この季節が来るたびに思い出す、あの人のこと。切ない思い。苦しくて泣いた夜…。
うだるような暑い夏が今年もやってきた。
これは、東京のどこかで繰り広げられる夏の恋のストーリー。
▶前回:デートで終電を逃して「タクシーで帰る」という29歳女。本音はお泊まりしたい…?
浅草の夏/瑞穂(31)
「あ!浅草特集してる〜。私たちもここ行ったよね」
土曜日の正午過ぎ。
遅く起きた朝から、ずっとつけっぱなしになっているテレビを見て、私は龍之介に話しかける。
「ん?」
龍之介は、スマホから目を離さず生返事をした。
同棲して5年目に突入する、私たちのいつもの風景だ。
「もう〜覚えてないの?初めてお昼からデートしたの浅草だったじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ。明日お互い予定ないし、久しぶりに行ってみる?」
「え〜、もう8月終わるけど、まだ暑いよ…遠いし」
龍之介は、いいリアクションをしない。けれど、私は食い下がった。
「そんなこと言わずに、行こうよ!今年まだ浴衣着てないしさ」
「はいはい、わかったよ」
「やった〜!楽しみだなぁ」
ふたりにとって思い出がある、夏の浅草。私には、どうしても行きたい理由があるのだ。
◆
翌日。
「いやぁすごい人だな〜」
「本当だねぇ」
私と龍之介は、予定通り浅草を訪れた。
雷門の前は、外国人や観光客が写真撮影をしたり、待ち合わせをしたり、とても賑やかだ。
『天麩羅 中清』でランチをして、人気の甘味処に並び、抹茶と小豆のかき氷をオーダーした。
デートらしいデートが久しぶりなのに、龍之介は今日もスマホばかり見ている。
「このあと、どうする?」
「う〜ん。もうお腹いっぱいだしなぁ…帰る?」
「早すぎだって。もうちょっと居ようよ」
「じゃあ、何するか瑞穂が決めて」
「……」
― 龍之介は楽しくないのかな。
朝イチで美容院に行き、着付けとヘアメイクをしてきたほど浮かれている私と、彼のテンションはまるで正反対だ。
「う〜ん。何か、体験系か、お買い物かなぁ」
「いいね!なんでもいいよ」
「なんでもいいと言われても…」
大手保険会社で総合職の私と、動画編集代行の会社を経営している龍之介。
今年で31歳になる私は、そろそろふたりの関係をステップアップさせたいと思っている。
しかし、そこには大きな壁がある。
私たちは完全にマンネリ化しているし、お互いを想う気持ちに差があるのも明らかだ。
― 龍之介は、私のことがもうそんなに好きではない。
繰り返す日々の中で、そう感じることが増えた。
だから、同棲の先にあるのは、別れなのか結婚なのか、そろそろ確かめたいと思っていた。この浅草デートは、未来の私のためのデートなのだ。
「江戸切子体験か、合羽橋まで移動して買い物するならどっちがいい?」
私は、溶けかけたかき氷を食べながら龍之介に聞いた。
「そこって、何があるんだっけ」
「お皿とか、調理器具…あとは食品サンプルも有名だよね」
「いいじゃん。何か新しい皿でも買おうか」
― 料理はしないのに、お皿に興味があるんだね。
私は、呆れながらも一緒に合羽橋へ移動した。
― ふたりで使う食器ね…。
新婚だったり、同棲したてのカップルだったら、楽しすぎる時間だろう。
けれど、龍之介との未来が見えない今、何を見ても欲しいと思えなかった。
「瑞穂、本当に何も買わなくていいの?」
「うん…いいや」
「あっそう。って、もう15時半?ちょっとどこか店に入っていい?競馬が始まるわ!レース見なきゃ」
私は頷き、龍之介について行く。
彼はお酒が飲みたかったらしく、タクシーでホッピー通りへ向かう。
どの店も混んでいて店内には空きがなく、外の席で飲むことになった。
まだ陽が落ちない浅草の夜は蒸し暑く、浴衣を着ている私には少々キツかった。
「ねぇ、龍ちゃん。それ飲んだら他のお店に移動しない?」
「なんで。入ったばっかりだよ」
「ごめん、ちょっと暑くて…」
「もう〜張り切って浴衣着るからじゃん…わかった。じゃあ、もう帰ろう」
