「理想を掲げなくてどうするんだい?」恋人と仕事との狭間に揺れる29歳女性が出した結論とは…

前回:「合格した人が妬ましい…」28歳女性に初めて芽生えた“欲”に、男友達がかけた意外なひと言とは

どんな人にも平等に…時は過ぎる。

引越してきたばかりの時には夜の西麻布交差点を歩くだけでも怖くて緊張していたのに。酔っぱらった人たちの大きな笑い声や叫び声、夜のお店のお姉さんたちの色っぽさにも今ではすっかり慣れた。

どんなに目新しく刺激的なことも時間と共に日常になるものなのだということを、その西麻布交差点の信号待ちで、私はなぜか突然実感した。

今は8月。10月末で西麻布に引っ越してきてから2年になる。ホブソンズの前から西麻布2丁目方向へ…Sneet(スニート)へ向かうこの道を歩くこともまさに日常そのものとなっていた。

引っ越してきた時、この街で過ごすのは2年の予定だった。でもマンションの更新に迫られている今この街から離れたくないと思いながらも、更新に悩む理由があった。

信号が青になり歩き出しながら、私はここ数ヶ月のトモさんとのやりとり…そして一昨日のケンカを思い出す。

「マンションの更新のタイミングでさ…少しだけ、フランスで暮らしてみない?」

そんな提案を受けたのは、4ヶ月前。ゴールデンウィークの休みを利用して私がパリのトモさんを訪ね、そのアパルトマンで夕食を食べている時だった。

「そろそろ、一緒に暮らしたいけど、どうかな」

そう言ったトモさんがどこか申し訳なさそうなのは、一緒に暮らすという選択肢の中に、私の今の生活を変えないこと…つまり、日本で暮らすことを入れられないからだと思う。

自分のレストランを持つトモさんがパリを離れられないことは当たり前だし、となれば私がフランスに引っ越すということになり、そのために必要なビザのことを考えると、結婚という形をとる方が良いことも分かっている。

トモさんと付き合い始めたのは西麻布に引っ越してから約3か月後の1月末。その間に私がパリを訪れたのはそのゴールデンウィークを含めて2回だけれど、パリはステキな街だと思う。

フランス人はあえて英語を話さない…?という都市伝説みたいな噂に怯えていたけれど、十分英語は通じるし(フランス語アクセントの英語をうまく聞き取れるかは別として)、街が日本みたいにクリーンじゃないにしても、その不便さも悪くはないと思えた。

それになにより、私もトモさんと一緒にいたい。心からそう思っているはずなのに、一昨日、付き合い始めて最大ともいえるケンカをしてしまったのだ。

ここ数日、トモさんには厄日が続いていたらしい。

秋の新メニューで取り扱うはずだった食材が思うように手に入らず、そのために多数の予約キャンセルが出たり、厨房スタッフのいざこざを仲裁したり。そんな疲労困憊の中電話をくれたのだけれど。

「こんな時、宝が側にいてくれたらなぁって思うよ。…マンションの更新、どうするか決めた?」

更新の期限まであと2か月程。ただの質問だとは思ったものの、トモさんの口調にいつもにはない棘が混じり、ビデオ通話越しのその表情には苛立ちが見えた気がした。

「…まだ…迷ってる、ごめん」

そう伝えると、トモさんの語気がまた少し荒くなった。



「宝がじっくり考えたい性格なのはわかってるけど…せめてなんでそんなに悩んでるのか教えて欲しい。パリに引っ越したくないなら、はっきりそう言ってもらえた方が楽になるんだけど」

「…引っ越したくないっていうわけじゃ…」

「じゃあ何?」

「…仕事を辞めて無職になったら…私はただトモさんの家にお世話になるだけで何もできずに甘えっぱなしになってしまう。そう考えると、やっぱりそんなに簡単には…」

「オレ、宝に何かしてもらいたいとか思ってない。ただ側にいたいし、いて欲しいだけ。今宝はまだ、次のトライを決めてないんでしょ?だったらそれを見つける間くらい、オレに甘えてくれてもいいと思うけど」

