れなかったのです。

日々の作業に加え、突如現れたエミューの大群は、まるで自らの意志を持って攻め入るかのように、堅実に農民の生活基盤を脅かします。

防護柵を軽々と破り、広がる野原を自由自在に駆け抜ける姿は、オーストラリアの大地に根付いた自然の力を如実に示していました。

農民たちは、荒れ狂う風と砂塵、そして突如として現れるこの飛べない鳥の襲来に、日々の労作の中で絶望と闘いながら、どうにか生計を立てるために奔走したのです。

このように、エミューの侵攻は、当時の農民たちにとって単なる野生動物の出現以上の意味を持っていました。

それは、自然の予測不可能な力と、人間の努力がぶつかり合う壮絶な戦いの始まりであり、農民たちの絶え間ない奮闘の日々の象徴でもあったのです。

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逃げ足の速いエミューに歴戦の猛者も苦戦


国防大臣のジョージ・ピアース卿、後にエミュー戦争大臣と呼ばれるようになった / credit:wikimedia Commons

農民たちの悲哀に対する政府の応えは、決断的かつ劇的なものでした。

1932年11月、経済的苦境に立たされた農家の嘆願に応え、国防大臣ジョージ・ピアース卿は、かつての戦場で鍛えられたオーストラリア陸軍の一部隊を派遣する決定を下します。

指揮を執ったのは、G・P・W・メレディス少佐。

彼は、最新の軽機関銃と1万発にのぼる弾薬を手に、エミュー駆除作戦に挑むため、兵士たちを率いました。

これほどの武力をもってすれば、いかなる敵もひとたまりもありません。

まして敵はあのエミュー。

今でこそ研究が進み、エミューの意外な知性にもスポットライトが当たりつつあるものの、当時は研究がほとんど進んでいなかったこともあり、「世界で最も愚かな鳥」とまで言われていました。

しかし、予想とは裏腹に、出動初日から戦場は混沌と化したのです。

駆除作戦が行われた時、雨季の影響で大地は乾いておらず、エミューたちは広大な農地を巧みに分散しながら移動していました。

待ち伏せ作戦が試みられるも、予期せぬエミューの俊敏な動きにより、狙撃は思うような成果を上げられなかったのです。

兵士たちは的を絞りにくい相手に次々と弾丸を放ったものの、その効果は限定的でした。

まるで、機関銃の連射すらもエミューの機敏なステップに太刀打ちできず、ただ弾薬だけが無駄に消費される始末だったのです。

次第に、戦況は露骨な失策へと転じます。

オーストラリア軍は、短期間で数羽のエミューを仕留めるに留まり、期待されていた「大掃討作戦」は、まさに自然の猛威に屈する形となりました。

こうした戦闘の開始は、当初の兵士たちの自信を打ち砕くと同時に、後に「エミュー戦争」として語り継がれる、奇妙な戦局の幕開けを告げたのです。