東京に点在する、いくつものバー。
そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。
どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。
カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。
▶前回:田園調布雙葉出身で、親は開業医の28歳お嬢様。アパレル勤めの彼との付き合いを反対され…
Vol.10 <ブルームーン> 堂島仁美(30)の場合
ビールグラスを模した街灯が、仁美の影を揺らめかせる。
二重になり、薄まり、長く伸び、震え、くっきりと濃くなる。
変化する自分の影をこんなにまじまじと仁美が観察できるのは、もう夜も更けた23時すぎだから。
普段は人通りの多い恵比寿も、平日の深夜は意外に閑静になる。そんなことを仁美が再確認できるようになったのは、この2ヶ月のことだった。もう30歳になるというのに、2ヶ月前まで仁美は、過保護すぎる父に門限20時を強いられていたのだ。
― あの子は本当に気の毒だけど…。私がこうしてまた夜に出られるようになったのは、由紀のおかげね。
妹の由紀が恋人と別れることになったのが、今から2ヶ月ほど前。
姉の目から見ても、あまり大事にされていなかったように見えた恋だ。由紀の恋が終わったことは、仕方のないことだったように思う。
だけど、それがあんな形で──父の命令で無理やり別れさせられたことに仁美も罪悪感を覚えていた。
─ だって、父があそこまで私たち姉妹に対して過保護になったのは…私のせいなんだから。
恵比寿通りから1ブロック天現寺の方に入ると、さらに人通りはまばらになる。
住宅とオフィスと飲食店が雑多に入り混じったエリア。そんななかで、ポツリと小さな明かりがついたバーが、仁美の今夜の目的地だ。
見覚えのある看板を見た途端、緊張で動悸を感じる。
けれど仁美は、気力を振り絞ってドアを開けた。
バーデンターが「何名様ですか?」と尋ねると、仁美は「2人」を意味するピースを胸の前に掲げた。
こぢんまりとしたドアに見合わず、中は意外に広い。カウンターの他にいくつか設えてあるテーブル席にスタッフに案内されて腰を下ろすと、仁美はすぐに注文を告げた。
「ブルームーンお願いします」
そう言った自分の声が、震えていることに仁美は気づく。
仁美は不安をかき消すようにエルメスのボリードの中からスマホを取り出し、ある人物にLINEを送る。
『今、あのバーにいます。少し会えますか?』
メッセージはすぐ既読になり、間を置かずして返信も送られてきた。
『え?あのバーって、恵比寿の?』
『そうです。今、少しだけ来られませんか?』
『行くけど、仁美は大丈夫なの?』
「大丈夫なの?」という質問には答えず、仁美は淡々とメッセージを返す。
『とにかく、ここで龍一さんを待ってます』
それだけ送り、スマホをバッグの中にしまった。
タイミングを見計らったように、グラスが運ばれてくる。長い足の小さなグラスに満たされた、紫がかった美しいカクテル…ブルームーン。
「…あぁ…」
その、宝石のように美しい青色を目にするやいなや、仁美は“あの夜”のことを、ありありと思い出すのだった。
◆
“あの夜”。
それは、仁美がまだ今の法律事務所の事務ではなく、出版社でペット雑誌の編集部員として働いていた2年前のことだった。
「えー、仁美ちゃんっていうんだ!めっちゃかわいいね〜。俺、超タイプ」
「いえ…そんな…」
「いやいや、まじでかわいいって!ホラ、最近お茶かなんかのCM出てるあの女優に似てるじゃん!あ〜なんつったっけな〜」
「あはは…そうですか…?」
苦笑いを浮かべながら、仁美は助けを求めるように隣の席の同僚を見やる。