― …次のトライを決めていない。

確かに私は次の目標を見失っていた。去年の7月、通訳室…コミュニケーション室の試験に落ちた時には、悔しくて悔しくて、受かった人が心の底からうらやましく、妬ましくさえ思ったのに。

「通訳になりたいのなら、そういう会社に転職するってことも考えてみたら?嫉妬の感情をエネルギーにして進めばいいんだよ」

トモさんや大輝くんもそんなアドバイスをくれたけれど、私はまるで燃え尽きてしまったかのように、次の挑戦をする気が起こらずにいた。

通訳の勉強が楽しくて、新しい世界を知れた喜びに満ちていたはずの気持ちが消えてしまっていたのだ。

― 情けない…。

一度の失敗くらいで立ち止まってしまった、足が動かなくなった自分が。そんな私に…上司のクレアは優しかった。

「試験は残念だったけど、タカラの英語がブラッシュアップされたこと…会社にとってはラッキーだったわ」

お茶目な笑顔でそう言ってくれて、今まではクレアが担当していた本国とのやりとりを任せてもらえたり、後輩の教育係を担当するようになったりと英語を使う仕事が増えた。

会社でのキャリアップは通訳だけじゃないわよ、というクレアの期待も嬉しくて、評価も受けたことで、やりがいは増え充実している。それなのに。

時々浮上してくる小さなモヤモヤ。そのモヤモヤの原因がなんなのか…自分でもわからない、そんな日々を続けてしまっていた。

トモさんはそんな私のモヤモヤも含めて…全てを知った上でパリに誘ってくれているのだとわかってはいたけれど。

「…トモさんみたいに、直感とか即決で、どんどんトライを決められる人ばっかりじゃないんだよ?…それにやっぱり、何もしなくていいなんて…ただ甘えるだけなんて私にはできない。

今の仕事を手放すことも正直怖いし、こんな気持ちのままパリに行ってもきっとトモさんに迷惑をかけるだけ。…うまくいかないよ、きっと」

こみ上げてきた勢いのまま、つい口にしてしまった。しばらくの沈黙のあと…トモさんは反論もなく溜息をついて、今日はもう話すのやめようとビデオ通話を終わらせた。

付き合い始めてから何度か小さなケンカはあったけれど、お休み、も、愛してる、も交わさずに切れた電話は初めてだった。

Sneetに着いたのは21時過ぎだった。

「あ、宝ちゃんだ。今日は1人~?」

いつもは制服姿のともみちゃんが、私服でカウンターに座っているということは今日はバイトは休みでお客さんなのだろう。1人だと伝えると、カウンターの中にいた店長にともみちゃんの並び、間に椅子を1つ挟んだ席を勧められた。

ともみちゃんが飲んでいたジントニックを私も注文すると、店長が笑顔で頷いてくれる。私たちの他には1組しかお客さんがおらず、ああ今日は月曜日だったと改めて思い出す。

この街に引っ越してきて以来、いろんな店で沢山のお酒を教えてもらったし、愛さんに紹介してもらった店に1人で飲みに行くことに挑戦したりもした。

でも私はこの店、Sneetの店長が作ってくれるジントニックが一番好きで特別に感じる。

Sneetのジントニックが特別なのは、店長が宝ちゃんの反応を見ながら、使うジンを変えたり配合を細かく調整したりして、宝ちゃんだけのジントニックとして出してくれているからなんだよと教えてくれたのは愛さんだ。

私の前で黙々と氷を削る店長が私の視線に気がついて、小さくニコリと笑ってくれた。口数がそう多くはない彼のことで知っているのは、京本さんという名前と35歳という年齢、そしてこの店ができた時から”いる”ということ。

確かこの店ができてから20年くらい…と聞いていたから、となると京本さんは15歳くらいの時から…?という計算になる。

未成年がなぜ…?というそのあたりの事情は、愛さんや雄大さんにとってもミステリーで、あえて詮索することはしていないらしい。

ジントニックを受け取りともみちゃんとグラスを合わせながら、そういえば客同士としてともみちゃんと話すのは初めてだなと思った。

「どうしたの?」

「…どうして?」

「宝ちゃんが1人で来るときは、大概、思い悩んでるときでしょ」

確かにその通りだ。今夜は、一昨日以来連絡のないトモさんのこと、そしてそのトモさんに連絡したくても何と切りだせばよいかわからずにいる…そんな自分の意気地なし加減に悶々としたまま眠るのが嫌でここにきた。でも。

