2024年5月17日、「ESqUISSE コラボレーションチャリティ イベント NOTO NO KOÉ」が開催されました。【ESqUISSE】を舞台に、シェフであるリオネル・ベカ氏と
輪島塗が導く能登の未来 「小さな木地屋さん再生プロジェクト」・「nurimono house」プロジェクトを通して (赤木明登氏)
自身を「漆に選ばれて輪島に来た」と語る赤木氏(左)とクリス氏(右)
クリス智子氏(以下、クリス氏):赤木さんは輪島に住まわれて35年とのことですが、1月1日の地震の時は、どのような状況だったかおうかがいしてよろしいですか?
赤木明登氏(以下、赤木氏):悪運だけは強いといわれるんですけど、うちの自宅と工房はほぼ何の被害もなく、中はめちゃめちゃですけど建物自体はしっかり残っています。ただうちに通ってくる職人さんが6人いるのですが、うち5人が全壊という状況。ですが、お正月休みだったのは幸いで、みんな実家に帰省していて怪我はありませんでした。私自身も群馬県の法師温泉にいたので、その日は一泊し、翌朝出発しましたが、能登に入れない状況で辿り着いたのは3日の夜でした。
クリス氏:なんとか辿り着いたというかんじですね。その後、電気や水道など復旧はいかがでしたか?
赤木氏:いろんなインフラが途切れていましたが、電気が割と早くて1カ月くらい、水道は2カ月くらい。最後まで来なかったのが、通信回線のケーブルでそれがやっと4日ほど前ですかね。うちは固定電話も繋がらないし、携帯は元々県外で繋がらないし、インターネットも全然接続できなくてメールも全く見えない感じだったので、連絡が取れなくてたくさんの人からすごく心配されたんですけど、僕はそのおかげで静かな暮らしを過ごせました。
クリス氏:その静けさのなかで、赤木さんはまず何をやろうと思われましたか?
赤木氏:こういう話をすると亡くなられた方とか怪我された方はたくさんいらっしゃるので不謹慎だと思われるんですけど、潰れた家の前で泣いてる人たちが、もう2日もするとみんなニコニコになっちゃってるんですよね。多分人間って自分の心と体を守るために脳や脳内麻薬物質っていうんですか、アドレナリンかエンドルフィンかドパミンみたいなものがいっぱい出てきて。僕も近所のおじさんと、もう毎日酒盛りをしていて、昼間は元気であちこち飛び回ってるっていう状態だったんですけど、記憶があんまりないです。
クリス氏:そうですよね。東日本大震災の時にもそういった状態になったというお話を聞きました。この数カ月、いろんな状況が気持ちのうえでもあったと思うのですが、そのあたりをうかがってもいいですか。
赤木氏:なんか感情のジェットコースターに乗っているみたいに上がったり下がったりするんですよ。僕はずっと大量のアドレナリンが出続けて3ヶ月ぐらい走り回っていたんですけど、とうとうなんかアドレナリンが切れちゃって。切れちゃうとすごいなんか鬱状態になって、朝起き上がるの苦痛という感じでもう本当に何もしたくないみたいな。今そういう人たちがすごい多いと思うんですね。
クリス氏:赤木さんの「小さな木地屋さん再生プロジェクト」は、そういった時期に始めたものですか? お写真を皆さんにも見ていただきたいと思います。
震災後の池下氏の工房
池下氏の工房から道具を入出する様子
赤木氏:池下満雄さんは、86歳で現役の輪島塗の木地職人(アテやケヤキの木からろくろを引いてお椀の形を削りだす仕事)さんで、その仕事場なんですけどね、1月6日に初めて無事かなと見に行ったらこういう状態で。昭和33年に建てた工場なんですけど、隣の崩れ落ちた土像に寄り掛かってかろうじて斜めになって止まっていました。近所に住む娘さんに話を聞いたら、86歳のおじいちゃんは15歳の時から72年間ここで職人として仕事をし続けた場所で、そこに2日間座り込んで「わしは避難所にはいかん」と言って動かなかったそうなんですが、2日目の夜に心不全を起こして意識を失って救急搬送されたという話をきいたんですよ。60年、70年、すっとこの場所で仕事をしてきて……。
クリス氏:そういった状況で、何とかしなきゃとプロジェクトが動かれたわけですね。
