日本の“干し芋”がタンザニアのスーパーに。「アフリカにカルビーを創る」日本人男性の挑戦

日本から遠く離れたタンザニアで、日本の干し芋を作っている日本人がいる。長谷川竜生さんは「農家と二人三脚で成長する食品事業を、アフリカで成功させたい」という熱い思いを胸に、2014年に食品会社「マトボルワ」を創業。もともとは居酒屋の副店長をしていたという異色の経歴を持つ長谷川さんは、どうしてアフリカで干し芋を作るのか。

◆アフリカのスーパーに日本の干し芋

タンザニアでの干し芋との出合いを、私は今も鮮明に覚えている。タンザニア生活を始めたばかりで右も左もわからない頃、日本人の友達がスーパーマーケットに連れて行ってくれた2年前のことだ。スーパーで彼女が指さしたのは、日本で見るような干し芋のパッケージだった。

アフリカでの食生活はだいぶ不便になると覚悟してきたタンザニアのスーパーで、まさか、干し芋に出合えるとは!

陳列棚にあった残り5袋全てをかごにいれた私は、日本で食べる干し芋と変わらないおいしさにたいそう感動した。さらに驚いたことに、この干し芋を作っているのは日本人だったのだ。

なぜ日本の昔からの特産品である干し芋を、ここタンザニアで作っているのか? タンザニア人にも日本の干し芋は人気があるのだろうか? 日本とは全く気候が異なる1年中夏の気候で、どうやってもっちりとおいしい干し芋を作っているのか?多くの疑問を抱え、私は干し芋を作る食品会社「マトボルワ(スワヒリ語で干し芋を意味する)」の創業者である長谷川さんにお話を伺った。

「まあ、とにかく役に立ってないなと感じました」

初めてタンザニアで活動した24歳の時のことを長谷川さんはこう振り返る。1995年から青年海外協力隊として3年間、野菜栽培の隊員として活動した後の率直な感想だ。

トマトの病気に悩むタンザニア人農家に、日本で学んだ苗づくりを提案してみたがうまくいかない。

「また来たの?君の言う通りにやったけど全然だめだったよ。今度は何をしに来たの?」

農家からあきれられても、あきらめず次は日本的な支柱栽培を提案するが、案の定うまくいかない。こんなことが3年続いた末の帰国だった。そんな大敗を経験した20年後に、長谷川さんは「アフリカにカルビーを創る」というビジョンとともにタンザニアで食品会社を創業することになる。

◆数学者の父親に叩き込まれたこと

長谷川さんは1971年、神奈川県相模原市で生まれた。

長谷川さんの父親は、大学で数学を教える教授だったが、大学に勤務するのは週3回。残りの日は、家で家庭菜園を楽しんでいた。小さい頃の長谷川さんは、そんな父親から聞く植物の話が大好き。父親と一緒に菜園をしながら農業や栽培に親しんでいった。

父親は数学者らしく、自分の頭で考える大切さを子供の頃から長谷川さんに叩き込んだ。自分で調べて実験して考えることを重視し、本に書いてあろうと学校の先生が言おうと鵜呑みにするなという教育方針だった。

そのせいか小学校では先生の話を聞いているのが苦手。授業中も授業と関係のない工作に夢中になっているか、たまに授業を聞いていると、先生の発言の間違いを指摘したりする「ちょっと問題のある子供」だった。

火薬に興味を持った中学生の長谷川さん。ある日、爆竹を何箱も買い授業中に火薬を一つ一つ解体した。自宅でこの火薬に火をつけてみたら大爆発して警察騒ぎになる。帰宅した父親は報告を聞いて「竜生の実験だな」と呟いただけで、全く怒らなかった。わからないことは実験せよという父親の教育方針は一貫していた。

その一方で本を読むのが好きだった長谷川少年は、近所の図書館にある本を片っ端から読み、野口英世やパスツールに憧れた。いつか自分も彼らのように世の中を変える優れた研究者になりたいと思い、大学では迷わず生物学を専攻した。

◆日に焼けた青年に魅せられて

育種学を専攻した長谷川さんは、コメの品種改良の研究にあけくれた。大学4年生になり、次々と就職していく同級生を横目に、長谷川さんは進路に悩む。研究は面白い。でも、この先に野口英世が取り組んだようなテーマがあるようにも思えない。世界に出て思う存分に活躍する仕事がしたい。そう思っていた頃に、大学の薄暗い階段の踊り場で長谷川さんの運命を変えるポスターに出合う。