私がSneetに1人で来ることはそんなに多くないはずだし、その時も悩みがあるなどと話したことはない。

ともみちゃんは他のお客さんを接客していることも多くて、私の様子など見ていなくても当然なのに、人の機微を読むことに長けた観察力がある人なのだと改めて感心してしまう。

「…ちょっと…話してもいいかな」

ともみちゃんの意見が聞いてみたい。そう思ってお願いをしてみた私にともみちゃんは、いいけど、私女友達いないから素敵な受け答えは期待しないでね、と笑った。



女友達がいない。そう、たぶん、店長がともみちゃんの真横ではなく、1つ間を開けた席を私に勧めたのもそれが理由のはずだ。

ともみちゃんは、女同士でつるむのがキライだと“女友達は作らない主義”を公言していて、いつもは私や愛さんともお客さんとバイト…という会話の域を出ないし、距離を保ってその関係を崩さない。

もちろん店の外で会ったこともないから、そのプライベートは謎に包まれているのだけれど、そんなともみちゃんだから、客観的で的確なアドバイスをくれるかもしれないと思ったのだ。

私は、試験に落ちてから燃え尽きてしまっていること。仕事は充実しているのに、モヤモヤが消えないこと。トモさんにフランスに来ないかと誘われていているけれど決断できていない…というような状況を、1つ1つ説明した。

「トモさんしか頼る人がいなくなった時に、自分が彼に依存してしまわないかとか、それで関係が壊れるのも怖いというか…そういうのも、あるのかも」

これまでトモさんには説明できなかった感情まで言語化できたのは、ともみちゃんが私の話を遮ることなく聞いてくれる優しい人だからだろうな…と感謝しながら話し終えた。すると。

「あーやっぱり私、宝ちゃんのそういうところ、めちゃくちゃムカつくな」

実は、ともみちゃんにムカつくと言われたのはこれが初めてじゃなくて、私は苦笑いする。その正直さに好意を感じているせいか、ともみちゃんの言葉に傷ついたり、腹が立ったりしないのが不思議だった。

「そういうところって、どういうところかな?」

ごめん、教えてくださいと伝えた私に、そんな風に素直に質問してくるところも苦手だよ、とともみちゃんは大きなため息をついた。

「ちょっと、本気で言っていい?」

ともみちゃんの大きな黒目がちな可愛らしい瞳が鋭い光を放って、少し怖くなったけれど、私はお願いしますと言った。

「日々漠然と生きてるのになんとなくうまくいって。自分のラッキーさに気がついてないくせに、悩んでます、みたいな雰囲気だすところ。しかもその悩みの本質が何なのかも気がついていないところ」

ニコッと笑われて私は呆気にとられる。返事を失っている間もその言葉は続いた。

「周りに守られて大事にされてフワフワ生きてさ。がむしゃらに努力したこともないのに燃え尽きたとか、やってもいないのに怖いとか笑えるんですけど。欲しくて欲しくて仕方ないものって宝ちゃん今までの人生でないんじゃないの?夢とか目標とか持ったことあるわけ?」

鋭すぎるその言葉たちには、流石に少し反論したくなった。

「…目標を持ったこと、あるよ」

「へえ。何?」

「…だから最近だと通訳の試験とか…落ちた時本当に悔しかったし…」

「でも、落ちたらもういいんでしょ」

「…え?」

「一度ダメだったくらいで、ビビって立ち止まって逃げて終わらせられたなら、それは本当に欲しいものとは言えないよ。そんなに簡単に諦められたものを夢とか目標とか呼ばないで欲しいんですけど」

「…諦めた…わけじゃ…ないよ、落ちただけで…」

「諦めてるじゃん。だって次のトライはしないわけでしょ?」

― …誰もがそんなに強くいられるわけじゃない…!

