「妊娠したけど、離婚したい」結婚2年目、将来のことを考えると急に夫の嫌な部分ばかり目につき…

◆前回までのあらすじ

広告代理店に勤める志保里の夫・源一は、有名レストランのシェフ。円満な新婚生活を送る中で志保里は、元同僚で起業家の葉奈から「自分の会社に来ない?」と誘われる。受けるつもりだったが、源一から「子供のことを考えよう」と言われ…。

▶前回:人気シェフと結婚した広告代理店勤務の33歳女。ある日、夫が真剣な顔で告白した本音とは…

シェフの男/志保里(33歳)の場合【後編】



「ごめんなさい。せっかく誘っていただいたのに」

以前の会社の同僚・葉奈から、引き抜きの声をかけてもらった翌週。

葉奈の会社がある渋谷の複合施設内で、志保里は、カフェテラスでのランチ中に頭を下げた。

もう少しじっくり考えたかったという気持ちはある。しかし、結論は早い方がいいと、葉奈からのオファーは辞退することにしたのだ。

「そう。本当に残念ね…」

開放的で明るい店内には似合わない暗い表情で、葉奈はわかりやすく肩を落とす。一度は前向きな態度を示してしまった志保里は、申し訳なさでいっぱいになった。

「ごめんなさい。主人と話して、妊活をはじめることにしたの。そうなると転職したとしても、今後、いろいろと迷惑かけてしまうと思うし…」

「そうね。大企業の方が制度も整っているから、仕方ないよ」

葉奈は無理に作った笑顔で、申し出を受け入れてくれた。その優しさも心苦しかった。

「でも、志保里の力は本当に必要なの。ママになって落ち着いてからでも遅くないから、その時は、気兼ねなく連絡して」

「うん…」

そして葉奈はランチセットを食べ終えた後、「午後も仕事が詰まっているから」とすぐ席を立つ。

その後ろ姿を、志保里は羨ましさの混じる眼差しで見送った。

― いいな、仕事に打ち込めて…。

このランチの後、志保里は仕事で午後の半休をとっている。

源一と「妊活を始める」と決めたので、カウンセリングと検査のためにクリニックに行くのだ。会社の制度を十分に活用し、積極的に妊活に向き合うつもりだ。

― やると決めたら、時間を無駄にしたくないもの。



仕事第一の志保里にとって、子どもは人生の選択肢として下位であったことは否定できない。自身の性格はどちらかというと自分本位で、母親には向いていない…。今までは、そう思い込んでいた。

だが、愛する夫・源一のおかげで、固く閉ざされた扉が開いたような気がした。

自分の子はどんな子なのか?

源一はどんな父親になるのだろう?

そう想像すると、夢がふくらんだのだ。

なにより大きかったのは、母となることで新しい自分を発見できるかもしれない──という期待だった。

クリニックで一通りの検査を終えた志保里は、その晩、帰宅した源一に男性用の検査キットを意気揚々と手渡した。

すると源一は、なぜか強張った表情を浮かべる。

「え、何これ?」

「早速だけど今日、妊活のためのクリニックを受診したの。私のライフプランもあるから、早めに進めた方がいいと思って。調べたらクリニックの検査予約が空いていたから、すぐ行ってきちゃったんだ」

「いや、でも…」

「どうしたの?念のためよ。検査結果によっては、最初から難しいこともあるらしいから」

それでもためらう源一の話をよく聞いてみると、源一の言い分は突き詰めれば「計画的にタイミングを取る確約できない」ということだった。

シェフとして世界各地で活躍している源一だ。来週はフランスに視察へ、その次の週は地方のイベントへ招かれているという。

考えてみれば、帰宅も毎晩遅い。今回の検査も、相談する時間が十分とれなかったため、独断で動いてしまったところもある。

志保里は理由を聞き、一旦は納得した。

「なるほど。でもね、私としては…」

自分のキャリアのためにも、できる限り計画的に進めたい。その意志は、なんとしても源一に理解して欲しかった。

けれど、その気持ちを伝えようとした、その時──。

まるでタイミングをはかったかのように、志保里のお腹が鳴った。

「あ、もしかして、小腹減ったの?何か作るよ」

その音を聞いた源一は、すぐにキッチンに向かうのだった。

源一は冷蔵庫の中の半端な野菜や食材をかき集め、ものの十数分で、あたたかな洋風雑炊を作ってくれた。

「いただきます」

やさしいコンソメの香りに、ふわふわのときたまご。フレッシュトマトも加えられ、彩りも美しい。

「どう?」

「美味しい…体の芯まであったまる」

源一の料理を求めて、海外から訪れるお客様もいる。志保里はこの味わいを独り占めできるこの瞬間が、とてつもなく贅沢に感じた。源一は、替えのきかない人なのだ。そのことが改めて、美味しさと共に身に染みる。

