防寒だけでなく、ファッションの一部としても手袋は真冬のマストアイテム。今回はその手袋にまつわるちょっと怖いエピソードを、フランス文学者の鹿島茂さんが愛猫グリ(シャルトリュー 10歳・♀)とともに紹介します
手袋はオシャレのために生まれた
真冬のパリに出掛けるときに絶対に欠かせないのが手袋だ。
パリは東京よりもはるかに緯度が高いから、寒さの質がちがう。指の先まで凍りつき、「かじかむ」という言葉はこんな場合に使うのだと思ったりする。こういうときには、どこのだれかは知らないけれど手袋を発明してくれた人に心からありがとうと言いたい気持ちになる。
しかし、手袋の歴史をひもといてみると、手袋が進歩したのは、つまり親指以外の4本の指をまとめて包むミトンではなく、5本の指が分かれたタイプが出現したのは、防寒用以外の目的で手袋が使われるようになってからのことらしい。
すなわち、宗教儀式で祭壇に手で直接触れないようにするためと、もう一つはオシャレのためである。
なかでもオシャレ手袋の歴史に大きな足跡を残したのが、メディチ家からフランスのアンリ二世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスである。
カトリーヌはさほどの美人ではなかったが、手足とりわけ手が美しいのが自慢で、お抱えの調香師ルネにハンド・クリームを調合させ、夜寝る前には必ずこれを手にすり込んで、同じくルネの作った特製のなめし革の手袋をはめて床についたといわれる。これが手袋流行のきっかけになった。王妃の身にまとうものならなんでも右へならえするのが宮廷人のつねだからである。
ところが、のちにそれが徒(あだ)になって命を落とす者が現われた。なぜか?
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手袋に仕込んだものは
当時のなめし革の手袋は人尿でなめすことが多かったので、匂い消しのために香水を染み込ませる習慣があったが、その香水もルネが作っていた。フランスにはまだ調香師というものが誕生していなかったからである。
イラスト◎岸リューリ
宗教戦争で国論が二分され深刻な対立が起こったとき、カトリーヌ・ド・メディシスは政敵を亡き者にするため、メディチ家の伝統であった毒殺に訴えたが、そのときに利用されたのがこの手袋だった。というのも、高級手袋と香水を一手販売していたルネは、カトリーヌがそのために連れてきた毒薬の調合師でもあったからである。
のちのアンリ四世の母ジャンヌ・ダルブレもカトリーヌから贈られた手袋の遅効性の毒で殺されたという噂が流れたほどである。
鹿島茂 著『クロワッサンとベレー帽
ふらんすモノ語り』(中公文庫)
だが衣服の流行というのは恐ろしいもので、こんな事件があってもフランスの宮廷では手袋はいっこうにすたれなかった。流行は善悪どころか恐怖心さえ超越しているのである。
【グリの追伸】飼い主が一週間、パリに行っていましたので、ひたすらお留守番してました。ひどいじゃないかと、思い切り、恨んでやりました。
恨んでるところです
photos by Shigeru Kashima