私たちは、配車アプリでタクシーを呼び、自宅がある武蔵小山へ向かう。
車内で特に会話をすることなく、ぼ〜っと外を眺めていると、自然と涙が溢れた。
― 今日のデートが楽しくなければ、別れる。
これは、何日か前から決めていたことだった。
27歳から4年間。20代後半を龍之介と過ごした。
4年前、龍之介は「一目惚れした」と目黒の居酒屋で私に声をかけてきた。
それからデートを重ね、付き合ってすぐに同棲を始めた。同じベッドで眠って、同じ匂いがする服を着た。
好きな人が待つ家に帰るのは、本当に幸せだったけれど…。
「結婚前の同棲は、デメリットの方が多い」
そのことに気づくのに時間はかからなかった。
結婚前に体験しなくてもいいような、色気のない生活が当たり前になるし、一緒にいることも特別じゃなくなってしまう。
それでも同棲を解消しなかったのは、龍之介が好きだったし楽だったから。
私といるのが楽なのは、彼も同じだろう。だけど、もう限界だ。
楽なだけでダラダラと付き合い続けるほど、私は若くないのだから。
「もう、東京の夏は無理だな〜。来年は北海道とか軽井沢にでも行くか」
「…そうだね、暑すぎるね」
― 来年は、きっと一緒にいないよ。
龍之介はもう、私が泣いていることにも気づかなくなってしまった。
それだけじゃない。浴衣を褒めないし、自らデートプランを考えることもない。彼の言動から、愛されていると実感できなくなったのだ。
家に着くと、龍之介は真っ先にシャワーを浴びて、缶ビールを飲み始めた。
「龍ちゃん」
私は、浴衣姿のまま彼に声をかけた。
「どした?瑞穂もお風呂入ってきなよ」
「…別れよ」
龍之介は狐につままれたような顔をしている。
「別れる?なんでよ。まさか、他に男でもできた?」
「そうじゃないよ、もう限界なの…」
彼は、本当に何もわかっていない。
4年も付き合ったのだ。ここは優しい心で、別れる理由をきちんと説明すべきなのだろうか。
私はあなたと結婚したかった。その願望を何度かほのめかしていたし、誕生日、記念日、クリスマス…いくらでもチャンスはあったはずだよね。それと、私と居ることに慣れてしまうのは仕方ないとしても、もう少しデートを楽しんだり、気遣ってくれてもいいんじゃないの?と。
でも、私は言わなかった。
「イヤだよ」
「え?」
「だから、急に別れるは意味わかんないって」
龍之介が別れを拒むのは想定外だった。
「じゃあ、私たちが付き合ってる意味ある?この先の未来のこととか…考えてないでしょ」
私は、真剣な眼差しで龍之介を見た。
このタイミングで求婚されるとは、もちろん思っていないが、最後の最後に希望を抱いてしまうのは、なぜなのだろう。
もっと力強く引き留めてほしいと願ってしまうのは、どうしてなのだろう。
「…わかったよ。瑞稀がそうしたいなら。別れよう」
― だよね、ありがとう。
けれど、龍之介は、私とぶつかるよりも別れを選んだ。
2週間後。
私は龍之介が仕事でいない間に、ふたりで住んでいた部屋を出た。
『私ね、龍之介のこと大好きだったよ。でも、自分のことはもっと好きだし大事にしたいの。だから、さよならするね。今までありがとう、バイバイ』
テーブルの上に置いてきた手紙に、嘘偽りはない。
楽しかった思い出は数えきれないし、感謝もしている。
ただ、この先将来を見据えて付き合う人には、何年経っても褒められたいし、私とのデートを楽しみにしてほしい。
「よし。次行こ、次!」
私はわざと明るく声を出して、マンションのドアを閉めた。
▶前回:デートで終電を逃して「タクシーで帰る」という29歳女。本音はお泊まりしたい…?
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▶1話目はこちら:「東京オリンピックに一緒に行こう」と誓い合った男と女。7年越しの約束の行く末は?
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