トモさんにも思ったことを、ともみちゃんにも伝えようとしたけど、うまく言葉にならない私にともみちゃんは心底呆れたような顔をして、言い過ぎだぞ、という店長の制止を睨んで続けた。

「なりふり構わず必死にしがみついてもいないくせに、簡単に諦めてないとか言わないで。そういう甘ったるい生き方って、ほんっとにムカつくから。

私はね、ずっとアイドルとして成功したかったの。そのために全てを捨てて努力したし、可能性があるならってなんだってやったよ。

でも…絶対負けないって強い気持ちで続けても続けてもうまくいかなくて…ああ、いっそ辞めたら楽になれるのかなってふと思ったら、涙が止まらなくなった。

それで気がついたの。ああやっぱり私はアイドルを辞めるは絶対に嫌なんじゃん、悔しいんじゃん、って。いつか…夢を叶えた自分に会いたいんだ、って。でも…」

その時だった。



「ともみ、そこまでにしときな」

「…光江さん」

ともみちゃんの視線を追って入口の方を振り返ると、いつのまにか…というべきか、光江さんがそこにいた。今日も相変わらずの存在感で目の覚めるようなマリンブルーのロングドレスだ。

「黙って聞いてりゃ…ともみ、アンタのトラウマを人に押し付けるんじゃないよ。人それぞれのタイミングで諦めて何が悪い。がむしゃらとか努力とか全部、アンタが好きでやったんでしょうが。それに…酔っぱらって話すようなことじゃない」

ともみに水を、と言った光江さんと店長とのやりとりで、私はともみちゃんが既に結構な量のお酒を飲んでいたのだと知った。

出された水に手を付けることなく、ともみちゃんの顔がゆがむ。ああ、もう仕方ないねえ、と光江さんが近づきともみちゃんの肩を抱いた瞬間、ともみちゃんが光江さんの体に顔を伏せ、その肩が震え出した。

声なき涙に体を揺らすともみちゃんを、しばらく黙って支えていた光江さんが、アンタ、今日は飲み過ぎ、もう帰りなさいと促すと、ともみちゃんは素直に立ち上がった。

このまま1人で帰らせるのは心配だからと、光江さんは店長にともみちゃんを送っていくように頼んだ。

ちょうど、私たち以外では唯一のお客さんだった男性2人が、会計を終わらせ帰るところだった。そのタイミングで、今日はもう閉めちゃおうと、光江さんはともみちゃんと店長を送り出してから扉にクローズの看板をかけた。

「…じゃあ、私もお会計を」

私がそう言うと、ちょっと待ったと光江さんに引き止められた。

「宝ちゃんはもう少しだけアタシに付き合ってくれない?このババアと…初めてのさし飲みっていうのはどうだい?」

― 光江さんと…さし飲み…!?

その響きは、怖くもあったけれど魅惑的なお誘いでもある。それに、こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。

私は覚悟を決めて言った。

「じゃあ…私から光江さんに一杯…ご馳走させてもらえませんか?」

政治家も頼るという西麻布の女帝。そんな光江さんに、一杯ご馳走させてくださいと持ちかけることは、相談にのって欲しいとお願いするということ。気が向かなければあっさりと断られるけれど、女帝が酒を選んでくれたら相談を受けてくれるということになる、らしい。

それは確か雄大さんから聞いた話だ。

私からのその提案は、思いもよらないものだったのか…カウンターの中で自分のお酒を作ろうとしていた光江さんが、目を丸くするとはこのことというような表情でほんの一瞬フリーズし、すぐに大きな声で笑いだした。

「…いいけど。めちゃくちゃ高くつくかもしれないよ」

光江さんの“高くつく”がどれくらいなのか怖くなったけれど私は思い切って、はいと頷いた。

宝ちゃんは意外と肝が据わってるよねぇ、と、光江さんは、じゃあちょっと待っててと、どこかに消えた。そして戻ってきたその手には、一本のおそらくシャンパン…のボトルがあった。

「これをグラスで頂くことにする。安心して、一本奢れとはいわないから。宝ちゃんも一緒に飲もう。私の一杯をご馳走してくれれば…あ、宝ちゃんも飲むから二杯分になっちゃうか」

