「水が出たのが5月23日。初めて自宅の風呂に入れたのは、26日です」
石川県珠洲市大谷地区に住む正野満寿美さんは、こう振り返った。能登半島地震が起きたのは、2024年元日。ほぼ5か月断水が続き、入浴にも苦労していたのだ。発災後、大規模な土砂崩れで一時は孤立集落となった同地区を、J-CASTニュースが6月下旬に取材した。
避難先から1か月で真冬の奥能登に帰還「寒さで震えた」
珠洲市中心部と大谷地区を結ぶ道路は、今も複数個所で通行止めが続く。国道249号線の「大谷トンネル」は復旧工事の見込みが立っていない。取材の日も、う回路を使って車で40分ほど要した。同地区に近づくと、不自然に新しい道路が現れた。聞けば、元々の道路が土砂崩れで使用不能となり、仮道路にしていた場所を最近舗装したという。
正野さんの自宅は、立派な日本家屋だった。通された居間は整理されていたが、隣の部屋は壁の一部が落ち、また「2階は手つかず」との話。窓から見える海岸線を、正野さんが指さした。「あの辺、隆起したんです。あんな風じゃ、なかったのに」。
発災後、金沢市に避難した。だが持病のぜん息が悪化。「もうすぐ80歳」と語る正野さんは、50年以上前に建てた、夫や家族との思い出が詰まった自宅に帰りたかった。2月10日に一時帰宅すると、そのまま残ることを決意した。真冬の奥能登で、あまりの寒さに一晩中震えたと話す。それでも家が「自分の原点」であり、もうどこにも行きたくなかった。
生活は困難を極めた。特に水で苦労した。断水でトイレが使えず、雨水をためて流し、非常用トイレを使ってしのいだ。飲料水もないので、週3回給水所まで出向いて確保しなければならない。自衛隊が小学校の敷地で提供する風呂を利用したり、親族の家で入浴する日もあった。風呂上がりの夜は、帰り道が怖かった。地震の影響で道路事情が悪いうえ、近隣住民は多くが避難しているため明かりがなく、真っ暗。心細い日々だったようだ。
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40分運転して手に入れる食料、ガソリン
珠洲市では、自衛隊による入浴支援が行われた(写真:ロイター/アフロ)
発災から半年となる今も、不便な生活が続く。近所で買い物をしたくても、商店がないため車で40分ほどかけて買い出しに行かなければならない。そのため、ガソリンが「命綱」となるが、近くにあった給油所が閉鎖しており、食料品と同じように遠方まで行かないと手に入らない。万一ガソリンが切れたら、一大事だ。
水は前述の通り、5月23日に復旧した。だが当初は茶色くにごった水が出たという。「まだ怖くて、生水が飲めません」と正野さんは嘆く。
大谷地区では、ピースボート災害支援センター(PBV)をはじめ民間団体が住民の暮らしをサポートしている。物資の提供だけにとどまらない。最近では地区の住民を集めて週1回、おしゃべりする機会を設定している。正野さんは、これが楽しみだ。厳しい環境下にいる人たちにとって、顔を合わせて思い切り話をすることがストレス発散になっている。自身は、長年続けている畑仕事で救われていると話す。
半年が過ぎても、状況は良くなっていないと正野さん。家は傷み、買い物はままならず、長年見てきた海岸線は姿を変えてしまった。近所に住む人は6、7人にとどまるという。
「人が少なくて寂しい。けれど、泣いていても仕方がありません」。
(J-CASTニュース 荻 仁)