グローバル化が進む今、留学や海外就労のハードルも下がりつつあります。ましてや円安の昨今、給与額も日本の数倍であることはよく知られています。
ただ、そうは言ってもそこは海の向こう。言葉や生活環境の違いがあるのも事実で、うまく適応できるかが鍵となります。今回は、日本の会社に見切りをつけてオーストラリアに渡った男性の残念なエピソードです。
◆想像と違った商社マンの業務
商社マンであった父親の転勤により、幼い頃から海外生活が長かった新井さん(仮名・25歳)は、日本の大学を卒業した後、父親と同じ職業に就きました。
「就職を相談した際、父から『大変な仕事だぞ』と言われながらも、いざ内定をもらったときは一番喜んでくれました。私もいろいろな国に出向き、父のように仕事をがんばりたい気持ちでいっぱいでした」
そのような夢を抱いていた新井さんですが、入社早々配属されたのは国内の食品関連のプロジェクトチームだったそうです。
「海外赴任どころか、日本全国を飛び回る地方営業がメインで、その合間にクライアントと打ち合わせをしたり、工場の視察などをしたりと、理想とはかけ離れた業務の日々でした。しかし、海外で働きたいという思いが忘れられず、この仕事を続けるべきか悩んでいました」
◆目に留まった海外企業のリクルート情報
そんな中、インターネットで目にしたオーストラリアの水産ビジネスに特化した商社に興味を持ったそうです。
「詳しく調べてみると、日本を含めたアジア向けのプロジェクト部門で採用枠があるとのことでした。オーストラリアに行ったこともなく、今の仕事とは別分野の水産関連ということもありとても迷いましたが、そんな時、どこかのインフルエンサーが言っていた『人生一度きり。決断が全てを左右する』というフレーズを思い出し、その企業にエントリーすることを決めました」
その後、度重なるオンライン面接などを行い、めでたく採用が決まります。現在の会社への退職手続きを無事済ませた上で、希望に胸を膨らませて単身オーストラリアの地に渡りました。
◆思い通りにならない新たな職場
当初はオーストラリアに到着後、少しだけ観光しようと考えていた新井さんでしたが、いろいろな手続きに追われ、それどころではない状況だったといいます。
「渡豪して3日後には、オリエンテーションと実践業務を兼ねた忙しい日々が始まりました。採用から勤務までの早さにも驚きましたが、日本の会社とは大きく異なる仕事を教わりつつ、同時に自分で販路を開拓するというかなりハードな内容で、正直少し不安を抱いていました」
小学生の頃を香港とベトナムで過ごしたため、語学的な問題はなかったものの、どういうわけか新天地でのコミュニケーションにも苦戦したといいます。
「どういうわけか、微妙な意思疎通や、少し突っ込んだディスカッションが思うようにいかないんです。これまで私が過ごしていた国がアジアだったからなのでしょうか。職場の人たちとの間に大きな壁を感じてしまうんです。自分でもその理由がわからないまま、忙しい日々が続いてました」
それでも自分で決断した道だからと、周囲の人たちよりも一生懸命に仕事を学んだそうです。
◆身も心もくたくた。無念の帰国
しかし、新たな仕事に就いて3カ月ほどたった頃から、原因不明の発熱とけん怠感に襲われます。ある日どうしようもないほどつらい状況に陥ったため、自ら救急車を呼んで病院へ行きました。
「その日はいったん入院し、翌日から精密検査が始まりました。結局10日間も入院したのですが、病の理由は分からずじまいでした。最終的には“メンタルが起因しているのではないか”と主治医から告げられました。慣れない職場で奮闘した代償なのかもしれません」
入院と聞いて駆けつけてくれたイギリス人の上司に感動するも、オーストラリアの医療費に腰を抜かすことに――。
「病院で請求された医療費を見てあぜんとしました。救急車に乗っただけで10万円以上かかり、検査料も入院費も日本の数倍以上の金額でした。日本にいる父親に急きょ海外送金してもらい、なんとか支払いを済ませ、体調が落ち着いてから会社に退職の意向を伝えました」
帰国後はすっかり体調が良くなったものの、中途半端なキャリアは何の役にも立たず、就職活動もゼロからやり直さなければならない日々を送っているそうです。
<TEXT/ベルクちゃん>
【ベルクちゃん】
愛犬ベルクちゃんと暮らすアラサー派遣社員兼業ライターです。趣味は絵を描くことと、愛犬と行く温泉旅行。将来の夢はペットホテル経営