けれど、すっかり深酒をした様子の同僚はテーブルに突っ伏してぐっすりと眠り込んでおり、それはすなわち、仁美がこの粗雑な2人の男たちの相手をするしかないことを物語っていた。
― どうしよう…。帰りたいけど、この子だけ置いて帰るわけにも行かないし…。
目の前の男たちは、名前すら定かでない。
失恋したばかりの同僚のヤケ酒に付き合っていたところ、恵比寿の路上で声をかけられただけ。すでに酔っていた同僚が半ばヤケになった様子で、男たちとバーで飲み直すことに同意してしまったのだ。
「てかさてかさ、仁美ちゃん全然飲んでなくない?」
「いやぁ、あの…そろそろ帰ろうかなって…」
「いやいやいやいやいや!それはしんどいって」
「お願いっ!あと一杯だけいっちゃお。ねっねっ、お願い」
「あ…じゃあ、あの…。一杯だけ飲んだら、この子連れてタクシーで帰りますね」
そう答える仁美に、了承すら得ずに男たちが注文したのが、ブルームーンだったのだ。
「はい、仁美ちゃん」
「あ、ちょっとまってその前に。俺、最近チワワ飼い始めてさぁ。ちょっと写真見てよ」
「あ、はい。わぁ、かわいいですね〜!」
その時だった。
「バーテンダーさん、警察呼んで」
カウンター席から、低く鋭い別の男の声が聞こえた。
「やべ…」
その声を聞くや否や、目の前の男たちが落ち着かない様子になる。
かと思うと、男の制止する声も聞かず、男たちは2人揃って一目散に店を飛び出して行ったのだ。
「警察呼んで」と声を上げた男性は、店を飛び出して追いかけて行ったものの、男たちを取り逃し、息を切らしながらバーに戻ってきた。
そして、仁美に優しく声をかけたのだった。
「ダメだよ、彼らみたいなヤバい男に気を許しちゃ」
それが、龍一との出会いだった。
カウンター席で1人で飲んでいたところ、男の1人が仁美の目を盗んで、グラスに何かを入れるのを目撃したのだという。
「お酒に薬とかを混ぜて飲ませる犯罪が多いから、なかには、何かに混ぜると青くなるものがあるんだよ。君みたいに綺麗な子は、青い飲み物には特に注意しなきゃ」
「そんな…」
― この人が気づいてくれなかったら…。守ってもらえなかったら…。
そう考えると、膝が抜けるような恐怖が一気に押し寄せてくる。
警察から事情聴取を終え、迎えに来た父の車で自宅に帰ったあとも、この夜のことは仁美の大きな心の傷として残ってしまった。
その後、仁美がこんな目に二度と遭うことがないよう、出版社での仕事は辞め、父の古くからの友人の法律事務所で事務をすることになった。つまりは、監視付きの社会生活だ。
けれど、事件のお礼を言いに行ったことで親しくなった龍一が、東京に単身赴任中の既婚者だったことで──。
父の怒りは頂点に達し、仁美に対する過保護は、ほとんど束縛へと変化したのだった。
◆
― ほんと、私の20代後半って、最低最悪だったな…。
目の前のブルームーンに一口も口をつけられないまま、仁美はその美しさをひたすらじっと見つめる。
恐ろしい犯罪に巻き込まれかけた恐怖は、もちろんある。
けれど、それよりも仁美の胸を抉るのは、龍一との様々な思い出だった。
助けてもらったお礼に初めて食事に行った時には、龍一の薬指に指輪はなかった。
だけど、「結婚してますか?」とはっきり聞かなかったのは、その薬指にうっすら日焼けのあとが残っていたせい。
「仁美を守ってあげたい」と言い出したのは、龍一の方だ。
だけど、指輪を外してくれるほどの好意を前提に、「付き合って」と頼んだのは、仁美の方。
興信所をつけて龍一の秘密を暴き、別れさせたのは仁美の父だ。だけど、2ヶ月ほど前から父の束縛が緩み、その隙をついてもう一度龍一に近づいたのは、仁美自身…。