それは、青年海外協力隊の隊員募集の案内だった。褐色の大地を背景にして、日焼けした青年が笑顔で木の苗を持っていた。

「アフリカで農業……。これだ!とその瞬間に決めました」

さっそく隊員に応募し合格するが、農業の実務経験がまったくない長谷川さん。八ヶ岳にある農業大学校を見つけて、1年間農業の実務体験をした後にタンザニアに向かった。

◆「全く役に立たなかった」タンザニアでの隊員時代

1995年、24歳の時に、野菜栽培の協力隊として意気揚々とタンザニアに到着した長谷川さん。

ところが、日本とは風土や自然環境が全く異なるタンザニアで、長谷川さんは苦戦した。雨がよく降る日本と違いドドマは乾燥地域で雨が少ない。四季のある日本と比べ、1年中暖かいタンザニアの土は有機物がほとんど残らない。土づくりを重視する日本の農業知識は、タンザニアでは全く通用しなかったのだ。

このときを思い返して出てきたのが、長谷川さんの冒頭の一言だ。

しかし、「役にたっていない」とくじける長谷川さんではない。そもそも彼は「難しい問題に出合うと奮い立つタイプ」なのだ。各国の援助団体が莫大な予算を使ってもアフリカの農業開発が進まない事実を知り、この仕事に生涯をかけて取り組むことを決めた。

「一方的な援助は農家をむしろダメにする。どうしたらアフリカの農家の役に立つのだろう」この答えを見つけるために、帰国後、京都大学大学院でアフリカ地域研究科に所属し、アフリカの農村の研究をした。5年間の研究とフィールドワークの末にたどり着いた結論は、農家に必要なのは知識や技術ではなく、「経営」だということ。

そこで、経営について学ぶため、当時、経営力のある農業をしていると評判のワタミフードサービス株式会社(現・ワタミ株式会社)に就職する。「博士課程まで行って、居酒屋の店員?」と周囲はあきれた。しかし、頭でっかちの大学院卒にリアルな経営を叩き込んでくれたのは、ワタミの厳しい店舗経営だった。だが、その頃に子供が生まれ、長い就業時間から家族との時間が全くとれない働き方に疑問を持ち退職。

次の職場はアフリカ料理のレストラン。料理好きの長谷川さんはここで料理長として腕をふるうが、その一方で、自分がやりたい「アフリカで農業」からは離れてきていると感じ、1年で新たな職場に挑んだ。

◆800人以上の農家を取材して

料理長からの転身先は農業専門の出版社だった。「農業技術通信社」でカルビーの契約農家向けに発行しているジャガイモ栽培の技術情報誌「ポテカル」の編集に携わることになった。この時にカルビーの経営スタイルを知り感銘を受ける。

カルビー社は独自の仕組みで約1,700戸の契約農家と協働してじゃがいもを栽培している。農家と二人三脚で商品の品質を改善していくという手間がかかるプロセスをあえて取り入れ、農家とのコミュニケーションに真摯に取り組むことで、結果的に業界トップになった。

「カルビーは契約農家が上手にじゃがいもを作れるようにサポートし、契約農家はカルビーの受入基準を満たせるように栽培を改善する。さらにカルビーの優れた商品開発力によって、買い取った原料をあますことなくヒット商品に加工しているんです。カルビーは農家と二人三脚で一緒にものづくりをしているというスタンスなんです」

多くの農業経営者を取材をしながら「アフリカにカルビーを創る」という構想が出来上がってきた長谷川さん。その頃、取材先で出合ったのが、ケニアでナッツ工場を経営する佐藤芳之氏だ。アフリカで農業をしたいという長谷川さんの熱い思いに意気投合した佐藤さんは、ルワンダでの新事業の経営を長谷川さんに任せた。アフリカでの経営を学ぶには絶好のチャンスだ。

ルワンダでマカデミアナッツ工場のCOOを任された長谷川さんだが、現地のCEOとの意見の相違が多く、口論の絶えない日々が続いた。思いの深いタンザニアに戻りたいと感じていた長谷川さんは、事業を他の日本人に譲り、タンザニアでのビジネスに本腰を入れることを決意した。

◆きっかけは1本の国際電話

ルワンダに残り、タンザニアでの事業計画を模索していた長谷川さんに、ある日、サツマイモ農家の知り合いから国際電話がかかってきた。この電話が、その後の長谷川さんの人生を大きく変えることになる。電話の主は、雑誌の取材をしていたころから交流のある干し芋の老舗『照沼勝一商店』(現・株式会社照沼)の照沼勝浩氏だった。

