『先生の白い嘘』公開日から1ヶ月以上が経った。7月5日の公開日にパンフレット販売延期がアナウンスされていたが、8月1日、発売中止が発表。どうしてこのタイミングだったのか?
公開日前日に掲載された監督インタビューが大きな火種となり、現在も議論が重ねられている。主演の奈緒が舞台挨拶で瞳を潤ませたことも各媒体が報じた。主演俳優が図らずも問題提起することになったのは、濡れ場を撮影する現場でコミュニケーションを担う「インティマシー・コーディネーター導入」についてだ。
この職業名は広く浸透しているとは言えない。そればかりか日本の映画界での認識不足を露呈させる出来事として出来してしまったのだ。イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、加賀谷健が、本作をきっかけとして今改めて理解を深めるべきインティマシー・コーディネーターの必要性について解説する。
◆『不適切にもほどがある!』での描き方は…
「え、あんたが? 見かけによらずスケベなんだね」
阿部サダヲ主演ドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS、2024年)で、1986年から令和にタイムスリップしてきた小川市郎(阿部サダヲ)が、テレビ局のカウンセラー職を得て、相談にやってきたひとりの女性、ケイティ池田(トリンドル玲奈)に対して不躾に言い放った。
ケイティは、「濡れ場やベッドシーン専門のコーディネーター」であるインティマシー・コーディネーターだ。市郎にとって聞き慣れないどころか、日本でもこの職業名は流通し始めたばかり。昭和世代ごりごりの市郎が「インテリア、しっこ出ねーな」と正しく発音できないのはご愛嬌だが、ドラマ撮影現場場面での描き方はさすがに見過ごせないものがあった。
◆「濡れ場だけ特別」なのはどうしてか?
女性俳優のベッドシーン。市郎も監督の後ろに控えて見守る。男性俳優相手に女性俳優の素肌が露出する。女性俳優のマネージャーがすかさず「はい、デコルテ。デコルテ見えました」とまくし立て、インティマシー・シーンへの介入をケイティに促す。濡れ場撮影はなかなかうまく進まない。
マネージャーの仕切りに我慢できない監督が「マネージャーがカットかけんな!」としびれを切らす。その様子を見た市郎が「飯食うシーンとか、乱闘シーンとか、歌ったり踊ったりすんのと一緒だよ。何で濡れ場だけ特別なんだ?」と持論展開。
どうして特別かって、そりゃ俳優にとっては物理的にも精神的にも最も“親密な”(インティマシー)場面が濡れ場だからだ。ケイティは、しきりに鋭利な英語発音で「インティマシー・コーディネーター」と繰り返す。
どうもインティマシー・コーディネーターを茶化したような描写にしか見えなかった。
◆熟慮の甘さが「不適切さそのもの」
『不適切にもほどがある!』は、昭和、(若干置いてけぼりの)平成、令和をうまく縫い合わせた快作エンターテイメントだった。日本社会に対するそれなりの問題提起にもなっていたと思うが、「何で濡れ場だけ特別なんだ?」という熟慮の甘さが、日本のエンタメ界に根深い不適切さそのものと言ってもいい。
『先生の白い嘘』が公開日前日から巻き起こした議論も基本的には、この熟慮の甘さが露呈した出来事(結果)だとぼくは考えている。発端は本作公開日前日にENCOUNTで掲載された三木康一郎監督インタビュー。監督は鳥飼茜による原作を読んで驚き、10年ほど前から映画化企画を構想した。原作の性的描写を懸念したオファー俳優たちは多かったようだが、奈緒が主演に決まった。
奈緒側はインティマシー・コーディネーターの導入を提示したが、監督が「すごく考えた末に、入れない方法論を考えました。間に人を入れたくなかったんです」とインタビューで答えたことが火種となり、問題発言化したのである。
同インタビュー記事が公開されるやいなや、ネット上を中心に監督の発言に集中砲火。記事公開日の翌日、製作委員会が急遽、「『先生の白い嘘』撮影時におけるインティマシー・コーディネーターについて」と題された声明文を発表。当日の舞台挨拶冒頭でも監督が口火を切って謝罪する事態になったのが、事の経緯だ。
◆重く受け止めなければならない奈緒の発言
三木監督の発言は、どうしてここまで炎上したのか。「間に人を入れたくなかった」という字面からは、ひとりの演出家としての素朴な信念を感じる。映画作品とは、監督と俳優が現場でやり取りする秘め事のような側面が確かにある。
その秘め事からしか生み出されない映画の美学をこれまで誇示し、権力側(監督やプロデューサー)による性加害の温床となってきたことは近年の告発が明るみにしている。撮影現場の透明性が求められ、現場の現実が追求されるべき時代性とそぐわないことは言うまでもない。
主演俳優を導く立場にある監督として熟慮の結果、インティマシー・コーディネーターを導入しなかったなら、それは熟慮そのものが誤りだったと言わざるを得ない。
舞台挨拶で奈緒が「権力に屈することなく、対等な関係で監督とも話し合いましたし、自分の言いたいことも伝えました」と発言したことは、重く受け止めなければならない。
◆主演俳優による提言の実績はあったが…
