◆A級戦犯とは最悪の犯罪者のことではない
「あいつが試合に負けたA級戦犯だ」「経営悪化のA級戦犯はあの取締役だ」と、日常的に使われるA級戦犯という言葉。じつはその意味を正しく理解している人は少ない。
先の大戦後の軍事裁判では、A級戦犯のほかにB級戦犯とC級戦犯があった。A級戦犯が最悪でB級・C級はそれほどでもない印象があるが、それは間違い。罪の軽重や上下関係は表していない――現代では完璧に罪の軽重を表していることになっているが……。
〈「A級」は「侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行し、或いは共同謀議をした者」を指す。特定の地域に限定せず、「平和に対する罪」を犯したと認定された者ということになる。
「B級」は「特定の地域(主にアジア)で、戦争法規や慣例に違反した殺人、捕虜虐待、略奪などを行った者、主として指令者」を指す。
「C級」は「特定の地域(主にアジア)で、捕虜に人道に反した殺人、虐待をした者や現地住民に対して虐待をした者、主として実行者」を示す。〉(『評伝 南京戦の指揮官 松井石根』(早坂隆著 育鵬社刊)より)
極東軍事裁判(東京裁判)で起訴されたA級戦犯は28人。そのうち7人が処刑され、16人は終身刑(のちに釈放)、ふたりが有期刑とされた。処刑された7人は板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根(以上、陸軍将校〔海軍将校はいない〕)、広田弘毅(文官)である。
この裁判が事後法――実行のときには適法であった行為に対して、のちになって刑事責任を問うことを定める法令――による裁きであることなど、無理筋なのは開廷前から日本は勿論、戦勝国の法曹界からも指摘されていたが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は無理を押し通した。〈「日本の戦争犯罪人を裁く」ことを目的としてこの裁判が開廷したのは、昭和二十一年(一九四六年)五月三日の午前十一時二十分のことである。二年半にも及ぶ長き裁判の幕開けであった。
判事は戦勝国側の代表者のみで構成されていた。しかも、「国家の行為に関して個人の責任を問う国際裁判」に理論的な正当性が希薄であることは、検察側も認めざるを得ないところであった。>(前掲書より。以下同)
さらに同裁判の首席検察官のジョセフ・キーナンはこんな発言をしている。〈「なんというバカげた判決か。(中略)松井、広田が死刑などとは、まったく考えられない。松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか」〉。10万人近い民間人が犠牲となったとされる東京大空襲の指揮官だったカーチス・ルメイはこう語っている。〈「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」〉。東京裁判が如何に無理筋だったかは勝者・敗者ともに認めているといえよう。
◆生涯を通じて日中の親善が最大で唯一の哲学であった松井石根
さて、東京裁判で死刑判決を受けた7人のうちのひとり、松井石根である。生涯を通じて日中の親善が最大で唯一の哲学であった彼は、「中国人を大虐殺した(南京大虐殺)責任」を問われ、刑場の露と消えた。陸軍幼年学校時代に「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という川上操六(陸軍の重鎮)の見識に感銘を受け、欧米の植民地主義からアジアを解放する理想を抱いていた松井は何よりも中国との提携を重視していた。
皮肉なのは、その松井が指揮した日本軍が南京で大虐殺を行ったとされ、それを統制する義務を怠った咎(とが)で死刑判決が下されたことだろう。陸軍きっての親中派が、である。
指揮官として南京に入城して約1ヶ月半後、松井は中支那方面軍司令官を退任させられ、帰国する。その後静岡県熱海市郊外に移ったのだが、近くの伊豆山中腹に昭和15年、「興和観音」と呼ばれる観音堂が建立されている。日中両国の戦没者を慰霊することを目的としたこの観音堂を開基したのは、ほかならぬ松井であった。観音像は、中国の激戦地だった大場鎮(だいじょうちん)と南京の土を日本まで運び、材料として使用している。これは「日中両軍の兵士の血の染みた土で観音菩薩像を建立したい」という松井たっての希望からだった。日本人と中国人を平等に回向(えこう)することが、松井の強い意向だったのだ。建立後、松井は毎日、山麓に位置する自宅から山道を登り、観音堂に参詣して、ひたすら読経したという。
◆7人の遺骨は太平洋に散骨された?
