東京に点在する、いくつものバー。
そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。
どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。
カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。
▶前回:エアコンの設定温度でケンカに…。夏のお家デートで露呈した、29歳男の本性
Vol.9 <ゴッドファーザー> 堂島由紀(28)の場合
由紀がひどい頭痛に悩まされているのは、大型の台風が接近しているからだけではない。
総合病院の広い院長室にある革張りのデスクチェア。
そのデスクチェアに深々と身を沈め、みじろぎもせずにむっつりと座り込んでいる院長の眉間の皺のせいだ。
できることならそっとしておきたいが、院長承認をもらわなければならない書類が山ほどある。
秘書としてみすみす放置するわけにもいかず、由紀はなるべく無機質な声で声をかけた。
「院長。また、例の小児科の話ですか?」
「うん。あいつら、何もわかってないんだ。まあいい。由紀、コーヒー」
「…はい」
院内では自分のことを「お父さま」ではなく「院長」と呼ばせるくせに、院長──いや、父の方は自分のことを、所構わず「由紀」と呼ぶ。
その傲慢さに辟易しながらも、由紀はそれを表に出すことなく、黙って給湯室へと向かった。
― お父さまには、何を言ったってどうせ無駄だし。
ドリップコーヒーが一滴ずつカップに溜まっていくように、由紀の心にも黒く、苦い思いがじわじわと広がっていく。
父に歯向かっても、意味はない。
そのことは、1ヶ月前──快利と別れさせられた時に、いやというほど思い知らされたのだから。
◆
「別れなさい」
そんな父の静かな声とともに、バカラグラスがウォルナットのダイニングテーブルに置かれたのが、ちょうど1ヶ月前のことだ。
「お父さま、私…」
父のグラスを満たしている、深い茶色の液体。
その正体は、由紀が作ったゴッドファーザーだ。
ウイスキーに、杏のリキュール・アマレットを加えたシンプルなカクテル。カクテルが好きな快利と付き合っている影響で、由紀もいつのまにか作れるようになった。
この日は自宅で両親と由紀の3人で夕食を済ませたあと、9年続いている快利との付き合いについて、珍しく父から質問をされ…。
快利のことをポツリポツリと話しているうちに、父の眉間にはだんだんと深い皺が寄りはじめる。
そんな父の態度にどうしようもない苛立ちを募らせた結果、由紀は小さな反抗のような気持ちで、「独裁的な父親」という嫌味を込めて、食後酒にゴッドファーザーを作って出したのだった。
けれど…。
由紀が渡したグラスに注がれていたものが、ただのウイスキーではなかったことに気づいた途端。父の声には、有無を言わせぬ響きが滲んだ。
「別れなさい、由紀」
「な…どうして?そりゃ、お父さまが快利のことあんまり気に入ってないことには、ずっと気づいてるよ。
でも彼だって、今はアパレルの仕事だって始めたし…」
「アパレルだかなんだか知らないけどね、お前の顔を見ていれば、彼がどんな男なのかはわかるよ」
「なによそれ。お父さまが最後に快利に会ってから、もう何年も経つじゃない。たかだか数回しか会ったことないくせに、お父さまに快利のなにがわか…」
そこまで言い返した時、父の鋭い目線が由紀を貫いた。
「由紀」
「……」
「その何年もの時間のなかで、嫁入り前の娘がこうして、どんどん酒を作ることばかり上手くなっていく」
自分の密かな抵抗が火に油を注いだ結果とはいえ、父の目を見た瞬間に由紀は悟った。
― あ、これ…もうダメだ。
この目をしている時の父にはまさに、誰も逆うことができない一家の長──ゴッドファーザーそのものなのだ。横暴と言ってもいいほどに。
一縷の望みをかけて、ひっそりと台所に佇んでいる母に目線を送る。しかし、母の瞳にも、すでに諦めの色が浮かんでいた。
「由紀、わからないお前じゃないだろう。姉さんの、仁美の二の舞は勘弁してくれ」
