2019年5月28日に発生した「川崎市登戸通り魔事件」では、51歳の男がスクールバスの停留所で児童や保護者を刺殺した後、自殺した。
この事件以降も、東京の京王線の列車内で火を付け、刃物で乗客を刺した25歳の男が逮捕後「誰でもいいから2人くらい殺して死刑になろうと思った」と供述した事件、さらに大阪市の心療内科クリニックで、通院患者の1人だった61歳の男がガソリンをまいて火を放ち、25人を殺害し、本人も死亡した事件など、「拡大自殺」と考えられる無差別殺傷事件が続発している。
「川崎市登戸通り魔事件」から5年を迎えるに当たり、「拡大自殺」型の犯行が後を絶たない理由を分析し、背景に潜む構造的要因について考察したい。
「拡大自殺」とは何か
そもそも、「拡大自殺」とは何か。これは精神医学用語であり、「自分はもうダメだ」と人生に絶望して自殺願望を抱いた人が「1人で死ぬのは嫌だ」「自殺するのは怖い」という理由から、他人を道連れに無理心中を図る行為を指す。
いずれの事件にも共通するのは、うまくいかない自分の人生に嫌気が差していることだ。その背景には、長期間にわたる欲求不満や孤立がある。さらに、失職や別離、経済的損失や困窮などの喪失体験に直面し、本人が「自分の人生はもう終わりだ」と思い詰めた末に、「拡大自殺」への傾斜を深める。
復讐願望が強いほど「拡大自殺」に向かう
なぜ1人で自殺せず、他人を道連れにして「拡大自殺」を図るのかという疑問を抱く方は多いだろう。
そもそも、自殺願望は、たいてい他人への攻撃衝動が反転したものだ。他の誰かに怒りや恨みを抱いているが、それを直接伝えにくいとか、「たとえ伝えてもどうにもならない」と無力感を抱いているとかいう場合、その矛先が反転して自分自身に向けられる。こうして自殺願望が芽生えることは、自分を苦しめた相手の名前を遺書に書き残す自殺者がときどきいるという事実からもご理解いただけるだろう。
逆に、自殺願望が芽生えたとき、その矛先が再度反転して他人に向けられることも、容易に起こりうる。そうなると、「拡大自殺」に走ることになる。
それでは、単独自殺に向かうのか、それとも「拡大自殺」に向かうのかの分岐点になるのは一体何か。それは復讐(ふくしゅう)願望の強さにほかならない。復讐願望が強いほど、「自分だけ不幸なまま死ぬのは嫌だ」「1人で死んでたまるか」という気持ちが募り、それに比例して「少しでもやり返したい」という欲望が芽生える。だからこそ、できるだけ多くの人々を巻き添えにして「拡大自殺」を図ろうとするのだ。
強い他責的傾向も……
欲求不満が強く、孤独な人ほど、復讐願望を募らせる。それに拍車をかけるのが、自分の人生がうまくいかないのは「他人のせい」「社会のせい」と考え、何でも責任転嫁する他責的傾向である。
この他責的傾向は、現在の日本社会にまん延している。政治家や企業のトップをはじめとして、誰もがうまくいかない原因を外部に探し求め、他人や環境のせいにして責任転嫁する。
うまくいかない原因が自分にあるとは思いたくない気持ちは、わからなくもない。誰にでも自己愛がある以上、自分が悪いとは思いたくないのは自然の流れかもしれない。だが、責任転嫁ばかりする人だらけで、“一億総他責社会”ともいえる状況は、「拡大自殺」がなくならない一因として見逃せない。
格差の拡大と固定化が「他責的傾向」を助長する
もっとも、「うまくいかないのは能力も努力も足りないから」「負け犬になるのは自業自得」などとすべて自己責任にしてしまうのは、いかがなものか。なぜかといえば、格差の拡大と固定化によって、「努力しても報われない」と感じる人が増えているからである。
現在、「平等主義国家として知られる日本は、1990年以降、平均生活水準が低下しただけでなく、富裕層とその他大勢のあいだの格差が大幅に拡大している」状況だ(『新しい封建制がやってくる』)。実際、「日本は先進国のなかでもかなり所得格差の大きい国になっている」うえ、「G7の国々のなかで最悪の相対的貧困率である」(『資本主義の宿命』)。
しかも、格差が拡大しただけでなく、社会的流動性の低下によって固定化している。それを端的に示すのが、最近はやっている「親ガチャ」という言葉だ。この言葉は「どんな親の子として生まれるかによって人生が左右される」ことを意味する。「親は選べない」というある種の諦観もこめられている。
「親ガチャ」という言葉が多用されるのは、自分の能力と努力で人生を切り開いてゆけるとは思えない人が増えたからだろう。それだけ親の所得格差によって生まれる教育格差が大きいわけで、日本社会は「ペアレントクラシー」といえる。「ペアレントクラシー」とは、「家庭の富(wealth)と親の願望(wishes)が子どもの将来や人生に大きな影響を及ぼす社会」を意味する(『ペアレントクラシー』)。
「川崎市登戸通り魔事件」で自殺した男も、「ペアレントクラシー」と無縁ではいられなかったように見える。幼少期に両親が離婚し、親権を持った父親が蒸発したため、父親の実家で祖父母、伯父夫婦といとこと共に生活していたのだが、いとこは私立小学校に、男は地元の公立小学校に通っていた。そして、いとこが通っていたのが、攻撃対象にされたカリタス小学校だったのだ。
幼少期の境遇の差が犯行動機にどれほど影響したかは、本人が死亡している以上、推測の域を出ない。ただ、一般論として、格差が拡大し、それを自分の努力で乗り越えるのが困難と感じるほど、他人や社会のせいにしたくなる気持ちが強くなるだろうとは思う。このような他責的傾向を少しでも和らげるためにも、格差を縮小する方策を社会全体で考えるべきだろう。
■参考文献
磯部涼『令和元年のテロリズム』新潮社、2021年
片田珠美『拡大自殺―大量殺人・自爆テロ・無理心中』角川選書、2017年
志水宏吉『ペアレントクラシー―「親格差時代」の衝撃』朝日新書、2022年
橘木俊詔『資本主義の宿命―経済学は格差とどう向き合ってきたか』講談社現代新書、2024年
ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる―グローバル中流階級への警告』中野剛志(解説)、寺下滝郎(訳)、東洋経済新報社、2023年