起業と聞くと「特別なスキルや才能、資産がなければ成功しない」と考える人は少なくありません。しかし、日本では1日におよそ400社近くの法人が設立されるなど、起業は思っている以上に身近な存在です(東京商工リサーチ:2022年「全国新設法人動向」調査より)。大手企業に勤めながらも昇進とは無縁だった54歳男性の起業事例をみていきましょう。経営コンサルタントの鈴木健二郎氏が解説します。
金銭的な不満はないが…大手企業で働く田辺さんの「悩み」
大手企業の経理部で30年間働いてきた田辺健一さん(仮名)、54歳・男性。仕事ぶりは堅実で間違いなく信頼できるが、特に目立った業績がないため昇進とも縁遠く、周囲からはいわゆる「堅実だが、ぱっとしない存在」として見られていた。
ある日、健一さんは上司からこんなことを言われる。
「君の報告は、数字に間違いはないし、安心感としてはバツグンだ。ただ、大事な会議で数字を説明するだけでは、なにかが足りないんだよな。自分なりの切り口で問題提起をするとか、ここぞという時にもう少しアピールしてくれないか」
健一さんは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重く沈むのを感じた。実は、長年の経理の仕事で数字を扱うことに自信を持っていたものの、他の部門との連携や自分の意見を強く主張する場面において自信がなかったからである。それをなんとかごまかしてここまでやってきたが、改めて言葉で指摘されるとその現実がのしかかり、がっくりと肩を落としてしまった。
彼の職務は日々のルーチンワークが中心で、数字に追われる毎日だった。年収は約700万円と金銭的な不満はない。しかし、家族との時間も十分に取れていないことも悩みのひとつだった。
そんな健一さんには、没頭できるひとつの趣味がある。それは陶芸だった。
健一さんが陶芸の趣味を持つようになったのは、友人の紹介で地元の陶芸教室で体験講座を受けたことがきっかけだ。いつもの彼なら、いくら友人からの誘いだとしても、新しい世界に足を踏み入れるようなタイプではないのだが、仕事でくさくさしていたせいか、なぜかその時はふと誘いに乗ってみたのだった。
最初は単なる趣味として通っていたが、健一さんは次第にその魅力にのめり込むようになった。教室の講師からも「田辺さんの作品は非常に独創的で魅力的です」と評価され、自分の作品が人々に喜ばれることに喜びを感じるようになったという。
そんなある日、陶芸教室の作品展に出品した作品が地元のアートフェスティバルで賞を受賞した。これが彼にとって大きな自信となり、「自分の作品をもっと多くの人に見てもらいたい」と考えるようになった。
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趣味をビジネスにすることの厳しい現実
健一さんは経理の仕事を続けながら、副業として陶芸作品の販売を始めることにした。しかし、最初はなかなか売れず、展示会に出品しても関心を持ってもらえないことが多かった。娘さんの手ほどきでオンラインショップを開設してみたが、アクセス数が少なく収入もほとんどなかった。
また、陶芸に集中するあまり、本業の経理の仕事に支障をきたしはじめた。あるときには、信頼してくれていた上司から「最近、業務態度が怠慢にみえる」と叱責される始末。
陶芸の材料費や道具の費用がかさみ、家計にも負担をかけてしまった。とうとう家族からも「副業なんてやめて、本業に専念したら?」という声が上がり、健一さんは自分の選択に悩む日々が続いた。