令和3年6月、A級戦犯の遺骨を太平洋に撒いたと米軍将校が記した報告文書が発見された。〈文書によると、少佐は48年12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズン(東京)で7人の死刑執行に立ち会った。遺体を乗せたトラックは午前2時10分、巣鴨プリズンを出発し、1時間半後に横浜市内の米軍第108墓地登録小隊(現・横浜緑ケ丘高)に到着。午前7時25分に小隊を出て、30分後に同市の火葬場(現・久保山斎場)に到着した。遺体は午前8時5分までにトラックから直接、炉に入れられた。
火葬後、別々の骨つぼに納められた7人の遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれ、「横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで連絡機で進み、私が遺骨を広範囲にまいた」と記している。〉(『日本経済新聞(電子版)』(6月7日付))
しかしながら、7人の遺骨は間違いなく熱海の興亜観音に埋葬され、供養されている。その経緯が『評伝 南京戦の指揮官 松井石根』に記されている。〈東京裁判の弁護団の一人であった三文字正平は、七名の遺骨を米軍から取り戻す計画を密かに画策していた。遺骨を遺族の元に戻したいという一心であった。(中略)火葬場長である飛田は米軍将校の監視の目を盗んで、七名の遺骨の一部を、予め用意しておいた七つの小さな骨壺へと納めることに成功した。飛田は七つの骨壺を速やかに別の部屋へと移して隠した。しかし結局、線香に火を灯したところを米兵に発見されてしまった。
米兵は遺骨をひとまとめにして、無縁仏などのための共同遺骨置き場に無造作に投げ入れた。一時は茫然となった飛田だが、彼はまだ諦めなかった。
その夜、(中略)共同遺骨置き場へと忍び込んだ。(中略)広さは二坪ほどで、深さは四メートルほどだった。骨を投入する口の部分は、幅十センチ、高さ三十センチほどの長方形をしており、その上には御影石製の花立てが置かれていた。(中略)遺骨置き場の底の方に真新しい白骨が相当量あったのを確認した。(中略)火かき棒の先に空き缶を付けて、丁寧に骨を掬くい取った。苦心した挙げ句、漸く骨壺に一杯ほどの量を集めることができたという。〉
〈昭和二十四年(一九四九年)五月、それまで興禅寺に隠されていた遺骨が、熱海の松井宅に運ばれることとなった。七名の遺族らが故人を偲ぶため松井家に再び集まることを知った三文字らが、この機会に遺骨を返そうと考えたのである。(中略)遺骨を持った三文字らが松井宅に到着した。(中略)三文字は早速、遺骨を遺族らに渡そうとした。すると東條の未亡人・かつ子が、三文字に次のような意味のことを言ったという。
「御厚志は真にありがたいが、万が一、私たちが遺骨を保存していることが探知されたら、あなた方に取り返しのつかない非常な御迷惑がかかる。当分、どこかへお預けして時機の到来を待った上で分けていただきたい」(中略)七名の遺骨はそのまま興亜観音に託されることとなった。〉
◆荒れ果てた道、急勾配の坂
来年で敗戦から80年になる。いまも熱海郊外の伊豆山の中腹に興亜観音は立っている。観光シーズンには大渋滞になる国道135号から数百メートル伊豆山に入った、徒歩で10分あまりのところだが、その道は荒れ果て、勾配も急でおよそ観音堂が立っているとは思えない。一般の宗教法人と異なり、墓地もなく檀家もいないため、収入は建立時から続く支援組織「興亜観音奉賛会」の会費などごくわずかだという。
ここで供養されているのは、「事後法で裁く」という罪刑法定主義に反する行為で死刑に処された、日本の国益を護りアジアを欧米の植民地主義から解放するために尽力した人たちである。その遺骨が埋葬されている観音堂が荒れ果てているのは、あまりにも先人への敬意が欠けていないだろうか? いま興亜観音が荒れ放題なのは、我々の倫理観を象徴しているのかもしれない。