この季節が来るたびに思い出す、あの人のこと。切ない思い。苦しくて泣いた夜…。
うだるような暑い夏が今年もやってきた。
これは、東京のどこかで繰り広げられる夏の恋のストーリー。
▶前回:高級ホテルで1人過ごす夏休み。滞在最終日の朝、目を覚ますとそこは自分の部屋ではなく…
渋谷の夏/美和(26)
「美和?」
日が沈んでもなお暑い、19時すぎの金曜の渋谷。
最近リニューアルしたSHIBUYA TSUTAYAの前で、急に名前を呼ばれた。
「美和、だよな!やっぱり」
聞き覚えのある中低音の声の持ち主に、私は視線を向ける。
「あ… しん」
「久しぶり〜!!全然変わってないからすぐわかったわ。誰かと待ち合わせ?」
「慎吾」と私が言う前に被せてくるところが相変わらずだ、と思いながら、私はコクンとうなずく。
けれど、嘘だ。待ち合わせの相手は、今日は来ない。
なぜならつい5分前、マチアプ経由で知り合った男性にドタキャンされたから。
「そっかぁ。俺も今日は会社の人たちと飲みでさ。今度、久しぶりに飲もうよ。LINEするよ。“全然変わってない”は嘘。美和、大人っぽくなったな」
「ありがと、慎吾も」
遠野慎吾。忘れもしない。
彼は私が青学にいた4年間、ずっと片思いをしていた人。
大学を卒業して、旅行会社に勤めて3年。仕事は毎日同じことの繰り返しだし、出会いがないことを言い訳にして、積極的に恋もしてこなかった。
慎吾に出会えたことは、パッとしない私の人生には刺激的な出来事だった。
◆
「それじゃあ、久しぶりの再会に…」
「乾杯!」
「カンパーイ」
「おつかれ〜」
慎吾との偶然の出会いから2週間後。私たちは再び渋谷で顔を合わせることになる。
私と慎吾はイベントサークルの幹部で、慎吾がバイトしていた渋谷の居酒屋で集まるのが決まりだった。
派手じゃなかった私が、無理をしてイベサーの幹部になったのは、慎吾がいたから。
彼のリーダーシップと人望の厚さに憧れ、いつのまにか好きになっていた。でも、関係が壊れてしまうのが嫌で、気持ちを打ち明けることなく卒業。
始まらなかったから終わりにもできず、ずっと頭の片隅にこびりついていた人。そんな彼が目の前にいるのが、不思議だった。
LINEで予定を聞かれた時は、舞い上がったがデートの誘いではなかった。
同じサークルの、祐奈(ゆうな)とアキラを含めた4人での会が開催されたのだ。
― まぁ、ふたりで会う理由もないしね…。
私が慎吾に思いを寄せていたことを知っているのは、恐らく祐奈だけ。
慎吾に女子大の彼女ができて、泣きながら祐奈に電話したことがある。
「いやぁ、美和と慎吾が偶然出会ってくれて良かったよ。もう君らとは縁が切れたのかと思ってたもん〜」
アキラが冷えた生ビールを半分ほど一気に飲んでから言った。
「まぁ、それぞれ業種も違うし、社内の人間と飲む方が多くなるから仕方ないんじゃない?」
慎吾が枝豆を口に運びながら答える。
慎吾は、起業家の出身が多いIT広告会社、アキラは飲料メーカーで、祐奈は外資系アパレル。
そう、見事に分野が違うのだ。
「なんかさ、社会に出て世界が広がったと思ったけど、結局自社のルールに従うことになるし、意外と窮屈。それに、やってることは学生の頃と変わらないよね」
祐奈はそう言いながら笑っていたが、的を射ていると私は感じていた。
社会人4年目になった私たち。
選ぶお店は学生時代よりランクアップしたものの、変わらず渋谷にいるし、ドレッシング多めのシーザーサラダをつまみにビールを飲んでいる。
「ねぇ、慎吾は今“特定の”彼女いるの?モテるからって遊びまくってるんだろうけど」
しんみりした空気を、祐奈が毒舌で打開した。
「特定の、とか言うなよ。彼女はいませんよ〜」
「えっ、いないの!?」
思わず心の声が漏れ、それを見逃さなかったアキラが、すかさず私たちをひやかした。
「てか、ふたりお似合いじゃね?慎吾って美和みたいなの好きだろ。メイク薄め、爆美女って程じゃないけど、謎に色気ある系」
「あのさ。それ褒めてないよね…」
私はアキラを睨み、祐奈は「やめなよ」と止めたが、慎吾はその発言を否定はしなかった。
盛り上がるアキラと、それに乗っかる慎吾。
「もう、いいかげんやめなってば〜」
祐奈がうんざりしながら言う。
私は苦笑いで通したが、この会が終わった後、慎吾は本当にデートに誘ってきた。
1週間後。
慎吾が指定してきたのは、桜丘町にある『高太郎』。
