阪神淡路大震災は、29年前の1月17日の早朝に発生。福岡県西方沖地震は、19年前。その後に、東日本大震災、熊本大地震。そして2024年の元日には、能登半島にも…。その度に、人間は、自然の前には無力だなぁと実感する。

ワタシ(中村修治)は、もう還暦を過ぎた。若い人たちに、改めて書き遺しておきたい!!その安心も、安全も、そして自由も、タダではないのだよ!!

私たちは、公共を生きているのだよ。

そこにあるはずの道は寸断され、蛇口を捻っても水が出ない。明かりが灯されるのをみんなで凍えて待つ。数分前まで、当たり前にあった便利を失う。そんな報道に触れる度に、安心も、安全も、みんなで作り上げたものだなぁ!?と、改めて実感する。

安心も、安全も、タダではないのである。みんなが一生懸命つくって、一生懸命維持してきた。そこには、莫大なお金がかかっていて、そこで生まれた価値を対等にシェアしているだけのハナシである。

日本に生まれて暮らすと、安心や安全はタダだ、という認識になってしまうが…ここで改めて言わせてもらう。私たちは、公共を生きているのだよ。いつも、誰かの力によって生かされているし、私たち自身も、誰かの役に立って、この公共は成立している。

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不断の努力はしているのか!?

日本国憲法第十二条には、日本国民にとっての“人権や自由”とはどういうものか!?が記されているのをご存知だろうか!?

“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。”と。

人権も自由も、不断の努力によって保持することが、国民に課せられているのである。生まれた時から保証されている人権や自由なんてなくて、それらは、先人たちが守り続けてくれたもので、今後も、不断の努力で守り続けなくてはならないわけである。

表現の自由を盾に、何でも言っても良いような風潮があるが、そもそもが違う。表現者は、その自由が公共の福祉のために責任を負っているのか!?を自省する必要があるのである。何でも自由や平和を叫べば良いってもんじゃない。