ダメ押しのごとく姉のことまで出されてしまっては、もう、完全におしまいだった。
家族の中で、腫れ物のように扱われる姉。悲惨な過去を持ち、大いなる過ちを犯した姉。
これ以上由紀が我を通したら、ようやく姉の“あの事件”から立ち直ったばかりの家族が、今度こそ本当に壊れてしまうかもしれない。
どうしようもなくなった由紀は、長い沈黙のあと、蚊の鳴くような声で答える。
「……はい…」
どうにかそう答えると、アンティークの調度品で美しく飾られた広いリビングから出ていく。
震える手で手すりを握りながら、2階の自室へと引き上げる。
そして、幼少期から愛用し続けているシングルベッドに突っ伏し、ひとしきり泣くと──。
ゆっくりとスマホを取り出して、『もう会えない』と、快利にLINEを送ったのだった。
◆
それ以来、秘書としての仕事は淡々とこなしているものの、父との会話は全くない。
父と娘ではなく、院長と秘書。
どうにかそう自らを納得させて仕事に向き合っているのに、無神経に「由紀」と呼びかけてくる父には、心底嫌気がさす。
少しでも、父と離れていたい。
その一心のなせる技で、仕事は定時である17時までに完璧に終わらせられる効率性が身についたのは、怪我の功名といったところだろうか。
「院長、お疲れさまでした」
今日も時計の針が17時を指すなり、由紀は荷物をまとめて院長室を出ていく。
「由紀…」
背後で父の呼びかける声が聞こえたが、無視して扉を閉めた。
帰る場所は、同じ上野毛の実家ではある。けれどせめて、父の運転するメルセデス・ベンツSクラスには乗らずに、電車で帰宅するのだ。
夕飯もここ1ヶ月は父と時間をずらすか、田園調布雙葉学園時代からの幼なじみの友人たちと取ることが多い。
いっそ、快利が住む代々木のマンションで同棲してしまおうか、と思うことがある。
しかし、その衝動を抑えることだけが、今の由紀が父に対して見せられる、最大の従順さなのだった。
父に対する由紀の複雑な感情が揺らいだのは、その翌日のことだった。
「え…?お父さま、昨日帰ってきてないの?」
「そうなのよ。由紀ちゃん、様子見てきてね」
母の心配そうな声に、わずかな不安がつのる。駐車場にもベンツは停まっておらず、どうやら本当に帰宅していないようだった。
「おはようございます…」
恐る恐るドアを開けた院長室は、もぬけの空だった。
パソコンを立ち上げて今日の院長のスケジュールを確認するものの、特にこの時間に入っている予定はない。
もちろん、昨夜も会食の予定なども入っていない。父とは冷戦状態が続いているとはいえ、昨日のうちにしっかり確認したはずだ。
― 一体、どうしたんだろう…?
と、気が焦った時だった。
開けっぱなしになっていたドアの前を、足早に歩いていく音がする。この病院ではベテランの外科医だ。
「先生、すみません!あの…院長って、どちらかご存じでしょうか」
慌てて院長室を出て外科医を呼び止めると、くるりと振り返った外科医が言った。
「ああ、院長なら宿直室でしょ。いやぁ、昨日みたいな姿を院長直々に見せられちゃうとね…。
いくら採算とれないからって、小児科を閉めましょう…って、言えなくなっちゃうね。じゃあ」
「え、宿直室…ですか?」
医師の言っている意味が全くわからなかった由紀は、慌てて宿直室を訪れる。
するとそこには、ちょうど身支度を整えている父の姿があったのだった。
「院長」
「お、すまん。母さん心配してたか」
そう言う父の目の下は、くまが浮かんでいる。聞くと、昨夜帰宅をしようとした頃に入院中の小児患者の病状が急変し、院長である父自らが緊急手術に対応したとのことだった。
「みんな出払ってたし、小児だからね。当直の研修医よりは、いくらなんでも俺のほうがマシってもんだろう」
しょぼしょぼとした目をこする姿は、どこからどう見ても60歳半ばの老人だ。
けれど、疲れた目が。曲がった背すじが。しわがれた声が…白衣に袖を通した途端、堂々とした威厳を放つ。
術後の患者さんの経過を見に入院病棟を訪れ、ひとりひとりの患者と、子どもたちと目を合わせながら、安心感をもたらす笑顔を浮かべる父の姿は、ただの老人ではなく“医師”だ。
「子どもはね、宝物ですから。子どもが笑顔でいることが、なにより大事ですからね」
「先生は神様です」と恐縮するご家族に、決して偉ぶらずに伝える父の背中。
その高潔な白さに胸が思わず熱くなった由紀は、気がつけばこの日久しぶりに、定時を過ぎた20時半まで院長室で残業に取り組んだのだった。
すっかり暗くなった窓の外を見ながら、父がボソリと呟く。
「由紀、今日は遅いんだな」
「まあ、色々とやることがあったので…」
「…そろそろ帰るけど、車、一緒に乗って帰るか」
わざわざ聞いてくるということは父のほうも、この1ヶ月のあいだ由紀が自分を避けていることを気にしていたということなのだろう。
快利と別れさせられる前は、予定がなければ一緒に車に乗って帰ることが多かったから。
けれど由紀は、無機質な声で答える。
「いえ、乗りません」
少しかたくなさが緩んだとはいえ、父の車には今日も乗らないつもりだ。由紀のつれない答えに、父も淡白な響きで、「そうか」と返す。
しかし由紀の言葉は、ここで終わりではなかった。
「院長も…お父さまも、今夜は車は置いて行くことにしない?」
その夜、由紀が父にせがんで連れてきてもらったのは、銀座にある父の行きつけのオーセンティックバーだった。
こぢんまりとした飲食店ビルの地下へと下り、「会員制」のゴールドプレートがかかった重たい扉を開ける。
飴色に艶めく重厚な木製カウンターと、壁一面にズラリとならんだ国産ウイスキーのボトルの数々。由紀たちの他には、お客は誰もいない。
以前にも2、3回連れてきてもらったことがあるが、静かなクラシックが流れるこの落ち着いた環境であれば、父に、本当の気持ちを話せるような気がした。
無言のまま席に座ると由紀は、父が響のロックを頼もうとするのを制止して、バーテンダーに注文を伝える。
「…嫌味じゃないよ」
注文を済ませて、父に小さくそう告げたが、父から帰ってきたのは沈黙だけ。
間をおかず、短いステアの音がして、二つのロックグラスが目前に置かれる。
父と由紀の前に並んだのは他でもない、あの別れの引き金になった、琥珀色のゴッドファーザーだった。
無言のままグラスを持ち上げ、舐めるように一口味わう。
ウイスキーの深い味わい。アーモンドを思わせる甘い香り。25度という強い度数が、冷え切った心を溶かしていく。
「お父さま、私…」
本当は、わかっていた。
父が、快利とのことを応援してくれなかった理由なんて…わかっているに決まっている。
暑がりの快利の部屋で、上げられていた設定温度。
大金を手に入れて、自堕落に伸びた無精髭。
自分には似合わない色の、リップがついたグラス。
9年もの付き合いのあいだ、一度も出ない将来の話。
振り向いて欲しくて、必死に勉強したカクテルのレシピ本───。
そういったものに囲まれていた自分は、この9年、父に笑顔を見せることができていただろうか?
そんなこと、わざわざ父に確認するまでもない。
「お父さま、私…」
それ以上の言葉が出ない。代わりに、視界がどんどんぼやけていく。
けれど、そんな由紀の肩を、父はおずおずと抱き寄せて言った。
「すまん、俺はただ…。子どもには、笑っててほしいんだ」
「う、うぇ〜ん…」
途端に、由紀の目からとめどなく涙が溢れ出た。
「子どもはね、本当に、宝物だから…」
そう父が繰り返すたびに、自分の価値が変わっていく。ゴミ箱にでも投げ捨てたくなっていた自分自身が、大切なもののように思えていくのが不思議だった。もしかしたら、本当に父は、神様なのかもしれない。
まるで子どもの頃のようにしゃくりあげる由紀の泣き声のせいで、バッグの中で震えるスマホの着信は聞こえない。
度数の強いゴッドファーザーは、飲み切るのに長い時間がかかる。
ふたつのグラスが空になる頃には、どうしようもなく恥ずかしいけれど──。
父の前で、9年分の涙を出し切ってしまえるだろうか?
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