
なにかと世界のニュースを賑わせているイーロン・マスクには食の道で活躍する弟と芸能関係の会社を経営する妹がいる。そんなバイタリティ溢れる3人を育て上げた母、メイ・マスクが語る「子どもの興味を伸ばす秘訣」とは。
彼女がこれまでの人生を語った『72歳、今日が人生最高の日』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回のうち1回目〉
12歳のときにコンピュータを手に入れたイーロンの天才性
どうやってここまで成功した子どもたちを育てたのかと、よく尋ねられる。わたしは子どもたちが興味を抱いたことをやらせただけ。
わたしは子どもたちを愛しているし、子どもたちが成し遂げたことすべてを誇りに思っている。
いちばん上の息子であるイーロンは、環境を守るために電気自動車をつくり、ロケットを飛ばしている。真ん中の息子のキンバルは、産地直送食材のレストランを開き、行政の援助が行き届いていないアメリカじゅうの学校の畑で、果物や野菜の育て方を教えている。末っ子のトスカは、芸能関係の会社を経営し、ベストセラー小説を原作とする恋愛映画のプロデューサーと監督をしている。3人とも興味はばらばら。
わたしときょうだいたちもそうだ。わたしたちはみな、それぞれ違う道を進んだ。両親は子どもたちがそれぞれ異なる関心を抱くことを喜んで応援してくれた。同様に、わたしの子どもたちも幼いころから違うことに興味を示して、現在に至るまでその興味を抱きつづけ、その対象を愛している。
子どもが必要としているときは、励まして手を貸した。助言を求められたときは、アドバイスした。この本ではなんとか長くしているけれど、わたしの助言はいつもとても短い。
キンバルがインスタグラムで、そのことについてとてもうまく表現している。「わたしの人生において、母(@mayemusk)はわたしを導いてくれました。
69歳で〈カバーガール〉のアンバサダーになっただけでなく、ふたつの大学で栄養学の理学修士号を取得し、つねに本物の食べ物(#realfood)に情熱を燃やしています。わたしにとって母は、これまでもいまも、ずっと発想の源なのです。
本物の食べ物を植え、育て、食べる力について教育する自分の(@biggreen)を母が応援してくれることに感謝しています。ありがとう、ママ!」
子どもたちの場合は、12歳になるころには将来の仕事となることに興味を抱いていた。
子どものころ、わたしはイーロンがなんでも読むことに気がついた。わたしも読書が好きだったけれど、読み終わった瞬間にあらすじを忘れてしまう。イーロンはその逆で、読んだものはすべて覚えていた。いつも情報を吸収していた。
わたしたちはイーロンを「百科事典」と呼んでいた。『ブリタニカ百科事典』と『コリアーズ百科事典』を読んで、すべて記憶していたから。だから「天才少年」とも呼んでいる。何だって質問できた。まだインターネットがない時代に。いまなら「インターネット」と呼んでいるはず。
イーロンは12歳のときに初めてコンピュータを手に入れた。それは1983年のことで、コンピュータは、とても、とても、とても新しかった。
イーロンはその使い方を覚えて〈ブラスター〉というゲームのプログラムを開発した。わたしはそのゲームをモデル学校に来ていた大学生たちに見せた。
すると、コーディングに使うショートカットをイーロンがすべて知っていることに驚いていた。その大学生たちはコンピュータ科学を学んでいる2年生か3年生だったのに、すっかり感心していた。
そこでわたしは、コンピュータ雑誌にゲームを送ってみるよう、イーロンに勧めた。
イーロンが〈ブラスター〉を編集部に送ると、500ランド(500ドル)が送られてきた。おそらく雑誌側は、イーロンが12歳だと知らなかったろう。ゲームの掲載誌はイーロンが13歳のときに出版された。そのあとイーロンが何をするつもりなのか、わたしにはわからなかったけれど。
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母は料理ギライなのに息子は料理人に
キンバルは小さいとき、食べ物がとても好きだった。12歳のとき、食事係になり、家族のために料理を始めた。おいしいものを食べるには自分がつくらないとだめだとなれば、進んでつくった。
キンバルは、わたしと一緒に食料雑貨店に行くのが好きだった。一緒に市場へ行くと、キンバルはピーマンを手にしてにおいをかいだ。わたしはよく、「いったい、あなたはどこから来たの?」ときいたものだ。わたしは料理に喜びをまったく見出せなかった。子どもたちには健康によいものを食べさせたけれど、ごく簡単なものだ。ピーナッツバターのサンドイッチ、豆、それにニンジン。
キンバルは、初めて見た野菜を選んでは、それを使って料理した。また、その日にとれた新鮮な魚を見つけては、トマトやレモンやタマネギと一緒に焼いた。生まれながらの料理人だった。
キンバルが得意としていたのは、野菜料理。野菜は手頃な値段で手に入れられるので、理想的だった。キンバルがつくったものは、すべておいしく、わたしのさえない料理よりはるかにすばらしかった。
家族でトロントに移ると、キンバルは、イーロンがガールフレンドのためにつくれるようにと、カニを使ったニョッキ・アルフレードのつくり方を教えていた。
最近になってキンバルから、自分がどんな仕事を選ぼうとも、ママはいつも応援してくれると思っていたと言われてうれしかった。
キンバルは経営を学び、インターネットで起業し、ニューヨークのフレンチ・カリナリー・インスティテュートで料理を学んだ。わたしはよく、キンバルの勤務時間が終わる午後11時に学校の食堂に行って、一緒に食事をした。
そして、キンバルがコロラド州ボルダーに移って、居抜き物件で〈ザ・キッチン〉というレストランを開いたときは、それまで使われていたコンロと冷蔵庫をぴかぴかに磨き上げた。残念ながら、どちらも取り替えられてしまったけれど!
キンバルは、とても長い道のりをたどった。自分の子どもたちとタイヤのチューブでそり遊びをしていたときの事故で首の骨を折ると、たっぷり時間をかけて、人生でほんとうにやりたいことについて考えた。
そして、情熱を注げるのはレストランだとわかり、アメリカの真ん中で産地直送食材のレストランを開いて、非営利団体〈ビッグ・グリーン〉を立ち上げた。行政の援助が行き届かない学校で畑仕事を教える活動だ。
また〈スクエア・ルーツ〉という会社も起こして、駐車場の中古コンテナで畑をつくって都会型農家になる方法を若い起業家に教えはじめた。
キンバルが12歳のころに大好きだったことを考えると、まさに理にかなっている。