「長谷川くん、元気?ところで、アフリカの人って干し芋を食べるかな?」

「いいえ、食べないと思いますよ」

勝沼さんにはそう即答したが、気になってタンザニアでのサツマイモの状況について調べた長谷川さんは驚いた。タンザニアには干し芋を食べる文化があること、日本の3倍以上のサツマイモが生産されていることを知ったからだ。さらに、日本では干し芋の値段が年々高くなっていることを知り、タンザニアで干し芋を作るという事業アイデアが浮かんだ。

やることが見えればすぐに行動に移す長谷川さん。資本を提供してくれる企業や投資家を募り、「タンザニアで干し芋を作ります!」と事業計画を熱く伝えるも反応はいまいち。そんな中、開発援助を行う政府機関のJICAでプレゼンをしたところ、当時の事務所長が支持してくれた。その後、照沼勝一商店の事業として支援事業にも採択される。JICAから最初の調査代金を受け取り、タンザニアの干し芋事業は動き出した。

長谷川さんが初めてタンザニアの地に足を踏み入れた時から20年近くたった2014年。照沼勝一商店や佐藤社長などから合計1000万円の出資を受け、マトボルワはスタートした。

干し芋作りに必要な気候、湿度、水質を考慮し、長谷川さんはかつて活動していたドドマに工場を建設した。こうやって干し芋作りに最適な場所を見つけ大きな一歩を踏み出したが、干し芋の開発までには予想以上の困難が待っていた。

◆干し芋の開発に7年の歳月

創業してからは、高品質な干し芋の日本輸出のために、干し芋の試作に明け暮れる日々。同社で生産している商品は、干し芋だけではない。運転資金を得るため、干し芋の試作と並行して、ドライフルーツや芋けんぴなどのお菓子も販売してきた。

「ビジネス環境が不安定なので、日本とタンザニアなど多様な市場向けに、複数の商品を揃えてリスク分散しています。さらに日本企業向けのコンサルもやり、なんとか(収入の)バランスをとって生きていますね」

2018年に初めて黒字化し、いよいよ農家との契約栽培をスタートさせる。

JICAの支援を得て、タンザニアに干し芋用の『タマユタカ』の品種登録を始めたのは2017年、ついに完了したのが4年後の2021年。こうして創業から7年の月日を経て、干し芋の日本輸出までまた一歩近づいた。

「さあ、これから日本への輸出を始めるぞ」と思ったのもつかの間、このタイミングで新型コロナが世界を直撃し、同社の売り上げにも打撃を与えた。しかし、製造機材の購入のためクラウドファンディングで950万円の資金を集めることに成功。なんとか立て直し、1日に100キロの干し芋を製造することができるようになった。

2022年には、タンザニアから日本への干し芋の輸出をついに実現させる。日本で輸入会社を設立し、オンラインショップ「アマ二市場」で販売することで日本での最初の販路を見出したのだ。

2023年には東京の展示会にも出展し大手スーパーからの問合せをもらい手ごたえを感じるがどうしても、取引に結び付かない。航空便での輸送により干し芋の卸価格が高くなることに加え、タンザニア産の食品は面白いけど安全性は担保されているのか……という小売店側の心配を言外に感じた。

ここで長谷川さんは父親から学んだ「実験をして自分の頭で考える」を実践しながらこの課題を乗り越える。年内にも航空便を船便に切り替え、茨城の工場でリパックする予定だ。これにより、日本のお客さんは、手頃な価格で安全にタンザニアの干し芋を楽しめるようになる。

◆売れに売れているタンザニア版「おこし」

実は、同社のほとんどの干し芋は日本向けに製造され、タンザニアでは一部の富裕層向けスーパーで販売されているのみ。というのも、タンザニアの干し芋は、日本のそれとは食べ方も価格帯も全く異なるからだ。常温で1年間保存できる乾燥した保存食のタンザニアの干し芋は、食べる時に水で戻して柔らかくし、味付けをする。バケツいっぱいに詰め込まれて一杯約60円ほどだ。

同社の商品で最もシェアが大きいのは「カシャタ」と呼ばれるゴマとピーナッツを原料にした日本でいう「おこし」で、これが売り上げを支えている。新型コロナにもかかわらず、2020年から、売り上げは毎年倍々ペースで安定している。