アメリカでは2017年にハーヴェイ・ワインスタインによる性加害が告発されて以来、女性俳優たちが声を上げるMeToo運動が始まり、HBOのドラマ『The Deuce』(2017年)からインティマシー・コーディネーターが導入されるようになった。日本ではNetflix製作作品『彼女』(2021年)が、日本映画初の導入例。主演の水原希子が現場環境を改善するためにNetflix側に提案し、働きかけたことから導入が実現した。つまり『先生の白い嘘』で奈緒が導入を希望する前から主演俳優による提言の実績はあったことになる。
『彼女』に参加した浅田智穂は同作をきっかけに日本初のインティマシー・コーディネーターになった人物。以降、浅田は同じくNetflix作品の不倫ドラマ『金魚妻』(2022年)や地上波ゴールデンプライム帯の連ドラとしては初の導入例となった『エルピス-希望、あるいは災い-』(関西テレビ・フジテレビ、2022年)にも参加している。この職業名が作品にクレジットされることがまだまだ少ない現状を考えると、予算組の時点で同職が前提となる必要がある。
◆「2017年以降の映像作品」に求められる表現力
MeToo運動以降のインティマシー・コーディネーター導入は、濡れ場を撮影する現場環境の改善や俳優の心的な不安、ストレス軽減だけのためではない。性愛を表象する表現レベルでの向上も見込まれるのではないか。濡れ場に立ち会い、監督と俳優の橋渡しをするインティマシー・コーディネーターが現場に存在することによって新たな濡れ場表現が編み出されるかもしれない。
ここで映画史の観点から少し確認しておく。1910年代、世界最初のスター女優とされるセダ・バラは、際どい衣装による露出で観客たちの性的な欲望を刺激した。映画は黎明期から1934年に暴力や性的要素を注意事項として表現規制したヘイズ・コードが実施されるまで、あられもないセクシャルな場面を活写していた。
ヘイズ・コード以降、映画表現は不自由になったかに見えるが、ハワード・ホークスによるスクリューボール・コメディの傑作『赤ちゃん教育』(1938年)など、アメリカ映画の表現力は飛躍的に向上した。1930年代には大衆娯楽としての黄金期を迎えた。
ヘイズ・コードはあくまでアメリカ映画界の自主規制だったが、もしこの時代からインティマシー・コーディネーターが導入されていたら、ハリウッドの専業プロフェッショナル集団の一員として黄金期の現場環境を根底から支えるべき存在になっていたように思う。
誤解を恐れずに言うなら、インティマシー・コーディネーターの存在によって、濡れ場が撮影される演出空間は開かれ、監督と俳優のコミュニケーションはより円滑になり、ヘイズ・コード時代のように新しい演出表現が豊かに考案される。それが2017年以降の映像作品すべてに求められる表現力だと思う。
◆監督と俳優の信頼関係だけでは…
そうした表現(演出)向上の観点から考えると、「間に人を入れたくなかったんです」と言う三木監督の演出方針は、やっぱり時代の要請に合わせるべきだった。『先生の白い嘘』の実際の画面から判断するに、監督と俳優の間には率先して介在者がいた方がもっとよかったんじゃないかと思う。
2021年にFODで配信された『東京ラブストーリー』を見ると、第1話冒頭から石橋静河の濡れ場がかなり印象的だが、濡れ場のあと、石橋扮する赤名リカがホテルの窓に写る美しさは三木監督の演出手腕が光る描写だった。同作にインティマシー・コーディネーターのクレジットは確認できないが、より自由な(濡れ場)表現を求めたはずの『先生の白い嘘』よりも演出はうまく抑制されていた。
俳優だってひとりの人間である。親友の婚約者からの性的な支配が、精神を疲弊させる高校教師・原美鈴を演じる奈緒の負担は相当なものだったと容易に想像できる。
俳優にとって演技は最大の職務だが、自分ではない他者の人生を疑似体験しながら一個の表現物に高める苦労はあくまでフィクションの世界での出来事だとしても、演じるキャラクターの人生が壮絶なほど役作り上での想像力が俳優本人の想像を超えて肉体と日常生活にまで深い影響を及ぼすこともあるだろう。美鈴が親友の婚約者・早藤雅巳(風間俊介)から何度も肉体を蹂躙されるごとに、壮絶な濡れ場を繰り返す奈緒自身の心にも潜在的な傷は刻まれる。
俳優の精神的負担が軽減され、監督とより密に濡れ場についての対話を重ねる余裕が生まれ、お互いに納得の上でより親密な濡れ場が撮影される。『先生の白い嘘』のインティマシー・コーディネーター導入問題を一過性の出来事とはせず、日本映画の現場全体の風通しがよくなることが望まれる。
監督と俳優の信頼関係はどこまでも美しい。でもそれだけでは令和の映画作品の現場は頼りないものだと思う。
<TEXT/加賀谷健>
【加賀谷健】
コラムニスト・音楽企画プロデューサー。クラシック音楽を専門とするプロダクションでR&B部門を立ち上げ、企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆。最近では解説番組出演の他、ドラマの脚本を書いている。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu