「キャリアに迷って…」28歳女性が、難解な社内公募に挑戦。影で支えるありがたすぎる彼の存在とは…

前回:「寝起きの君は…」初のお泊まりデートの翌朝、彼のひと言に大パニックになり…

「You just told me you wanted to give it a try for the in-house interpreter exam, right?(社内通訳のテストに挑戦したい…ってあなた今、そう言った?)」

上司のクレアにそう確認され、私が肯定の言葉を返すと、クレアの表情は残念だけど…と曇った。

「確かにあなたの英訳は的確だし、発音も聞き取りやすいから専門職を目指すのも良いと思うわ。でもうちのコミュニケーション室で求められるレベルを考えると…正直、今のあなたの英語力では厳しいでしょうね」

言いにくいであろう意見を率直に伝えてくれたことがありがたくて、私はできるだけ明るく、理解しています、と答えた。

この会社…製薬会社である私の職場には、外資系企業としては珍しいかもしれないけれど、“コミュニケーション室”という通訳職の専門部署がある。

現在のスタッフは10人程で、誰がどんな案件やプロジェクトを担当するのか、その都度適材適所に割り振られていくらしいのだが、その仕事内容は多岐にわたると聞いている。

アメリカの本社から来日して国際会議などに参加する重役陣の同時通訳をこなす…など表舞台に同行する役割があるかと思えば、

同じく本社から送られてくる指示…法務、マーケティング、時にはIT関連などの文書の翻訳、さらには日本のカスタマーサービスに寄せられたクレーム文を本社に送るための英訳作業まで。

つまり、医学や薬学などの製薬会社的な専門用語だけではなく、業務内容に合わせて多種多様な語彙と知識を増やさなければならない。

ハイレベルな語学力で社内外のコミュニケーションを円滑にする役割を担う部署…ということから、通訳室、などではなく、コミュニケーション室と名付けられている。…ということを入社前に各部署説明の1つとして聞いた。

その部署が、数日前に社内公募を告知した。

半年後に採用試験を実施するので、希望社員はエントリーして欲しいということだった。ただし、受験した社員がコミュニケーション室の求めるレベルに達することができなかった場合、社内からの採用はゼロで外部から優秀なプロの通訳が雇われるという。

私のTOEICスコアは750点。今コミュニケーション室に所属している人達には900点以上の猛者も数人いると聞いている。

コミュニケーション室が重要視するのはTOEICの点数ではないけれど…と前置きしてクレアは続けた。

「もし英語力の壁を突破できたとしても…タカラはコミュニケーションが得意とはいえないでしょう?コミュニケーション室に配属になれば、苦手だからって避けられなくなるけれど、その覚悟はあるの?」

クレアが本社から赴任してきて1年とちょっと。働く国の言語を使うことが礼儀だと普段は日本語を使うクレアが、思わず…と言った様子で熱のこもった英語になっている。その熱はきっと私への心配によるもので、私は感謝を覚えながら言った。

「確かに得意とは言えません。でも…このテストにチャレンジしてみたいんです」



クレアは目をまん丸に見開いて驚き、何があったの?とこちらに身を乗り出した。

「今まで私が何度も…今後の仕事、キャリアをどう選ぶのかを尋ねても、迷っているとしか返さなかったタカラが…まるで別人のようよ」

あ、もちろんいい意味でね、とクレアのその青い瞳は、あくまでも優しい。

別人のよう。それは私自身が誰より感じていることかもしれない。

確かに以前の私なら、苦手なコミュニケーションの部署、その上合格の可能性が限りなく低いテストを受けようなどとは夢にも思わなかっただろう。

― それなのに。

この社内公募の告知が出た数日前、それを見た瞬間、チャレンジしたいという強い衝動が起こったことに自分でも驚いている。

「…タカラが本気なら、通訳になるためのスクールを経営している友人を紹介することもできるけど、どうする?」

「ぜひ、ご紹介いただきたいです」

「通常業務の手加減はできないわよ?その上での試験勉強になるけど大丈夫?」

「はい、もちろんです、よろしくお願いします!」

頭を下げながら、ワクワクと、うれしさと、そして少しの誇らしさがこみあげてきて。私は自分を褒めてあげたい気持ちになったのは、いつぶりだろうと思った。

「タカラ、Ma chérie , Bonsoir」

Ma chérie(マシェリ)とは愛しい人、大切な人、だそうだ。ビデオ通話の始まりのトモさん(伊東さんに名前で呼んで欲しいと言われた)のその決まり文句にも、タカラと呼ばれる照れくささにも慣れてきた7月。

付き合い始めて以来、日本の夜の時間帯にビデオ通話をすることがほぼ日課となりすでに半年続いている。今、こちらは22時、フランスは午後3時。出勤したばかりだというコックコート姿のトモさんがいよいよだねと言った。

