人間は病気を持っているのがあたりまえ
二元論で言えば、健康なのが正常、病気は異常ということになります。両者はまったく相いれないものなのですが、この二つは、それほどはっきり区別されるものなのでしょうか。健康と病気とのあいだには、はっきりした境目があるのでしょうか。というのは、そもそも私たち人間というのは、だれでも病気の原因をもっているからです。
たとえば、人間の遺伝子を構成しているDNAの中に、ガンの原因となる遺伝子が四〇~五〇個もあります。この遺伝子が、何らかのきっかけによってガンを生み出すことになります。人間の体は六〇兆もの細胞でつくられていますが、毎日、そのうちの二パーセントである一兆二〇〇〇億の細胞が新しい細胞に入れ替わっています。このときに遺伝子がコピーされますが、一兆もの細胞があれば、そのなかに一つや二つコピーミスが生じ、その細胞がガン細胞化したとしても何の不思議もありません。
また、私たちを取り巻く環境の中には、化学物質、ウイルス、放射線など、遺伝子障害を起こすいろいろなものが存在しています。これらの影響によって、遺伝子情報にミスのある細胞のガンが促進されるわけです。実際、火のついたタバコを踏んだためにガンになって死んだ友人がいました。彼は、そのタバコの熱がきっかけで悪性の黒色腫ができ、それが全身にまわってしまったのです。
また、女性の子宮ガンの場合、一〇〇パーセント、ウイルスによって感染します。このウイルスは乳頭腫ウイルスといい、いうならばイボ作りのウイルスといってもよいでしょう。そして、男性からセックスによって移されるのです。その証拠に、尼さんにはこのウイルスはないとされ、子宮ガンもひじょうに少ないことがわかっています。
このように、ちょっとしたきっかけによって、私たちの遺伝子そのものがガンを生んでしまうのです。もし、ガンの原因となる遺伝子が存在していなかったなら、どんな条件でもガンはできないでしょう。私たちは、生きているかぎり、ガンを内在させているのです。実際、私たちの体のなかで小さなガンはしょっちゅう生じているのですが、体の防御システムがうまく働いているときは、それが大きくならないうちに退治されてしまうので、ガンとなって発病しないだけの話なのです。
たとえ一つの病気を克服できたとしても、また新たな病気が登場します。いってみれば、病気と人間は切っても切り離せないものなのです。私たちは、病気を持っていてあたりまえなのです。頭のてっぺんから爪先まで、どこを探しても病気はまったくない、などという人はおそらくいないでしょう。「病気がなくて健康」などという状態は、現実にはありえない幻想でしかないのです。
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人間はもともとボーダーレスな存在
私たちはそろそろ、健康と病気を対立させ、二つに分けて考えることをやめなければならないと思います。「病気と健康」だけではありません。いろいろな分野において、私たちは二元論から脱出しなければならないようです。
たとえば、男と女という対立です。ニューハーフなどがあたりまえのように受け入れられ、社会的にも男と女のボーダーラインがあいまいになってきています。このような社会現象が現われるのも、じつは当然なのかもしれません。というのも、肉体的な性別と、脳の性別がくい違っていることがあるからなのです。
脳の中の視床下部というところに「性的二型核」という性欲中枢があります。この部分は、成人男女で大きな差があり、男性の核の大きさは女性の二倍にもなります。ところが、この部分は生まれた時点では男女の区別がはっきりしていません。四歳までは男も女も同じように成長していきます。
しかし、四歳を過ぎると、はっきり男女の差が現われてきます。その後、六〇歳ごろまで、男性の性的二型核の細胞数はほとんど変化がないのに対して、女性の核の細胞は四歳以降どんどん減っていきます。つまり、人間はおぎゃあと生まれたときに、男と女では性器がちがい、肉体的には男女ははっきり分かれていますが、脳はまだ男女の違いがない、ボーダーレスの状態ということなのです。
しかも、ややこしいことに、男性器の持ち主でも、性的二型核の細胞の数が女性なみに減ってしまう人もいるのです。体の性は男性でも、心の性は女性という人です。男性でも女性でもない、あいまいな性です。というより、本来、人間は両性具有の存在と考えたほうがいいでしょう。
性器ももともとはメスが原型で、そこからオスの性器が分化していくわけですし、脳の性分化も、そのときの条件しだいで、男女どちらにでも転びうるのです。そう考えれば、男と女という性別も、明確に分けられる区別があるわけでなく、かぎりなくボーダーレスなのです。
ボーダーレスといえば、たとえば能楽も、ボーダーレスの芸術なのだそうです。最近は各地で薪能が催され、ふだんはお能とは無縁の人でも、その雰囲気に誘われて出かけるようになっています。しかし、この能楽を見物していると眠くなって困るのです。こちらに能楽の知識が乏しく、何を語っているか耳で聞いていてもよくわからないし、舞台はシンプルで、しかもあまりにゆったりした動きなので、いくら目をこらしていても、つい眠くなってしまうのです。上演中に寝てしまうようでは、能楽を見る資格がないといわれそうだと思っていましたが、そんな心配は必要なく、じつは能楽そのものが見物人が眠くなるように仕組まれているのだそうです。
逆にいえば、見物人が眠くならないと困る、とさえいいます。客席にいてうつらうつらと眠くなってきたとき、つまり覚醒と眠りの境目にあるとき、見物人は、能役者の上に降りてきた神を見るからだそうです。眠りと覚醒。この対立する世界の中間にある「半覚醒」の時間が尊いのだ、と能楽は私たちに教えてくれているようです。
こうしてつきつめていくと、「生」と「死」という、けっして相いれないはずの二つの大きな世界についても考えずにはいられません。現代医学は、死というものをいかにして人類から遠ざけ、隠すか、ということを追求してきました。しかし、それこそ大きな誤りだったのではないでしょうか。
お釈迦さまも言っています「人は生まれたから死ぬ」と。仏教では、死から目をそらすのではなく、死をまっすぐ見据え、死を前提として生きることを教えています。生はすなわち死であり、死はすなわち生なのです。死を生と対立するものとして退けるのではなく、生とのつながりで見つめることは、じつはよりよく生きること、人間の精神生活を豊かにしてくれるものではないでしょうか。