「ありあわせの手抜きだけどね。まぁ、さっきの話だけど、難しく考えなくても同じ方向で前を見ていれば、結果はついてくると思うんだ。まずは自然に任せてみようよ」

「うん…」

納得はしていなかったが、志保里は思わず頷いてしまった。料理人は仕事で料理に向き合っている分、家では作らない人も多いと聞く。だが、彼は違う。心底料理が好きな人なのだ。

そう思うと志保里は、源一を振り回してまで計画的な妊活を進めようとすることを、申し訳なく感じてしまった。

だからといって、年齢的にものんびりできない。源一の「子どもが欲しい」という意志には、できるだけ早く応えたい。やると決めたからには、自分だけでも前向きに進めたほうがいいのではないか?という考えが、志保里の脳裏をよぎった。

― だったら、通院もタイミングも、私が彼に合わせて調整をするしかないよね…。仕方ないか。子どもができたら結局、産休や育休、時短勤務にもなるんだもの。

源一の意志と自分の考えのせめぎあいの末、志保里はそう結論する。

全ては、未来の幸せのための貯金だと思えば、ひとりでも頑張れるような気がしたのだ。



3ヶ月後。

ふたりが暮らすダイニングには、慣れないながらも煮込み料理にいそしむ志保里の姿があった。

「うん、いい感じ!」

味見をした志保里は、大きくうなずく。会社とも相談を重ね、フルリモートの職種に契約変更してから、午前中は家事をこなしながらリビングで仕事をするのがすっかり日課になっていた。

料理ができたのと同時に、洗濯機の終了音が聞こえてくる。ほぼ同じくして食洗機からも洗浄完了のアラームが鳴る。バタバタと駆け回っていると、昨晩も遅くに帰宅してきた源一が、のそのそと起きてきた。

「志保里、おはよう」

「あ、おはよう…」

源一は志保里の姿を見ると、パジャマ姿のままソファにのんびり座った。そして、ベランダで洗濯物を干す志保里の姿を、微笑みながら眺めはじめたのだ。

「源一さん、のんびりしているなら手伝ってよ~」

「いやいや、なんて幸せな光景だなぁって実感していてね。ちょっとしばらく見つめさせてくれよ」

源一の言う通り、絵にかいたような幸福な光景だ。志保里も心からその幸せを実感する。

だが、いつまでたっても源一は腰を落ち着かせたまま動こうとしなかった。志保里が「手伝って」と言ったにもかかわらず。

そして、やっと洗濯物を干し終わり、再びキッチンに戻ると、源一は夢見心地な表情を浮かべたまま呟いた。

「なぁ。もし子どもができたらさ…。軽井沢とかに店を出して、自然ある場所でのんびり暮らすのもいいよね」

「え…?」

調理のあと片付けをする手がとまる。

源一の表情は、満足げだった。自分の素敵な提案が、志保里に二つ返事で受け入れられると思っているような、そんな余裕が浮かんだ顔だ。

― あれ…?

ふと志保里は、胸の奥に靄がかかったような不快感をおぼえた。

子どもが欲しいと言いながら、妊活に非協力的な彼。志保里が家事を担うようになってから、どこか上機嫌な彼…。

ふと、ある疑念が浮かび上がる。

― もしかしてこの人…。子どもが欲しいんじゃなくて、子どもを理由に、私を家庭にいれたかっただけ…?

モヤモヤとした気持ちをそのままにできなかった志保里は、少しの沈黙のあと、ようやく答える。

「軽井沢かぁ。ごめん、それは難しいかな」

「そっか…まあ、落ち着いたらまた話し合おう」

志保里がどうにか絞りだした答えだというのに、源一からの反応には、相変わらず余裕が溢れていた。まるで、最終的には受け入れてもらう前提のようだ。靄はどんどん拡大していく。

― まただ…。

実は妊活シフトに入ってからというもの、志保里の中には、無意識の中のフラストレーションが確実に積もりはじめていた。

何かにつけて敏感になり、胸の奥につかえたような気持ち悪さがこみあげてくる。

― 源一さんが言い出したことなのに、我慢しているのは私だけなの?この先、永遠にこういったことが続くの?