「明日だよね?試験」

コミュニケーション室の採用試験は、いよいよ明日に迫っていた。この半年、クレアに紹介してもらったスクールに週に1度通いながら、最低毎日3時間は…と決めて自主勉強も続けてきたけれど。

「自信は?」

「…あんまり、ない…」

本当は全くない。でもそうは言いたくなくて強がった私の言葉に、正直でよろしいと笑ってくれるトモさんに気持ちが楽になる。

「そりゃ合格するのが一番いいけど、トライしただけでも十分意味があるよ。今までとは違うアプローチで英語を勉強できたんでしょ?」

そう。通訳になるための訓練は今までの英語学習とは全く違っていて、それが私にとっては新鮮でとても楽しかったのだ。

英語と日本語では文を作る語順が異なるため、全ての文章を聞いてから後ろから訳す、という方法を学校では教えられてきたし、私も今までそうしてきた。

でも例えば…同時通訳をする場合。全てを聞いてから訳すのでは遅い。そこで聞いた単語からどんどん訳していき、日本語に構成するという練習をしていくうちに、日本語の文章力も上げなければならないと痛感したり。

会社に入って6年。今の部署でも上司のクレアとの会話、本社とのメールや電話でのやりとりなど、英語を使わない日はなかったにもかかわらず、自分の英語力が停滞していたことに改めて気づくこともできて、私は勉強にのめりこんだ。

ただ、夢中になりすぎてしまい。



「合格したいなら、まず健康第一でしょ?」

宝ちゃんが痩せちゃってる!と半ば怒られ、ちゃんと食べてるの?と心配してくれた愛さんが、週に1度は一緒にご飯をと誘い出してくれたり、温めるだけで食べられるから!と大量の作り置き料理を持たせてくれたり。

大輝くんはカフェのeチケットを何度も送ってくれたし、雄大さんは試験が終わったら美味しいご飯に連れて行くよと約束してくれている。ありがたくて泣けちゃうような応援を励みにしてきた日々も、明後日でついに終わるのだ。

「トモさんも…本当にありがとう」

ビデオ通話の向こうのトモさんが、何を改まって、と笑う。

トモさんは付き合う時の約束通り2ヶ月に一度のペースで、日本に帰ってきてくれていた。それなのに、勉強で疲れてるでしょと気をつかってくれて遠出はせず、レストランに行って私の家に泊まる…ということくらいしかできていなかったのだ。

「試験が終わったら今までの分、構ってもらうから覚悟してて」

「うん、何でも言ってね。トモさんのしたいこと、全部しよう」

何でも?といたずらっぽくトモさんが笑った時、シェフ!と声がして、トモさんの視線がそちらに動いた。

「ごめん、そろそろいかなきゃ。なるべく悔いが残らないように…明日、宝が全力を出せることを祈ってる」

そう言ったトモさんが次の、たぶんいつもの言葉をくれる前に、今日こそはと先に、私はその言葉を奪った。

「ありがとう、おやすみなさい、…あ、愛してます!」

画面の向こうで驚き顔のままフリーズしたトモさんを置いて、私は急いで通話終了ボタンを押した。

― は、早口になっちゃった…!!けど…!

言えた…!初めてトモさんに…愛してます、と言えた…!付き合い始めて今まで、通話の終わりに必ず愛してると言ってくれるトモさんに、私も、と答えるだけで精一杯だったから…。

― 今トモさん…どんな顔してる、かな。

なんだか猛烈にむずがゆい気持ちになり、ベッドの上でしばらく足をバタバタさせてなんとか落ち着きを取り戻してから。私は明日の試験のために…最後の復習をするべくPCの電源を入れ、イヤフォンをはめた。

当日は通常業務から外され、試験に専念して良いことになっていた。

9時に出社してクレアに挨拶にいくと、試験は10時からよねと確認されて頷く。

試験項目は、筆記とリスニング、そして本社からきたアメリカ人スタッフ数人とのグループディスカッションと聞いていた。

「自信は?」

「…少し…緊張してます」

少しくらい緊張感がある方がうまくいくわ、と和ませてくれたクレアが、これ、タカラへのメッセージ、と自分の携帯画面を私に見せてくれた。

それは…クレアの友人であり、通訳のスクールで私の担当をしてくれていた先生からだった。



「私は、あなたのように真面目な生徒を他に知りません。指摘を素直に受け入れ、メキメキと能力を伸ばしていくその姿には感動すら覚えました。

確かにあなたは完璧だとは言えません。今回の試験を受けるには実力が足りないかもしれません。でもあなたのこの半年の努力は本当に尊敬に値します。あなたは今のあなたができる精一杯のことをした。そのことは私が自信をもって保証します。

たからあなたも、この半年の…自分の努力の日々に、自信をもって試験に臨んでください」

英文で書かれたそれに、思わず涙がこぼれそうになり慌てて上を向いた。クレアに、So,now,are you ready?と聞かれて、私はこみ上げた熱を言葉にかえる。

