三菱重工爆破事件から50年、容疑者2人は「超法規的措置」で現在も逃亡… 事件現場の今

三菱重工ビル爆破事件の発生から30日で50年を迎えた。

事件は1974年8月30日の昼に東京・丸の内にある三菱重工本社ビル(当時)で発生したもの。

当時、大手ゼネコンや商社などの海外進出企業を批判していた「東アジア反日武装戦線」が同ビルの玄関に爆弾をしかけ、同社の社員や通行人ら8人が死亡、380人が負傷した。

連続で企業を爆破、お召し列車も標的に…

三菱重工ビル爆破事件後も、東アジア反日武装戦線は間(はざま)組(当時)や三井物産など、大手ゼネコンや商社を連続で爆破した。

また、東アジア反日武装戦線はこれらの事件以前にも、昭和天皇の乗るお召し列車を荒川の鉄橋上で爆破することも企てており、三菱重工ビル爆破事件で使用された爆弾は、この時に製造されたものだったという。

現在も「超法規的措置」で2人が逃亡

数々のテロ事件を計画・実行した東アジア反日武装戦線だが、1975年5月に8人が逮捕され、うち大道寺将司元死刑囚(2017年に拘置所内で病死)と益永利明死刑囚は殺人罪などで死刑が確定した。

メンバーの1人・桐島聡容疑者は約50年の逃亡生活の末、今年1月に病院で死亡。桐島容疑者は1975年4月に起きた韓国産業経済研究所爆破事件など一連の連続企業爆破事件に関与した疑いがあり、死後、容疑者死亡のまま書類送検されたが、今年3月に不起訴処分となった。

だが、事件関係者の一部は、いまだ責任を負うことなく“逃亡”している。

1975年8月、過激派グループの一派で、組織の拡充を目指していた「日本赤軍」が在マレーシア・アメリカ合衆国大使館を占拠。

このとき、日本赤軍は人質の解放と引き換えに、拘留中の佐々木規夫容疑者や、その他の日本赤軍メンバーの釈放を要求し、人命を尊重する日本政府の「超法規的措置」により、佐々木容疑者らは国外へ逃亡した。

その後、佐々木容疑者はほかの日本赤軍メンバーと、1977年9月にいわゆる「ダッカ事件」で日本航空機をハイジャック。この際も、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子容疑者を含む6人が超法規的措置で海外へ逃れている。

超法規的措置をめぐっては、「テロを輸出するのか」といった批判もあがったが、2013年には安倍晋三首相(当時)が内閣答弁書で、「実定法を支える法秩序全体を流れる法の理念からして許容されるものであり、その意味で、違憲ではなく、また、内閣が違憲の措置を行うことはあり得ない」と説明している。

警視庁「現在も捜査中」

事件から50年が過ぎるなか、逃亡中の佐々木容疑者と大道寺容疑者の逮捕は望めないのだろうか。

現在の捜査状況や、両容疑者が桐島容疑者同様、国内で逃亡・潜伏している可能性について、警視庁に問い合わせたところ「捜査中の事件なので回答できない」とのことだった。

ただ、事件解決に向けた情報提供は呼びかけており、警視庁の担当者は「『よく似た人を知っている』、『電車やバスなどでみかけた』といったささいな情報でもいいので、交番や警察署に伝えてほしい」と話した。

被害者に生じた不均衡、支援制度のきっかけに

三菱重工ビル爆破事件をきっかけに、変化したことがある。

当時、勤務中であった被害者には労災が給付されたが、たまたま事件に居合わせた人は補償を受けることができず、被害者の間で不均衡が生じた。

このことが議論を呼び、国は1980年に初めて、犯罪被害者救済を目的とした犯罪被害者等給付金支給法を制定。

その後も犯罪被害者等基本法や、同法に基づいた第1次から第4次までの「犯罪被害者等基本計画」などを通じて、犯罪被害者支援の拡充がはかられている。最近でも今年6月に、犯罪被害給付金の引き上げが行われた。

50年後の“現場”付近には外国人観光客の姿

三菱重工は2003年に本社を移転したが、ビル自体は現存している。現在「丸の内二丁目ビル」に名前を変え、複数のテナントが入居している。


現在の「丸の内二丁目ビル」前の様子(弁護士JP編集部)

通りに面した1階部分には、カフェや服飾店などが並び、隣接する三菱ビルの前には観光バスを待つ外国人観光客の姿も見られ、事件から50年がたった今、当時の悲惨な状況を想起させるものは残っていない。


“現場”付近には、観光客向けのバスが停まっていた(弁護士JP編集部)

“真の事件解決”のためにも、容疑者2人の逮捕にあらゆる手段が尽くされることを強く願う。