わかっている。この気持ち悪さは、思うように仕事ができないストレスのせいだ。

そのうえ、妊活のために仕事をセーブすることを決めたのは、源一ではない。自分自身なのだ。

その自覚があるせいで、どうしても本音が吐き出せない。

「どうしたの?顔色が悪いよ」

源一がかけてきた心配そうな一言にも、カチンときてしまった。今の志保里には、源一の優しい言葉はまるで他人事のように聞こえたのだ。

反射的に頭に血が上る。もう止められない──。

「あのね、私は…!」

と、そう言いかけたところで、志保里は急激に胸のつかえに限界を感じ、お手洗いへと駆け込んだ。

そして、何もかもを吐き出す。

それでもなぜか、すっきりすることはなかった。

それもそのはずだ。胸の奥にあるモヤモヤは、精神的なもの以外にも理由があったことに、ようやく気がついたのだ。

「大丈夫…?」

息も絶え絶えになりながら志保里が振り向くと、心配しながらもどこか期待の色を浮かべた源一の顔があった。

優しく背中をさする源一に、志保里はもう、何も言い返す気にならなかった。

クリニックに赴き、妊娠が判明したのは、その翌日のことだった。



医師によると、志保里は妊娠3ヶ月だという。

繊細になっていたのも、胸の奥がモヤモヤしていたのも、ストレスではなく妊娠の影響だったのだろう。

「え、やっぱりそうだったんだ!?やったね!予定日はいつ?3ヶ月…ということは、来年の春か!性別は?まだわからないか」

いつものように深夜帰宅した源一に告げると、源一は居ても立ってもいられないような様子で、無邪気に喜ぶ。

その笑顔を見ていると、志保里の胸も熱くなった。

― だけど…。

その一方で、志保里はお腹の中の新しい生命の感触に、どこか恐怖を感じていた。

「俺も、一層がんばんないと!な、志保里」

「うん…」

吐き気をもよおすまで気づかなかったのは、元々周期が不安定だったから。ぬか喜びしてガッカリしないよう、今回もいつも通り遅れているだけだと思い込んでいた。

けれど、それ以上に──。

いよいよ生活がすっかり変わってしまうことや、妊娠することへの恐怖もあったのだろう。今思うと、故意に気づくのを避けていた部分もあったように感じる。

― 私、この子を愛せるのかな…。

思わず不安な表情を浮かべてしまうと、それに気がついた源一が、志保里の顔を覗きこんだ。

けれど志保里は、反射的に目をそらしてしまう。

「ごめん。もう眠いから寝るね」

「あ、ごめん。帰るまで、ずっと起きていてくれていたんだよね」

一緒にベッドに入ったものの、志保里は何も答えず、源一に背中を向けたまま、眠ったふりをした。

お腹の子どもと共に、不安も少しずつ、自分の中で大きくなっていくような気がした。

結局、本音を吐き出せないまま時間だけが過ぎ、妊娠8ヶ月になった。

手持ち無沙汰な夜のリビングで、志保里はため息をつく。今日も、何もしないまま一日が過ぎてしまう。

今は、産休中だ。

休みに入る前にやり残した仕事が気になるし、忙しくして不安な気分を紛らわしたかったが、どうにもならない。SNSとネットニュースを眺めるだけの毎日。

― 小学校にあがるまで…ううん、もっとその先まで思うように動けないんだ…。

本来なら妊婦はもっと希望に満ちた気分であるべきなのに、SNSに投稿されている葉奈の仕事の充実ぶりと、フィードに並んだ源一の店の広告を眺めながら、志保里はベッドの上で眠れぬままため息をつく。

この状態で出産したら、何もかもが壊れてしまうような予感があった。

好きな仕事ができない不満もあるが、それ以上にストレスなのは、「源一が、子どもを理由に自分を家庭に閉じ込めようとしているのでは?」という疑念だ。

そんな不安の中で志保里は、ぼんやりと考えを巡らす。

― もしそうなら…。出産後、ううん。今のうちから、源一さんとは離れなきゃいけないのかも。だって私、仕事を諦めきれないよ…!