「こんなに…なにかに合格したいと思ったことは、生まれて初めてかもしれません。今までの私は…学校の受験も就職活動もどこか…まるで他人事のように…自分のレベルを測定して、その自分の力に見合った場所に属することができればいい、そんな風に思っていたんだと思います。でも、今は…」

思いが高ぶり、喉がつかえて言葉に詰まったその先を、クレアが優しく待ってくれている。

「自分の能力が不足しているとわかっているのに、私はこの試験に挑戦できることがうれしいし、合格したいです」

そして感謝の気持ちが溢れだす。

「将来のビジョンを想像すらできていなかった私に、クレア、あなたがずっと…どうするのかと問い続けて下さったからこそだと思っています。このチャレンジはあなたのおかげです。本当にありがとうございます」

頭を下げた私を、やめて泣いちゃう。ああ、もうだから私はタカラが大好きなのよ、と抱きしめてくれたクレアの穏やかな香りに包まれながら、私はいつか、それが遠い日のことだったとしても。誰かにとって私も、クレアのような上司になれたらいいなと心から思った。

「…大輝。ちょっと…あなたに無神経な質問しちゃっていい?」

「愛さんのちょっと、って全然ちょっとじゃないからなぁ。それにダメって言ってもきくでしょ」

だって大輝と2人きりなんてなかなかないから、と愛が笑う。宝は明日が試験で、雄大は出張で東京にいない。愛も大輝も待ち合わせをしていたわけではなく、お互い1人でSneetに飲みに来たらばったり会ったという流れだ。

宝と雄大がおらず2人きりだと、2人の容姿と色気が殊更際立ってしまうのか、カウンターに並んで座る愛と大輝に、他の客がちらちらと密かな視線を送っている。



「今日はちょうど、ともみちゃんも休みみたいだしね」

「なんで今ともみちゃんが関係あるの?」

「だって、ともみちゃんって、大輝のこと狙ってるじゃん。そんな子の前で大輝の恋の話なんてできないでしょ」

愛の言葉に今度は大輝が笑った。

生粋の面食いだと宣言してはばからないともみちゃんは、ここSneetでバイトを始めて以来、大輝にわかりやすいアプローチ、猛攻撃を続けている。断られ続けているのに一切めげないその姿勢に、愛は尊敬の念さえ抱いていた。

「ともみちゃんは、“美”が好きなだけで、別にオレ自身のことが好きなわけじゃないって愛さんもわかってるでしょ?」

大輝が自身を“美”と評することには慣れすぎて突っ込む気にもならず、愛は苦笑いで話を戻した。

「宝ちゃんのことは、もうふっきれた感じ?」

「……やっぱり?その話だと思ったよ」

ふざけておどけるその笑顔から大輝の本音を探ることは難しい。だから単刀直入に聞くしかないと愛は言葉を続けた。

「宝ちゃんってさ、本当にいい子じゃん」

「うん」

「大輝、結構、早い段階で宝ちゃんに惹かれてたでしょ?女子としてね」

「…そうなの?」

オレ、そんな風に見えてた?とキョトンと愛を見つめる大輝の子犬感に、やっぱり自覚はなかったわけねと愛は苦笑した。

「大輝には悪いけど、私は大輝と伊東さんだったら、圧倒的に伊東さん推しなわけ。人としてじゃないよ?宝ちゃんの恋の相手としてだよ?」

うわ、愛さんひどい。と大輝は口を尖らせた。

「でもオレも伊東さんで正解だと思ってるよ。だいたいオレ、大輝くんとは友情がいいってはっきりフラれちゃってるんだから。知ってるでしょ?

でも、もう本当にいいんだよ。あの時宝ちゃんがオレに言ってくれた一言一言が、それこそ宝物みたいにキラキラしてて。多分オレ一生忘れない。だからもう、それで十分なんだよ。オレ、これから先ずっと、宝ちゃんを大切にする。もちろん友情でね」

「…それ、本気で言ってる?心から?本気の本気?」

「心からだし、本気の本気。それに…オレは結局、京子さんとは離れられないってこともわかっちゃったし」

愛さんは許せないだろうけど…と人妻である恋の相手の名前を出した大輝を、愛はなぜか怒る気にはならず、ただ大きな溜息をついた。

「恋愛ってさ、ほんっとにタイミングだよね。早すぎて気がつかなかったり、遅すぎて手遅れです、ってなったり。お互いに好意があっても実らない問題多すぎない?」

「…愛さん?」

「…今じゃなくても…いつかまたどこかで交わるときが…タイミングが合うときがくるのかなぁ」

「…それ、オレに質問してる?」

神様に質問してる、と愛は手に持っていたグラスを持ち上げ、カラン、カランと鳴らした。氷の音が響いたそれは、愛にしては珍しいラムのロックで、普段、雄大が好む銘柄だと大輝は気がついた。

「愛さん」

「…ん?」

「もしかして…雄大さんと…なんかあった?」



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