男たちの誘いを、きっぱりと断ることができなかった。好きな人が既婚者かもしれないという事実に、向き合うことができなかった。
踏み込んではいけない甘い罠から、逃れることができなかった。引き裂かれた悲しみを、受け入れることができなかった。
この身に起きた恐怖も、悲劇も、後悔も、何もかもが自分自身の弱さによるものであることを、本当はずっと前からわかっていた。
ブルームーンの美しい青は仁美にとって、そんな自分の弱さのシンボルのようなものだ。
だから、今夜。この場所で、このブルームーンを注文する。
その事に、大きな大きな意味があった。
「仁美!」
仁美がその決意を新たにした、ちょうどその時。バーのドアが開き、龍一が飛び込んできた。
このバーからそう遠くない、恵比寿の自宅から走ってきたのだろう。息を弾ませてドアをくぐるその姿は、まるで仁美を助けてくれたあの夜のようで、思わず心が揺らいだ。
しかし、席に座った龍一と向き合うなり、仁美はもう一度気を引き締める。じっと視線をグラスに落としたまま、龍一の言葉に耳を傾けた。
「なに。ここまで来てるなら、遠慮しないで俺の部屋に来ればいいのに」
「…」
「てか、大丈夫なの?ここ…居心地悪いんじゃない?」
「…」
「しかも、この席も“あの時”の席だし」
「…」
「ねえ、仁美?そんなもの無理して飲まないで…」
黙って聞くだけの仁美の頭に、龍一の左手が伸びてくる。
耳障りのいい、甘い言葉。
けれど、今の仁美はわかっていた。この言葉の本質は、“あの夜”の男たちの軽薄な言葉と変わらないのだ。
どうしても離れがたくて、よりを戻して2ヶ月。
「もうバレているから」と言わんばかりに、龍一の左手の薬指の指輪はいつでもつけられたままになった。
龍一の誕生石だというサファイアが、裏側に埋め込まれた結婚指輪。それは仁美にとっては、どんな睡眠薬よりも恐ろしい毒物だった。
「ね、仁美?大丈夫だよ。仁美のことは、俺が守ってあげるから…」
まだも甘い言葉を繰り続けようとする龍一に、仁美はふと視線を合わせる。
そして、次の瞬間。しっかりと龍一を見据えながら、手元のブルームーンのグラスを煽った。
ブルームーンが、あんなに恐ろしかった青い液体が、ぐんぐんと体の中心へと流れ込んでいくのを感じる。
ハーブ感のあるドライ・ジンの熱さ。柑橘と、スミレやバラなどの花の香り。シェイクされて混ざり合った二つの味わいにレモンの爽やかさが加わり、えもいわれぬ甘さの中に、爽快感も同居している。
「龍一さん。ブルームーン、美味しい」
「…え?」
「私、ブルームーン美味しく飲めた。もう、守ってもらわなくて大丈夫」
「仁美…?」
「これ以上、弱い女でいたくないって思ったの。じゃあ、そういうことだから」
タン、と勢いよくカクテルグラスを置くと、仁美はボリードを引っ掴んで扉へと向かう。
「仁美、ちょっと待ってよ!」
背後から、龍一の切実な声が投げかけられる。けれど仁美は、弱々しさとはかけ離れた満月のような明るい微笑みを浮かべて、返事するのだった。
「ブルームーンのカクテル言葉って知ってる?『できない相談』なんだって。
奥さん、大事にね!」
龍一がまだ何か喋っているような気配がしたが、重いドアが閉まってしまったため、仁美にはもう聞こえなかった。
天現寺の交差点から、タクシーを拾おう。
ビールの形の街灯はもう辺りには見当たらず、月明かりだけが仁美を照らしている。
たった一つの光に照らされた仁美の影は、もう揺らがない。
体の中心で熱く燃えるスミレの香りのカクテルが、門出に贈られた花束のように感じた。
▶前回:田園調布雙葉出身で、親は開業医の28歳お嬢様。アパレル勤めの彼との付き合いを反対され…
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