そんなふうに思い詰めているうちに、夜は更けていく。

いつのまにか時間は午前1時を回り、源一が小さな声で「ただいまー」と囁きながら帰宅してきた。

寝室に入ってきたその顔は、充実した仕事をし終えた喜びに満ちている。志保里はベッドから体を起こし、彼を出迎えた。

「おかえり。夜食、用意しようか?」

「あれ、起きてたの?大丈夫だよ、今日は店のスタッフと軽く飲んできたから」

― 飲んできた…?

妊婦が目の前にいるにもかかわらず、無神経にもとれる言動をする源一に、志保里はさっそく苛立ってしまう。

「そう」とだけ返し、感情を面に出さぬよう背を向け、再びシーツの中に潜った。

料理をしてくれるから。

仕事が好きな自分を好きになってくれたから。

そんな理由で源一のことを、性別に捉われない価値観を持った人だと思い込んでいた。けれどやっぱり源一も、いまだに多く存在する亭主関白思考の男だったのかもしれない。

― やっぱり、無理かも…。

込み上げる不安とやるせなさに、志保里は身を固くする。

けれどその瞬間、源一がすぐ隣に、どっしりと腰掛けた気配を感じた。大きな手がゆっくりと伸びてきて、志保里の体を優しくさする。

とってつけた優しさだと、その手を振り払おうとした時だった。

少しのためらいの後、源一がおずおずと話しかける。

「なあ、志保里。俺…店、辞めてもいいか?」

「え…どういうこと?」

志保里が思わず身を起こすと、源一は、志保里の目をしっかりと見つめて告げた。

「実は…」

源一は、順調にいけば出産予定日と同じ2ヶ月後、今の店を去るつもりだそうだ。それ以降の予定は未定だが、独立の準備と、家事育児の主力を担っていきたいのだという。

「…俺にも育休みたいなことができないか、ずっと前から考えていたんだ。段取りに手こずって、今日やっと相談できる目途がついて…」

以前漏らしたように、かねてから独立先として軽井沢を考えていたが、志保里に拒否された時の様子で気づいたという。

自分がずっと、志保里を振り回していたことを。

そして、志保里にとって、仕事がどんなに大切かということを。

「なあ、志保里。今までずっと、我慢してたんだろ?産後はさ、身体が回復したら、好きな時から好きなだけ働きなよ。もちろん、志保里が育休を存分にとりたければ、それでもいいし」

「源一さん…」

「金銭面なら大丈夫だと。書籍の執筆とか、企業からの商品監修依頼とかもあるんだ。考えてみれば、志保里のプロモーションのおかげで、うちの店の冷凍食品シリーズも好調で、自分の名前だけでやっていけるようになったんだよね。こんな有能な女性を、家の中に閉じ込めておくわけにはいかないよ」

志保里は今、世界でいちばん嬉しい最高の褒め言葉を授けられたような気がした。

自分勝手な苛立ちで、被害者妄想をしてしまったことを悔やむ。

「ありがとう…!」

気がつけば源一の胸に飛び込んでいた。

すると、その時。

源一と自分との間にうごめく感触を──ハッキリと感じたのだ。

「あ…お腹。ねえ、わかる!?赤ちゃん、すごく激しく動いている」

「はは。もしかして、パパにアピールしているのかな」

― 私、何を勝手に思い詰めてたんだろう…。

志保里の胸に、反省の気持ちと共に、源一への新しい感情が溢れ出るのを感じる。

それは、恋人でもあり、夫でもあり、人生のパートナーでもある───本当の家族としての愛情だった。

「ねえ、源一さん。源一さんの料理、赤ちゃんにも食べさせてあげてね」

「当たり前でしょ。パパが世界イチ美味しい離乳食を作ってあげまちゅからね〜」

そう言って大きなお腹に語りかける源一を見て、志保里は心の底から思う。

― ああ、この人は…世界一最高の夫で、世界一最高の父親で、世界一最高の、我が家のCHEF(シェフ)なんだ!



Fin.



▶前回:人気シェフと結婚した広告代理店勤務の33歳女。ある日、夫が真剣な顔で告白した本音とは…

▶1話目はこちら:富山から上京して中目黒に住む女。年上のカメラマン彼氏に夢中になるが…