「カシャタはよく売れていて、作っても作っても間に合わない状態です。今は6本入りが2500シリング(150円)ですが、もっと小さい包装にして、子供たちがおやつとして手軽に買えるように小さいパッケージにしていく予定です」

契約している農家の数は現在15人ほど。あえて大幅に増やしていないのにも理由がある。

「契約栽培のやり方をある程度ちゃんと確立してからですね。そして、干し芋の日本での販売先をしっかりと作ってから、契約農家を増やしていく予定です」

干し芋の日本への輸出を進めながら、爆発的な人口増加が予測されるアフリカ市場で、現地の人々向けのドライフルーツなどの商品をさらに充実させていく予定だ。

◆徹底的に楽しむ「おっかない」社長

きっと、今までに何十回も聞かれているであろう質問を投げかけてみた。

「アフリカでの起業はとても大変だと容易に想像できますが、どうしてそんな苦労をしてまで、アフリカでビジネスをするんですか?」

すると、意外な答えが返ってきた。

「タンザニアは住み心地が良いですし、アフリカだから特別に大変ということはないです。そう言っても日本の人には信じてもらえないかもしれませんが(苦笑)。人口や所得が増えているアフリカで、食品事業はむしろやりやすいくらいです」

タンザニアで活動する日本人のビジネスマンたちからよく聞く「文化の違いからくる従業員との関わり方の難しさ」問題はどうしているのだろうか。現在の従業員は22人。聞けば、同社は特別に優秀な人材を募り採用するのではなく、「工場の近くに住んでいるから」という人が多い。

「(従業員との向き合い方は)日本の中小企業から学ぶことが多いです。普通の人々に気持ちよく働いてもらい成果を出してもらう。眠い時は15分まで昼寝をしていい制度とか、給食を出す制度も採用しています」

備品の置き場所を細かく決めて表示するなど、日本的な環境整備には毎日1時間費やしている。一方で物事の決め方や進め方は、タンザニアの文化を尊重している。

社内に揉め事があるときは、全員が納得するまで延々と話しあいをする。またある時は呪術師に頼んでお祓いしてもらったこともある。まじめに働くだけではなく、社員全員で生バンドの音楽で朝まで踊りに行ったりして、楽しむときは従業員と徹底的に遊ぶこともある。

普段は「おっかない」社長だが、給料は間違いなく地域の平均よりも高く、福利厚生も充実させると決めている。

「口だけきれいなこと言って給料がちゃんと払えない社長と、ちょっとおっかないけれど払うものはちゃんと払う社長。どっちを信用するかと言えば後者ですよね」

アフリカに必要なのは農業の知識ではなく、経営だと気づいてから、長谷川さんは20年の時を経て自分なりの経営手法を見出したようだ。アフリカならではの苦労話を期待していた私に長谷川さんはこう切り返した。

「日本だって大変なことはあるじゃないですか。『アフリカだから』って言ってしまいがちですが、実は日本にもあるよね、ということばかりですよ」

そういって例がタンザニアの契約農家とのエピソードだ。作付け前にサツマイモの苗を農家に配っていたのに、収穫の時期に行ってみると他社にサツマイモを売ってしまったというではないか。相場が上がり高い買値を提示した他社に横流しされてしまったのだ。

カルビーの契約栽培の昔を知っているOBに相談すると、たいがいこう言われるそうだ。「懐かしいね、そういうこと北海道でも80年代にはあったなー」

契約栽培の失敗談は尽きない。そんなに失敗しているのに、なぜ悠然と「でも大丈夫」といえるのだろう?その問いに「カルビーも北海道で同じ問題に直面して、それを解決できました。だからタンザニアでも解決できます」とあっけらかんと答えた。

創業から今年で10年。長谷川さんは、自身がタンザニアの地を離れても、タンザニア農家が販売先を守り、干し芋産業が持続可能なセクターとして発展していく土台を築きたいと熱く語る。『アフリカだから大変だ』という固定観念を一切持たず、タンザニアの地で奮闘してきた長谷川さんの後ろ姿に、多くの日本の食品会社が続いていくことだろう。

アフリカにカルビーを——多くの人が非現実的だと思ったその壮大な夢。しかし、長谷川さんは確かな手ごたえを感じながら、その実現に向けて着実に歩みを進めている。

<取材・文/堀江知子>

【堀江知子】

民放キー局にて、15年以上にわたりアメリカ政治・世界情勢について取材。2022年にタンザニアに移住しフリーランスとして活動している。著書に『40代からの人生が楽しくなる タンザニアのすごい思考法』がある。X(旧Twitter):@tmk_255