《池上彰解説》日本国憲法が必ずしもアメリカの「押し付け」ではないと言える理由…GHQ草案から日本が“変えた”箇所とは?

今放送されているNHK連続テレビ小説『虎に翼』は、物語のはじまりに「憲法」の条文が読み上げられ大きな反響を呼びました。

日中戦争や太平洋戦争という悲惨な戦争を体験した日本が、戦後、「平和な国になろう」という決意を込めて制定した「日本国憲法」は、平和憲法とも呼ばれています。

先人たちの作った憲法を大切にしていくべきとする意見がある一方で、時代に合わせて変えるべきだとする意見もあります。憲法はどうあるべきか、それぞれが自分自身で考えていくために知っておきたい「基礎知識」を、ジャーナリストの池上彰氏が解説します。

※この記事は、池上彰氏の著作『知らないではすまされない日本国憲法について池上彰先生に聞いてみた』(学研)より一部抜粋・再構成しています。

求められた民主主義と基本的人権の尊重

もし日本が第二次世界大戦に勝利していたら、日本国憲法は生まれていなかったはずです。

日本は1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。ポツダム宣言とは、この半月ほど前に米英中3か国首脳の連名で日本に発せられた降伏勧告です。

そこには軍国主義の撤廃や完全な武装解除など項目の要求が盛り込まれており、そのなかに民主主義の強化と基本的人権の尊重が明記されていました。

戦時中の日本社会は、言論や思想・信教の自由はなく、戦争に異を唱える者は容赦(ようしゃ)なく捕らえられ、苛酷(かこく)な拷問を受けました。

こうした非人道的なことが平然とおこなわれていた反省を踏まえ、終戦を迎えると、日本はポツダム宣言の求めに応じて国内改革に着手します。

連合国軍占領下の日本でもっとも権限をもっていたのは、ダグラス・マッカーサー最高司令官でした。終戦から2か月後、マッカーサー司令官は新たに就任した幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)首相に対して憲法の自由主義化を要求します。

これを受けて幣原内閣は、憲法問題調査委員会を発足させ、大日本帝国憲法(明治憲法)の見直しにとりかかりました。

当時、作家の高見順は、国民の自由が自国の政府によってではなく、日本を占領した外国によってもたらされたことに、「羞恥(しゅうち)の感なきを得ない(恥ずかしいこと極まりない)」と書き残しています。

「マッカーサー・ノート」とは何か?

その後、憲法問題調査委員会は憲法改正案をまとめますが、その内容を知ったマッカーサーは失望しています。旧来の明治憲法(大日本帝国憲法)と大差ないものだったからです。

松本国務大臣をはじめとする委員会のメンバーは、天皇が絶対的な権限をもつとした明治憲法の基本路線を変えるつもりはありませんでした。そのため、改正案でも天皇は「至尊ニシテ侵スヘカラス」の存在であり、「軍ヲ統帥ス」としていました。さらに国民を君主の支配対象を意味する「臣民」と表記していたのも旧憲法のままでした。

これに怒ったマッカーサーは、日本人に任せることはできないと判断して、連合国軍総司令部(GHQ)民政局に草案づくりを命じます。このときマッカーサーは、草案に盛り込むべき必須要件として3原則を提示しました。

「マッカーサー・ノート」と呼ばれる、その3原則とは、①天皇の職務と権能は憲法に基づいて行使される、②日本は自衛のための戦争も放棄し、陸海空軍をもたない、③封建制度を廃止する、というものです。

これをもとにGHQ民政局のメンバー25人によって憲法草案がつくられました。憲法草案はアメリカ人によってつくられたという事実は、当初伏せられていましたが、やがて世間の知るところとなります。それにともなって、日本の憲法は「アメリカによる押しつけ憲法だ」という批判の声が上がるようになったわけです。

二院制にするなど日本側の主張も

ところが、 草案作成にあたりGHQが参考にしたのは、国連憲章や外国の憲法ばかりではありませんでした。

そのころ日本国内でも政党や学者グループなどが独自の憲法改正案を発表しており、そうしたなかに学者や評論家からなる憲法研究会がまとめた「憲法草案要綱(ようこう)」がありました。

そこには「統治権は国民より発す」として国民主権の原則が打ち出され、天皇については「国家的儀礼を司る」と明記。さらに国民は平等で、差別はあってはならず、誰しも健康で文化的な生活をする権利があると記されていました。ここには、現在の日本国憲法の原型のような条項を見てとることができます。

GHQはこの「要綱」に強い関心を示し、内容について詳細に検討したことがわかっています。このことから、日本国憲法の草案をつくったのはGHQですが、その中身は、少なからず日本の学者らによる「憲法草案要綱」が反映されているといえます。

しかもGHQによって作成された草案を日本側はそのまま受け入れたわけではありません。日本の要望で変更されたりした箇所もあります。

たとえば当初のアメリカ案では、国会は一院制でしたが、結果的に衆議院と参議院の二院制となりました。これは日本の主張が受け入れられたものです。こうしたことから、日本国憲法は必ずしもアメリカの「押しつけ憲法」であるとはいえません。