朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
◆生き馬の目を抜くことが求められるパチプロ
筆者はこれまでに何人ものパチプロに出会ってきた。彼らに共通しているのは、一般の客が注目しないようなことにしっかりとフォーカスし、少しでもオイシイポイントがあれば、キッチリとその“旨味”を搾り取るということ。まさに「生き馬の目を抜くがごとし」といったところか。
その昔、あるパチプロは「7枚交換、データカウンターなし」という店でひたすらに勝ちを重ねていた。交換率もデータを読めないこともプロにとっては不利でしかない。だが、「なんでそんな店で打ち続けて勝てるんですか?」と筆者が聞くと、彼は「競合するプロが絶対にいないから。データなんて、ずっと店にいて自分でつければいい」と、サラリと言い放った。
◆就活で全滅となり潜り込んだ先は…
今回、話を伺ったのは元パチプロの岡本昌さん(仮名・48歳)。彼は200万円の借金を抱えた状態でパチプロになったという。果たして、どのような経緯でパチプロになることにしたのだろうか。
「私が大学卒業したのは2000年で、いわゆる氷河期世代ってヤツですね。出版社か新聞社志望で就職活動をしたんですが全滅で……。全国紙の新聞では最終面接で落ちて、さてどうしようかと思っていたところ、知人の紹介でとある攻略誌の編集部にもぐりこむことができたんです。パチンコもパチスロもけっこう好きだったし、当時のパチンコ・パチスロ雑誌ってどこかサブカルなノリがあったので、入れることが決まったときは“ラッキー!”くらいな感じでした。でも入ってみたら、職場は超絶ブラックな環境。残業しようが徹夜して泊まり込みで仕事しようが、決まった日当の金額しかもらえなかったんです……」
そんなブラック企業であっても、新台や解析情報は一般の人よりも早く触れることができたり、仕事でパチンコ・パチスロを打つこともできたりと、岡本さんにとっては願ったりな仕事であったという。
「キツかったですけど、楽しかったですね。仕事でパチスロ打って、仕事終わったらプライベートでパチンコ打って、そのまま会社に戻ってまた仕事。今じゃ考えられないくらいブラックな環境でしたが、パチンコ・パチスロ雑誌であっても、一応はメディアなわけですから、編集やライティングといった仕事に携われていたこともあって、やりがいを感じていました」
ブラックな環境ながらも充実した時間を過ごしていた岡本さんだったが、3年ほどでパチンコ・パチスロ雑誌を去ることになる。
「パチンコ・パチスロを打つことよりも雑誌を作る、原稿を書くってことのほうが楽しくなってきちゃったんです。それで情報誌などいわゆる一般メディアで仕事したいなぁって思うようになりました。でも、その頃の出版業界はどこもかしこも採用をほとんど行っておらず……。もうさすがに仕事もキツいし、パチンコ・パチスロ雑誌を作ることに飽き始めていたし……みたいな感じで、『思い切ってフリーになっちゃえ!』と思って。今考えると在籍していた出版社以外にたいしてコネもないのに、よく辞めたよなぁって思いますね(笑)」
◆フリー転身後にバーの店員を始めることに
だが、捨てる神あれば拾う神あり。フリーライターになった岡本さんに「一緒にバーをやらないか」という誘いがあったという。
「よく行く飲み屋で『オレ、フリーになったからなんでもやりまーす!』って酔って話してたら、常連の方でテレビの構成作家やってるAさんという方から『バーを出したいから、手伝ってくんない?』って。ライターやりながらバーで働ければ、固定給も入るし飲食のバイトは大学時代にやっていたので渡りに船でした」
こうして岡本さんは夜はバーで働き、昼はライターという二足のわらじを履くことになった。だが、この誘いは地獄の入り口の扉を開くことになる。
「週に2〜3日出て月に15万円。ライター仕事も古巣のパチンコ・パチスロ雑誌と、細々ですが一般情報誌の仕事も入ってきて、バーのお金と合わせて月に30万〜40万円はありました。20代半ばの駆け出しのライターでそんなに仕事もない身としては、合格点の稼ぎだったと思います。でも順調だったのは最初だけ。半年くらいするとAさんからの給料の支払いが滞り始めたんです」
◆オーナーが逃亡して借金を背負う
それでも半月遅れだったり、翌月にまとめて……といった形でお金は支払われていたのだが、次第に仕入れのお金の立て替えなども岡本さんに無心するようになっていった。もちろん、岡本さんもおかしいとは思っていたのだが、バーの仕事が楽しくてうやむやになっていったという。
「最後の方は仕入れや家賃も肩代わりするようになったんですが、バーの仕事が楽しくて、なんならお店をもらってそのままバーをやっていこうと思ったくらいです(笑)。でも、そう甘くはいかないわけで、借金まみれだったAさんはある日とんずらしまして……。店には得体の知れない連中が取り立てに来るようになりました。店の大家さんも交えて話したんですが、結局店を続けることはできず、私にはクレジットカードや消費者金融からの200万円近い借金だけが残ったんです」
◆ライバルがいない店を探して辿り着いた不毛の地
バーの仕事に重きを置いたため、末期はライター仕事で月に数万円程度しか稼ぎはなかった。そんな折、古巣のパチンコ・パチスロ雑誌をたまたま手にしたことで岡本さんはハタと閃く。「オレ、一応はパチンコ・パチスロ雑誌で立ち回りの知識はあるし、時間は無限にあるからパチンコ・パチスロで稼ごう」と……。
「そこで店選びから始めたのですが、そもそも朝早くから並んで打つのは夜型なので無理。できるだけライバルのいない店を探していったところ、家から比較的近い下北沢と経堂、下高井戸で店を探しました。当時を知っているプロからしたら『出ない地域で何をバカな……』と思われるでしょうけど(笑)」
◆下北沢の2店舗を狙うも…
そして岡本さんは、最終的に下北沢の某チェーン系ホールA店とB店の2軒を中心に立ち回ることにした。
「下北沢は若者の街と言われていて、大学生や演劇、バンドの人間はたくさんいたのですが、パチンコ・パチスロは出ない街というのが当時の認識だったと思います。人は多いのでどこのホールも稼働率は高かったんですが、出玉状況はあまり芳しくなく、常連はいてもプロはいませんでした」
だが案の定、そこは“プロが敬遠する地域”。出玉状況も芳しくなく、種銭の20万円はあっという間に底をつきそうになり……。そして岡本さんの人生は、ここからさらに大きく変わっていくことになる。
取材・文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター