世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
オルタナ旧市街というペンネームの書き手がいる。数年前、初めてその名を見たときは、それが作品のタイトルなのか書き手の名前なのかわからなかったが、そんなことはどうでもよくなるほどに虜になってしまったのだった。そこに綴られていたのは、いわゆる都市生活者の、いわゆる「ままならない生活」だった。しかしそれだけではない、とも思った。
オルタナ旧市街。その文字列を目にした者にぼんやりとした具体性を想起させるペンネームの書き手によって綴られる日々の営みは、果たして現実か、それとも空想か。いずれにせよ、それらはすべて私を惹きつけてやまない。私の身には起きたことがない出来事であるにもかかわらず、私はそれを知っている。もしかしたら、私もそこにいたのではないか。そんな気がしてきてしまうのだ。
オルタナ旧市街・著『踊る幽霊』(柏書房)は、東京を中心にした街を舞台にした随筆集だ。東京、街、随筆。まさに「ままならない生活」というイメージにぴったりの素材。そしてままならない生活(を描くとき)には必ずと言っていいほど付随する、その街(に住む人々)のあたたかさを、あなたはぼんやりとした具体性をもって思い浮かべたかもしれない。
しかしその予想は裏切られることになる。本書で綴られるままならない生活は、なんとも形容しがたい「渇き」のようなものを伴っている。食べたくもないのに頼んでしまうパフェ、意気込んで向かったお店は定休日、悪天候により前提から変更を余儀なくされる小旅行の計画……。思い通りにいかない(とはいえ大袈裟に嘆くほどではない)ちょっとした不運や不幸から著者を救うのは、仲の良い家族や親友や恋人でもなく、その街が本質的に持つ「素晴らしさ」みたいなものでもない。
そこに登場するのは見知らぬ他者であり、今後どこかで会うこともおそらくないであろう、まさに通り過ぎていく景色そのものであるような人々と街である。つまり、かれら(と便宜的に呼称するさまざまな人・もの・こと)は著者に対して特段の思い入れもなく、ただただ関与してしまっただけに過ぎない。駅前の老婆は「楽しいから踊っている」だけだし、隣席のマダムたちは愛犬の口の臭さを語らっているだけである。片手袋は道に落ちているだけ。運よく出会った魔法使いにかけられた言葉は、どうやらほかの人に比べてひとこと少なかったらしい。
著者は(おおむね)ひとりで街を往く。出歩く先々で出会う人々や物事は、著者に干渉し過ぎることなく、少しだけ触れてさっと離れていく。著者もそれを執拗に追いかけることはない。そこに愛(のようなもの)がないわけではない。愛しながらも放っておくような、ゆえに時に存在を忘れてしまいもするような距離感。そこに息のしやすさを覚える者もいるだろう。もちろん私はそのひとりであり、オルタナ旧市街の住人となって久しい。
行商人がうっかり落としていったであろう荷物に入っていたのは、一息に飲み干してしまえるくらいの水が入った水筒と、砂漠で役立つはずもないアヒルの人形だった。なんでアヒルやねん。砂漠に湯船はないじゃないか。水筒の水もまさに焼け石に水みたいなものだ。いずれにせよ役には立たない。落胆する旅人。しかしどうにもアヒルが気になってしまう。どうしてその組み合わせなのだろうか。考えれば考えるほど意味がわからなくて、いつのまにか笑みが溢れている。きっと自分と同じように彷徨っている者がいるだろうから、このまま置いておこう。アヒルで笑ってくれるといいな。もちろん、たった一口でも水が必要な者もいるのだから、それも届くことを願って。
おっと。うっかりオルタナ旧市街の砂漠に迷い込んでしまったようだ(魅力的な作品は読者に何かを書かせてしまうのだ)。しかしこの砂漠のことは、きっとあなたも知っているはず。なぜならあなたも住んでいる、あるいは通り過ぎている街で起きているであろう一場面だからだ。あなたは街から、そこに住んだり通り過ぎたりする者から、我々が愛と呼ぶような何かを勝手に受けとることができる。そうして受けとった愛のようなものを、今度は自分が街に、そこに住んだり通り過ぎたりする者に、返したいと思うようになるのかもしれない。
もちろんそんな恩着せがましいことは、少なくともオルタナ旧市街と呼ばれるこの場所は望んでいないのかもしれない。しかし「ままならない生活」を知っているからこそ、私たちは他者から(時に勝手に)愛だとかあたたかさだとかを感じとることができるのではないだろうか。大袈裟に嘆くほどではないままならなさの先には、嘆くことすらままならないほどの苦しみに満ちた生がある。だから私たちは、自分の身には起きたことがない出来事であるはずのそれを、本当はすでに知っているのだ。
自らの生活にさほど関係も影響もなさそうな、過ぎゆく街と人々と、その関係性において生じる出来事。かれらに対する眼差し方が変わったとき、本書の終盤で言及される馬喰町駅の三角コーンたちは、夜になると持ち場を離れて街を彷徨いだす「踊る幽霊」になるのだろう。あなたはそれを知っているし、そこにいた/いるはずだからだ。
評者/関口竜平
1993年2月26日生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。著書『ユートピアとしての本屋 暗闇のなかの確かな場所』(大月書店)。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝
―[書店員の書評]―