3年ほど前から業務委託の宅配ドライバーとして働く近藤剛史さん(仮名)。“新しい働き方”という紹介に惹かれ、思い切って飛び込んでみたものの、いまとなっては「失敗だった」と嘆きます。ルポライター増田明利氏の著書『お金がありません 17人のリアル貧困生活』(彩図社)より、日本の労働者の実態と、業務委託という契約形態のワナについて、詳しくみていきましょう。
貧乏暇なし…リストラで宅配ドライバーに転身した53歳男性
<登場人物>
近藤剛史(53歳)
出身地:山梨県甲府市/現住所:東京都中野区/最終学歴:大学卒
職業:宅配ドライバー/雇用形態:個人事業主/収入:月収34~37万円
住居形態:持家、相続したためローンなどはない
家族構成:妻、長男、次男/支持政党:自民党以外
最近の大きな出費:家族全員のインフルエンザ治療代(合計で約1万2,200円)
都営アパート近くの交通量が少ない一方通行路。軽ワゴン車を停め、やっと昼食にありつけたのは昼2時近くになってから。
「朝は7時頃にコンビニで買ったミニあんぱん5個と牛乳。それから7時間近く経っているのでもう腹ペコです。血糖値が低くなっているのか生欠伸が出てくるほどですよ」
待望のお昼ご飯は、道すがら見つけたスーパーで買ったおにぎり弁当。中身はたらことツナマヨのおにぎり、鳥の唐揚げ2個、オムレツ、マカロニサラダと漬物が少々。あとは缶入りのコーンスープ。消費税込みでも500円足らずの粗末な食事だ。
「どこでもいいから店に入ってゆっくりしたいのですが時間がもったいなくてね。たいていは総菜パンや弁当を買って車の中で食べています」
食事時間はせいぜい15分でまたエンジンをかけて走り出す。
「今は請負の宅配ドライバーをやっていまして。完全出来高制だから収入を増やすにはとにかく配達数を上げなきゃならないんです。悠長に休憩なんてできない、貧乏暇なしとはこのことだと思う」
宅配便の仕事をするようになって約2年半になるが、それ以前はホワイトカラーのサラリーマンだった。
「大学を出て中堅クラスの食品会社に入社したのは90年(平成2年)でした。営業や工場の管理部門などで働いていたけど何度かリストラがありまして。紆余曲折があって宅配の仕事に辿り着いた次第なんです」
リストラの原因は売上げ、利益の減少に歯止めがかからなかったから。
「デフレの影響が大きかったんでしょうね。05年頃から小売店さんの値引き要求が厳しくなってきた。原材料費は上がっているのだから儲けが出るわけない。スーパーの目玉品として大量に納入しても利益は小さい。安い中国産も入ってくるので商売にならなかった。高級路線でやってきたわけじゃないから淘汰されたわけですよ」
退職したのは17年3月末。規定の退職金に若干の上乗せがあったが再就職の支援などはなし。あとは自分で何とかしてくれという感じだった。
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マンション管理士になるも、明細にため息の毎日
「再就職活動を始めたときが49歳。同業他社でこんなオッサンを採るわけがない。中高年の事務、営業などは求人が最も少ないんです、なのでハローワークの指導でマンション管理士の職業訓練を受け、資格を取って建物管理会社に入ったんです」
通勤管理人として2つの大型マンションに派遣され、ゴミ出し、共用部分の清掃、駐車場の管理、簡単な営繕作業などを担当していた。
「その地域のゴミ収集日に合わせて月水金はこっち、火木土はあっちというローテーションでした。仕事そのものはどうっていうことはない、危険な作業もなかった。だけど低賃金、悲しくなるほどの低収入でしたね」
身分も半年ごとの契約社員。賃金は日給8,800円で、住宅手当、扶養家族手当などは一切なし。月25日働いても月収は22万円が限度だった。
「手取りだと18万円台の前半でした。明細書を見てもため息しか出ません」
奥さんもパートで働くようになったが合計しても生活費全般として使えるのは26万円前後。生活できないということはないが、豊かで少し余裕があるような暮らしは送れなかった。
宅配ドライバーは大忙しの重労働
「もうちょっと稼ぎたいと思って別の働き口を探し始めまして。またハローワーク通いしたり求人情報誌をチェックしたりしていたんです。そんなときに目に入ってきたのが今の仕事なんです」
雇われないという新しい働き方、やった分だけ収入になる、万全のバックアップ体制、平均月収40万円超、50万円以上も可能……。こういう文言がなぜだか輝いて見えてしまった。
「説明会に参加してシステムを聞いたら加盟金などは必要なし、車両は持ち込み、荷物1個につきいくらという契約だということでした。会社と業務委託契約を結んで働く個人事業主という説明だった」
自家用車として乗っていたファミリーカーを売却し、そのお金で中古の軽ワゴンに買い換え、ボディに契約した貨物運輸会社のロゴ入りステッカーを貼ってスタートしたのが19年10月のこと。