「自分たちで作った“檻”に自分たちを閉じ込めている」“不寛容な時代”を描いた羽田圭介最新小説/『タブー・トラック』書評

 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。

 知らない街を歩き、適当な食堂に入って隣のテーブルの人が食べてるものを指差し「あれと同じものを」と店員に注文する。料理が運ばれてきて、食べると美味しい。が、料理の中にどうしても嚙み切れない食材が混じっており、口の中から皿に吐き出してみると、それは小動物の頭だった――。

 そんな読書体験を最近した。それが羽田圭介『タブー・トラック』である。

 この小説をどう評価していいかわからない。面白い以上に「なんじゃこれは」という異物感が強い。ただ、時間がたつとあの話はこういうことだったのかも……とじわじわ考えることが増えてくる。そんな小説だ。

『タブー・トラック』は4人の登場人物を通して描かれる。彼ら彼女らはそれぞれに鬱屈を抱えている。

 世間からのクリーンなイメージを守るためにさまざまな抑圧を受け、徐々に押しつぶされそうになっていく35歳の男性俳優・響梧。

 若い頃には酒で失敗していたが現在はそれを反省し、自らをコントロールしようと腐心する34歳の女性脚本家・蒔。

 かつて“神童”と呼ばれるほど優秀な学業成績だったが、転職を繰り返して現在は英会話学校の営業職についている50歳の男性会社員・優一。

 その優一の娘で、親に黙って整形し、歌とビジュアルを武器に動画配信でお金を稼いでいる女子高生・七海。

 響梧と蒔は同じ業界で仕事をしているが、それ以外バラバラなライフステージを送る中で、それぞれの「鬱屈」にぶつかっている。

 響梧はスキャンダルで仕事が減らないように腐心するあまり、自分のやりたいことや思っても表では言えないことが積み重なっていく。

 蒔は世界的な動画配信サービスが制作する大型ドラマの監督・脚本の仕事を任されるが、先方から「こういう要素を入れてほしい」「こういう結末にして次回へとつないでほしい」といった脚本の変更を要求されることに段々と「これは私の作品なんだろうか?」と感じてしまう。

 優一は上司からパワハラを受け、そのストレスをSNSで不祥事を起こした著名人を弾劾する「市民裁判」で晴らそうとする。

 七海は配信を見ている人間や、同級生たちからやっかみ混じりにぶつけられる心無い言葉に辟易している。

 鬱屈を抱えた4人に、それぞれ少しずつ新しい局面が生まれ、事態が動いていく。そして後半はそこからさらに8年後の、また違った世界が描かれていく。

 この物語全体を貫くテーマは「不寛容な空気に包まれた時代の息苦しさ」である。作中、響梧と仲の良かったある俳優がトラブルに巻き込まれ、そのとき所持していた薬が合法ドラッグとしても使用されている薬だったということでバッシングを受け、俳優の仕事を失っていく場面が出てくる。彼は俳優として高い評価を得ており、人格者としても知られていた。それなのに巻き添えのような形で疑いが持たれると、疑いそのものが悪であると言わんばかりに活動休止に追い込まれる。

 そのほかにも不倫報道や、問題発言で一緒に働いた同業者が少しずついなくなっていくのを横から見ているうちに、響梧は「今の俺は上にも下にも行けない。内側から湧いてくるものがないのだ」と徐々に仕事への熱量が薄まってきてしまう。心のバランスを取るように、響梧は知人から安く譲ってもらったキャンピングカーを改造し、車内で放送では禁句とされてる用語を一人叫んだり、その車で仲良くなった男性アナウンサーと遊ぶことで心のバランスを取るようになる。

 そのキャンピングカーこそがタイトルの「タブー・トラック」。このタブー・トラックが後半の別世界で重要なアイテムになっていく。

 読んでてわかる、と思う場面が多かった。誰もが一生懸命生きている。誰もが息苦しい。その価値観が大きく転換する後半世界は破天荒といえば破天荒だが、「なるほど」と思う場面もままあった。令和の私たちが自分たちで作って、そして自分たちを閉じ込めている“檻”をシニカルに描いたこの作品が、読み終わった今もずっと強い異物感として心に残っている。

評者/伊野尾宏之

1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり

―[書店員の書評]―