神奈川県海老名市にある小田急電鉄の博物館「ロマンスカーミュージアム」で、今年(2024年)7月17日から8月26日まで、大分県やJR九州とのコラボレーションイベントが開催されている。
期間中は「温泉×特急でサマートリップしよう!」と題して、大分県とJR九州をテーマとしたジオラマの設置や大分県特産の柑橘類「かぼす」を使ったサイエンス講座の開催、大分県応援団鳥であるゆるキャラ「めじろん」の来館など、様々な企画が実施される。
さて、「なぜ小田急が大分県とコラボレーションを?」と疑問を持つ人も多いであろう。実は、小田急電鉄と大分県には切っても切り離せない非常に深い縁があるのだ。
◆大分県人が生んだ小田急
小田急電鉄が設立されたのは1923年のこと。その設立者は大分県人の利光鶴松という実業家だった。
利光鶴松は1864年に豊後国稙田(わさだ)村粟野(現在の大分市玉沢)で生まれた。上京して明治法律学校(現在の明治大学)を卒業したのち教員、東京市議会議員を経て実業家となった。
そして1923年に電力事業で得た利益を元に小田原急行電鉄(現在の小田急電鉄の前身)を設立、初代社長に就任。そのころには発電のほかに鉱業、瓦斯業、鉄道業など様々な事業に関わっていたというが、そのなかでも小田急は最大規模のものであった。
小田急設立の翌年、1924年には関東大震災が発生。東京市は江戸時代からの市街地が灰燼に帰してしまう。一方で、市内西部の四谷区新宿(現在の新宿区)が新市街地の1つとして注目を浴びるようになったほか、郊外化の進展により小田急沿線となる予定の豊多摩郡代々幡町(現在の渋谷区)、荏原郡世田ヶ谷町(現在の世田谷区)などでは農地の住宅化が進んだ。
このことは小田急にとって大きな追い風となったであろう。こうした帝都復興の真っただ中で多くの人材を確保すべく、利光は故郷・大分県でも積極的に採用活動を行ったため、小田急創業期には利光以外にも多くの大分県人が関わることとなった。
◆新東京の新たな観光・通勤路線として脚光
小田急は1927年に新宿-小田原の小田原線全線、1929年には江ノ島線の全線を開通させる。当時の首都圏の私鉄路線は軌道線(路面電車)や軽便鉄道として開通して都市化とともに鉄道線へと衣替えしたものも少なくなかったが、小田急は当初から高速の都市間鉄道として計画されており、大部分が複線電化されていたほか、急行・快速運転に対応した配線で造られた駅が多かった。
小田急はわずか2年間で現路線の大部分が一気に開業したため、沿線は新東京の新たな観光・通勤路線として脚光を浴びた。また、1927年には小田急開通に合わせて向ヶ丘遊園(2002年閉園)を開園、さらに1929年には当時は農村地帯に過ぎなかった神奈川県大和村(現在の大和市)で「林間都市計画」と称したニュータウン開発をおこなうなど、経営の多角化を図った。1935年には、のちの小田急ロマンスカーの前身ともいえる観光特急の運行を開始している。
短期間で成長を遂げた小田急であったが、利光体制はあっけなく幕を下ろす。大きな利益を上げていた電力事業が事実上国有化されたうえ、中国での鉱山事業で大きな負債を抱えたことから、利光は1941年に小田急を東横グループ(現在の東急グループ)創業者・五島慶太に売却。世は戦時体制であり、1942年には東横電鉄、京浜電鉄(現在の京浜急行)などと合併、通称「大東急」が発足することとなった。
利光は1945年に死去。1955年には向ヶ丘遊園内に「利光鶴松翁の頌徳碑」が建てられた。
◆大分県人が成長させた小田急
戦後、小田急を成長させたのも、利光と同じ大分県人の安藤楢六だった。
安藤楢六は1900年に大分県浜脇町朝見(現在の別府市朝見)で生まれ、1925年に叔父の知り合いであった利光鶴松を頼って小田急に入社した。先述したように利光鶴松は大分県人を積極的に採用しており、安藤もその1人であった。
小田急電鉄は1942年に東横電鉄などと合併して「大東急」を形成していたが、第二次世界大戦後、1948年に小田急が再び分離・独立した際に初代社長に就任したのが安藤だった。
安藤は小田急の復興を推し進めるのみならず、戦後の発展のなかでさらなる多角経営化を図り、小田急を成長軌道へと乗せた。
安藤による経営多角化の1つが「観光開発」だ。戦後、小田急グループは東急グループと協力して箱根の観光開発を行うべく1950年に戦時中に運休していたケーブルカーの運転を再開、同年に箱根観光船を設立したほか、箱根エリアで新規バス路線の開設などをおこなった。
◆現在でも人気の「観光ルート」が完成
一方、1920年より箱根で観光開発を行っていた西武グループは1947年に小田急(当時は大東急)傘下の箱根登山鉄道と並行するバス路線の開設を計画(1950年運行開始)。これが発端となり両グループは激しく対立、争いは裁判へと持ち込まれた。俗にいう「箱根山戦争」だ。この間、小田急は1957年に特急型車両「ロマンスカー」の運行を開始するなどして、さらなる集客へと乗り出した。
当時、箱根・芦ノ湖方面へと向かう多くのバスは西武グループが自社で開通させた私道を経由していたが、小田急グループは1959年から1960年にかけて箱根ロープウェイを開通させ、西武の私道を通過することなく芦ノ湖方面へと向かうルートを生み出した。その後、西武グループとも和解し(訴訟案件は小田急側が敗訴)、協力関係が構築されることとなった。西武グループの私道は1961年から64年にかけて神奈川県が買収、県道化されている。
安藤時代に生み出された「ロマンスカー+箱根登山鉄道+箱根ロープウェイ+箱根観光船」という小田急グループがタッグを組んだ観光ルートは、現在も世界各地の観光客から大きな人気を集めている。
◆小田急、もう1つの経営多角化
そして、安藤による経営多角化のもう1つが「百貨店事業への参入」だ。
箱根山戦争が沈静化しつつあった1960年代前半、小田急も百貨店の建設を計画したが、当然ながら同社が百貨店運営をおこなうことは初めてであった。そのため、グループを束ねてきた安藤が小田急百貨店の初代社長に就任、箱根山戦争に続いてこちらでも東横百貨店(1967年の渋谷本店開業に合わせ商号を「東急百貨店」に改称)の運営をおこなっていた東急グループの協力を受けることとなり、1962年に1号店「小田急百貨店新宿本店」が開業した。
当初は現在も小田急百貨店が出店しているハルク館のみで営業していたが、1966年から1967年にかけて小田急新宿駅ビル(2023年解体)に増床出店。その後は町田や藤沢などにも店舗網を広げて首都圏を代表する電鉄系百貨店の1つへと成長することとなったほか、安藤の縁によって九州を代表する百貨店の1つ「トキハ」(大分市)とも提携関係を結ぶに至った(後述)。
安藤は1984年に死去。同年、遺族が寄付した遺産などを元に財団法人安藤記念奨学財団(現在の公益財団法人小田急財団)が設立された。
◆近年まで続いた「小田急と大分県の縁」、復活なるか?
利光・安藤両氏の縁により、小田急と大分県との繋がりは近年まで続いた。1974年には大分市の国鉄大分駅近くにシティホテル「小田急センチュリーホテル大分」(現:大分センチュリーホテル)が、1975年には大分市郊外にゴルフ場「小田急大分ゴルフクラブ」(現:大分竹中カントリークラブ)が開業。そのほか、臼杵市のニュータウン計画など不動産事業にも関与した。
また、大分市と別府市に店舗を構える百貨店「トキハ」も小田急百貨店と提携して商品券の相互利用などをおこなっていたほか、小田急百貨店では大分県の物産展が度々開かれていた。
だが、利光・安藤両氏亡きいま、これら大分県内の各社は現在いずれも小田急グループとの資本関係や提携関係を解消しており、今や大分県内において小田急グループとの繋がりを見つけることは難しい。
小田急沿線民のみならず、今や大分県民にさえもほとんど知られていない「小田急と大分県の深い縁」。7月からロマンスカーミュージアムで開催されている大分県・JR九州とのコラボレーション企画「温泉×特急でサマートリップしよう!」では「小田急を創り育てた大分県人」と題して利光鶴松・安藤楢六両氏のパネルも設置された。今回のイベントを通して再び両者の関係が深まり、新たな交流が生まれることを期待したい。
<取材・文・撮影/若杉優貴(都市商業研究所)>
【都市商業研究所】
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