赤木氏:まずは屋根も崩れて雨漏りがひどいので、この材料が雨に濡れるとダメになっちゃうんですね。多分池下さんもそれをすごい心配してると思ったんで、とにかく安全な場所に材料を移して保管しなきゃいけないと、僕の奥さんの愛車の軽トラで、うちの職人さんと2人で荷物を積んですべて運び出して僕の工房の倉庫に移しました。話をすると悲しくなって涙が出るんですけど、多分池下さんもここで絶望したと思うんです。でもそのまま終わらせたらいけないと思ってここを元に戻そうと決めました。
岡山県の大工チーム
赤木氏:一番右の女性が【茶寮 杣径】のスタッフでその隣がお母さんなんですけど、お母さんは岡山でギャラリーをやっていて、ご主人は建築家なんです。そのこのギャラリーの展覧会をしたときに娘さんを誘って僕が連れてきたんですけど。その関係で建築家仲間が、輪島の様子をボランティアでお手伝いしようと来られたんです。木地屋さんの工房にご案内して、ここを再建したいと相談して。たぶん10人の内9人の大工さんは無理だっていうなかでも、この中の大工の棟梁が赤木さんという僕と同じ名前なんですが「この家は小屋組がしっかりしてて、柱は折れてるけどもちあげれば何とかできる」と言ってくださったんです。ざっくり見積もって1000万円弱でできるとのことで、僕はSNSを通じて寄付を集めたりっていうのは得意じゃないというか好きじゃないのですが、やむを得ず1回呼びかけたら一気に1,500万円くらい集まって、プロジェクトを始めて2カ月くらいでほぼ仕上がりました。桜の花が咲いた4月中旬頃には、池下さんが避難していた加賀温泉から戻ってきて、仕事を始めようというところでまた不全の発作を起こして入院したのですが、2週間で退院して今は元気に仕事をしています。
工房で作業をする池下氏
池下氏と新たなふたりのお弟子さん
クリス氏:そういったプロジェクトのなかで、多くの人から言われたことが2つあるそうですが。
赤木氏:1つは、こんな古いボロボロの汚い建物を再生してどうなるんだっていうことです。今、輪島の町は9割近い木造の建物がほとんど瓦礫の山のようになって、この後それ全部更地になって、工業製品の立ち並ぶ町並みに変わっていくと思うんですよね。それももう嫌だなと思っていて、輪島の本当に風情のある独特の職人さんの家の町並みっていうのを残したい。それで、その象徴として輪島で1番最初にこの建物が蘇ればいいなと思いました。
クリス氏:風景が変わるわけですからね。すごく悲しいし、さらに追い打ちをかけるような感じもしますし。池下さんの建物が元にもどったっていうことはシンボリックで、気持ち的にも大きな意味がありますよね。
赤木氏:そうですね。それともう1つよく言われたのは、86歳の職人さんの仕事場をつくってもその後将来そんなにないんじゃないかって。確かにその通りなので、うちの工房から2人出向させて、池下さんの技術を受け継ごうと計画しています。寄付いただたい残ったお金を資本に株式会社木地やをつくって、輪島の未来へ続けていけたらと考えています。
クリス氏:全壊にならないと補助金がでないなどの問題もありますが、そのあたりは割り切って始めたわけですよね。
赤木氏:そうなんです。皆さん、補助金で復興させようという風に思ってらっしゃるんですけれど、補助金ってまだその時はまだ模索状態で出ることも決まってなかったし、決まっても申請して実際に交付されるまで1年とかすごく長い時間がかかるんですね。それを待っていると、例えば輪島の場合すごい高齢化が進んでいて80代の職人さんたちは、そのまんま再建することもなく、補助金を申請することもなくフェードアウトして廃業していくっていう 場合がすごく多いと思うんです。僕はそれをどうしても防ぎたくて。
クリス氏:赤木さんご自身のお仕事も生活も色々と落ち着かないことが多々あろうかと思いますけど、そこにおいてもやっぱり人の説得をして、どうにかして輪島塗を守っていかなければいけないっていう、そういった危機感もあるということですよね。
赤木氏:そうですね、今回の地震が起こる前から輪島塗は、売り上げがピーク時から10分の1以下に落ち込んでいて、地震でとどめを刺されたっていう感じです。僕は1988年に輪島に行った時が輪島塗全盛期だったんですけど、滅ぶんじゃないかなと思ってたんですね。その時に僕はなぜだかよくわからないけど、この輪島塗を残すために漆に選ばれてここに来てるっていう自覚があったんですよ。その後、バブルの崩壊があって、リーマンショックがあって、自殺、倒産、廃業、夜逃げを見てきて、どんどんどんどん縮小していく中に最後にこの地震がぽんってきたんです。でも僕は、この地震はある意味ではチャンスだと思っていて、今まであった余計なものが全部振るい落とされてすごく純粋な本質的なものがこれから残って、蘇らせることができると思っています。
クリス氏:赤木さんが滅びていくと感じた理由や輪島塗の本質的なものという点についてもう少し詳しくお聞かせください。
赤木氏:もともと輪島塗は、生きている人と神様や亡くなった方が一緒に食事をするための道具なので、そういう原点にきちっと精神性を戻していくということと、ちゃんと使える シンプルな形にしていくっていう仕事を僕はしていています。それが先ほど話した純粋なものということです。一時期、すごく自分の力や経済力を誇示するものになったり、飾るためのものになったりして、必要ではあるんだけれど、僕は間違っていると思っていて。だから今回の地震を機に、本来の精神性という原点に戻るっていうことが、今すごく重要だし、それがこれからの未来を生きる人をある意味救っていくものになり得るんじゃないかなと思っています。池下さんのような職人さんは、わかっているだけで江戸時代からこの場所で同じ仕事をやっているんですね。体の中はいい形の血が流れていて、それをうまく引き出すのが主である僕の役割で、先祖や過去の職人さんたちと現在の職人さんたちの共同作業によって輪島塗ができていることが素晴らしいところです。
クリス氏:大事なものが見えてきたこの時期、赤木さんのように外から入ってくる若い人たちについてはいかがですか?
赤木氏:ぜひ若い人たちには入ってきてもらいたいです。うちの弟子も20人ぐらいいて、独立して漆職人や漆芸作家をやっていて、7人輪島にいたうち1人だけ残ってあと6人は外に転居してしまいました。子どもの学校の事情などもあり仕方ないのですが、その一方でまた入ってくる人もいると思うんですよ。なので、僕は集まったお金を資本にして株式会社木地屋を作りたいなと思うのは、そういう人たちの受け皿を作って、ちゃんと若い人たちを雇用しながら、今どこの日本中の漆器産地どこも木地屋さんがいなくなって困ってるので、供給できる体制にしていきたいと思っています。
クリス氏:現在も木地屋プロジェクトは支援金を募っていますか?
赤木氏:あまり積極的に告知していないのですが、ご寄付いただいた方に初めての職人さんがひいたお皿を返礼品として用意しています。
クリス氏:それはまたとない一枚ですね。この「小さな木地屋さん再生プロジェクト」を1つのモデルに、他の業界や輪島塗のなかで気持ちが繋がって増えていくといいですよね。続いて、赤木さんがかかわっていらっしゃる【茶寮 杣径】のお話もお願いします。今日もコラボレーションランチで準備に入られている北崎さんとのお店ですが、オープンして半年だったんですね。
赤木氏(左)と【茶寮 杣径】の北崎裕氏(右)
赤木氏:【茶寮 杣径】というのは、ローカルガストロノミーが今注目されていますが、能登のこの季節 にしか採れない地元の素材を料理人が自らの手と足で集めて、素材から料理を決めて出すという考えで す。能登のその場でしか体験できないものなので、それを輪島塗の器で出していこうということで、お料理だけじゃなくて輪島塗全体の復活というか、地震前からの計画で、能登にお客様に来ていただいて、食べて使っていただいて買って頂くという流れができたらいいなと思って始めたんですね。 去年の 7 月に完成してオープンして 6か月で全壊という笑っちゃうようなことになったんですけど、全然あきらめてはいなくて元に戻す計画が進んでいます。
クリス氏:その【茶寮 杣径】でもそうですし、【ESqUISSE】でも赤木さんの漆の器は使っていますが、料理と器の関係について、赤木さんはどう思っていらっしゃいますか?
赤木氏:難しい質問ですね。いや、実はあんまり中に何が盛られるかとかは考えてはいないですね。ただ、お料理と器はもう本当に同じもの。というのは自然の中にある素材を人間が加工して美味しくいただいたり気持ちよく使ったりするためのものなんですね。僕の場合は、北崎さんのお料理とすごく共通しているところは自然にある素材にできるだけ手を加えずに自然の素材の完璧さをいかに引き出すかというような仕事をしているので、もともとすごい相性がいいと思うんです。北崎さんの場合、お砂糖とかお醤油とか濃い調味料をほとんど使わずに素材の味を引き出す仕事で、僕も漆の良さを引き出してできるだけ何も付け加えないようにすっぴんのまんま仕上げていくというところで、すごくシンクロしているかなと思っています。
「NOTO NO KOÉ」で供された『水の歩み | 山菜のおひたし』と題した北崎氏による一品。器:赤木明登氏作 輪島紙衣汁椀、黒半月盆金縁
クリス氏:今回のお話の軸である地震やコロナなど、世の中の状況の変化でだんだん私たちが、やはり自然が大切だとか、シンプルとは何かとか感じるようになっています。冒頭のリオネルさんの言葉でも「能登は未来」という言葉があったように、今であり、未来であるように感じますが、赤木さんはもともと漆にあまり手を加えないというスタイルでやっていらっしゃって、周りの時代がシンクロしてきたように感じますか?
赤木氏:世の中的にはお料理の世界ではどんどん味が濃い時代がずっと続いてきましたよね。お料理は1番早いと思うんですけれど、やはり調味料の少ない素材感のあるお料理の世界にだんだんシフトしていると思います。器も味付けの濃い器の時代がずっと、昭和の陶芸なんかそうじゃないですか。でもやっぱり味付けは少ないけれど素材の良さをしっかりと引き出す、そしてそれが人の心を救ってくれるということを皆さんご存知で、そういうものに手を出していただけるんですね。ただ北崎さんのお料理で お砂糖の醤油も使ってないと味がしないっていう方も少なからずいらっしゃるんですけれど、そういう方にやっぱりちゃんとこういう食事なんだよっていうことを伝えるには言葉の力も必要なんですね。それで僕出版社を作っちゃったんです。
クリス氏:そうなんですよね。【茶寮 杣径】の後でしたっけ。お考えとしては一緒だと思うのですが、出版社ではどのようなことをやっていらっしゃいますか?
赤木氏:僕ら昭和生まれは、本の物質性がすごく重要だったと思うんですけど、今は読んで情報取ったら捨てられる時代じゃないですか。でもやっぱりちゃんとした工芸的な本を作れば読んだ後も大切に取っておいて繰り返し読んでいただけるなと思って、そういう工芸的な本作りをしっかりする「拙考(せっこ)」という出版社をつくりました。地震のあと3月10日に『工藝とは何か』という本を出しました。
クリス氏:出版社も輪島ですか?
赤木氏:輪島です。海岸沿いのすごく綺麗な集落の中の1軒なんですね。【茶寮 杣径】のもとの店舗の工事が2年くらいかかるので、今、金沢で 5月いっぱい営業しているんですけど、できるだけ早く能登に戻ってきて営業を続けたいと思っているので、その出版社の建物を仮店舗に改造しているんです。仮店舗になったら、しばらくの間は地元の人たちが予約をなしで気楽に食べていただけるような【食堂 杣径】みたいな感じで営業できたらいいなと思っているんです。今はそうやって走り回っていたら、僕の仕事はまだ始まっていないということに気づいて、これはまずいと思ったところで、アドレナリンが切れちゃった状態です。
クリス氏:いや、本当に考えられないですよね。今日は能登の声というタイトルで、赤木さんの声、その周りにいる方の声を聴かせていただけるという有難い機会ですが。ここからは赤木さんご自身のお仕事についてお聞かせください。もともとご自身のお仕事だけでも引っ張りだこなわけですから。
赤木氏:今年で独立して30年なんですが、前半はもう全部キャンセルさせていただいて、8月に銀座の和光さんの9階のセイコーハウスホールで30周年記念展覧会をさせていただくのを目指しています。
クリス氏:漆に選ばれたわけですから、(お忙しいのは)仕方ないですね。多くの周りの方も赤木さんあって繋がっていることもあると思いますので、引き続きご尽力を、そしていろいろなかたちで発信していただければと。皆さまもぜひお心に響いたことをさらに伝えていただければ嬉しいです。
(広告の後にも続きます)