他の人と行くつもりで1ヶ月前から予約していたが、その人の都合が悪くなったらしい。
私も数年前に一度訪れたことがある。
その時も食べたと思うのだが、讃岐メンチカツが絶品で、ビールと合わせると最高だった。
再開発が終わらない渋谷。新店も次々とオープンしていくなかで、美味しさが保証されている安心感は、私たちの食事にはぴったりだった。
「俺の家、この近くなんだけど。もう少し飲んで行かない?」
食事の後、慎吾は私をストレートに誘った。
「家で飲むの?」
「うん。ほら、いいから行こう!」
学生の頃は、渋谷で飲んだあと、酎ハイをコンビニで買って宅飲みするのが、私たちの定番だった。
慎吾は、今日もその感じで私を誘っているのだろうか。そうだとしても、感情が追いつかない。
でも、行かない理由も見当たらなかった。
◆
「白ワイン飲む?これ、値段の割に結構美味しいみたいよ」
慎吾の部屋に入ると、リビング中央のソファに座るように促される。
エチケットにはブレッド&バターと書いてあって、慎吾はそれをグラスに雑に注いだ。
― そういえば、祐奈も白ワインにハマってるって言ってたなぁ…。
そんなことを思っていると、慎吾が横に座りグラスを私に手渡す。
「あのさ、俺ホントは知ってるんだ。美和が俺のこと…。ごめん。随分前に人から聞いて…」
― ひっ!
思いもよらぬ事実の発覚に、心拍数が上がる。
「そうだったんだ。あ、でも過去の話だから忘れて。気まずくなりたくないし。それに、こうやって会ってるのだって、アキラがけしかけてきたのもあるでしょ?」
体中から嫌な汗が出てくるのがわかる。
「違うよ。アキラに言われたからじゃない。美和のこと、いいなって思ったから誘ったんだよ」
「……そうなの?えっと、いつから?」
私は真顔で尋ねる。
「それはごめん。学生の頃からじゃなく、スクランブル交差点で偶然会った日。美和って可愛かったんだなぁっていうのと、昔の俺を知ってる人だから安心した」
「昔の慎吾を知ってる…か」
独り言のように呟いた次の瞬間、慎吾が私を抱き寄せた。
爽やかさの中に、ほろ苦さを感じる匂いがする。
「美和、今も俺のこと好きなの?」
「す、すきだよ」
そう言うしか選択肢はなかった。
私は慎吾が好き。サークルの中で中心人物で、みんなに好かれていて、行動力のあった慎吾が。
だから今の慎吾も好き。
私は、目を閉じて彼に身を任せた。
「あっついね。美和、水飲む?」
「ありがとう」
正直言うと、そこまでの感動はなかった。なるほど、こんなものか…というのがリアルな感想だ。
ずっと願っていた状況。そこに急に置かれたから、戸惑っているのだろう。
けれど、隣で寝息を立てているのは、間違いなく遠野慎吾で、私が4年間思い続けた男なのだ。
― 大丈夫。幸せ、幸せ。幸せ。これでよかった。
そう自分に言い聞かせ目を閉じると、慎吾のスマホが振動した。
そのバイブは鳴り止まない。
― 電話…ん?
私は、無意識のうちに通話ボタンをタップした。画面に『祐奈』と表示されていたからだ。
「なんでLINE返してくれないの?まだ怒ってる?ごめんってば。お願いだから、もう仲直りしようよ」
私は、慌てて通話を終了した。
― 祐奈…が慎吾と?えっ…!?
勝手に電話に出たことを後悔する暇もなく、ひたすらに混乱した。
心臓をバクバクさせたまま服を着て靴を履いたが、家を出る頃にはだいぶ冷静になれた。
「あぁ、だからあの時…」
4人で会った時の祐奈の言動を思い起こすと、慎吾と何かあったようにも受け取れる。
けれど不思議なことに、ふたりの関係を知りたいとは思わなかった。
私が好きだったのは、昔の慎吾。なのに、気づかないふりをしていたのだ。
それを認めると、胸の奥がすっと落ち着いた。
「あ、サクラステージ…」
タクシーを拾おうとしばらく歩くと、桜丘の新しい商業ビルが目に入る。
渋谷の街は、着実に変化…いや進化している。それなのに、私はどうだろう。
今を一生懸命に生きることより、美化された記憶を大事にしすぎたのではないだろうか。
私も前を向いて歩かなければ。
「今度、行ってみようっと」
真夜中の渋谷で、私は生ぬるい夜風に当たりながらつぶやいた。
▶前回:高級ホテルで1人過ごす夏休み。滞在最終日の朝、目を覚ますとそこは自分の部屋ではなく…
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