そう笑ってシャンパングラスを取り出した光江さんの、ボトルを開けてグラスに注ぐ…その流れるような所作が美しくて見とれてしまった。

「このシャンパンの名前は、vie amère et douce。日本語にすると、苦くて甘い人生、ってことになる。

苦みが甘さを引き立てる、苦い経験を経てこそ人生は甘く美しくなるって意味をこめて名付けられたんだってさ。

このシャンパンを作ったフランス人は、古い知り合いだけど、変わった人でね、と光江さんは懐かしそうに笑った。

2人でカウンターに並び、乾杯をして口を付けたそのシャンパンからは苦みは感じられず、バターのような甘い味がした。

「改めて、さっきはうちのバイトが…ともみが悪かったね。あの子は驚く程に人生にストイックでさ。ああ見えて思考がマッチョな体育会系で自分にも他人にも厳しいから」

それがあの子の魅力でもあるから許してもらえると嬉しいけど…と光江さんの瞳に優しい光がともり、西麻布の女帝と恐れられるゴットマザーが、ともみちゃんをいかに大切に思っているかがわかる気がした。

「さて、じゃあ、この一杯のお代を…宝ちゃんの相談とやらを聞こうか」

光江さんに促されたものの、いざ相談するとなると…ともみちゃんに指摘されたことが全てではないかという気がして恥ずかしくなってきた。それでも。

私が甘いのも、情けないのも分かっているんですけど…と前置きしてから、私はともみちゃんに話したことを光江さんにも伝えた。

「失敗して以来、次の目標が見えない。日々は充実しているのにモヤモヤが消えない。そんな状況で、パリに行く覚悟ができていない、ってことか」

一通り話し終わると、光江さんにそうまとめられ、私は頷いた。

「まあ確かに、甘っちょろくてかわいい悩みで羨ましいよとは感じるけれども。宝ちゃん、人類に平等に与えられている…唯一のものって、なんだと思う?」

― 時間…かな。

さっき、西麻布の交差点の信号待ちで思ったこと。全ての人に時間は平等に流れていく。それを口にしようとした私の答えを待たずに、光江さんは続けた。

「時間、だね?時間だけは…まあ寿命の違いはあったとしても、1日が24時間でそれを生きる権利は、全人類に平等に与えられてる。

そしてその24時間を…その積み重ねの毎日をどう使ったかが、それぞれの人生の個性になり、充実度になり、幸か不幸かってことにもつながっていくし、平等にあるけれど限りあるのも時間だよね」

でも、人には、惰性という習性もあるわけだ、と光江さんは言った。

「時間を有効に使うことで人生は好転するとわかってはいても、それを邪魔するのが、我々人間の惰性という習性だ。

惰性は、努力の苦労から逃げる手助けをしたり、波風立てずになんとなく過ごすことをよしとしたり…まあ生ぬるい快適さを我々に提供する厄介なもの、ってことはわかるだろ?」

すごくわかります、と私が頷くと、宝ちゃんの場合は、その“惰性”が、変化を起こすこと阻んでいる気がする、と言われて、私はハッとした。

「……そうなのかもしれません」

燃え尽きた、動けない。もしまた失敗したら…?新しい環境や変化を起こすことが怖くて私は凪で静かな日常を、惰性で送ってしまっているのかもしれない。確かにそう思った。

「でも、その惰性を乗り越えるための、変わるための起爆剤になる感情が、今まさに宝ちゃんに起こってるんだと私は思うけどね。その感情が…モヤモヤだよ」

「…モヤモヤ、が…?」



「そう。宝ちゃんが今モヤモヤしてるんだったら、それはつまり、うずうずしてるってことなんだよ。モヤモヤとうずうずはセットだからね」

「…モヤモヤとうずうずがセット…?」

「モヤモヤは疑問、うずうずは衝動っていう、疑問と衝動のセットだね。疑問が生まれて、動くことにつながる。モヤモヤっていうのは、このままでいいの?っていう自分の心の声からの問いかけなんだよ。

宝ちゃんには今、自覚できてないとしても、確実にこのままでいいのかなって疑問が芽生えてる。つまり惰性の日々を変えるための衝動が沸き上がってきてるってことで、おめでたい話じゃないか。

あとはそのモヤモヤをうずうずに進化させて動き出せばいい。モヤモヤは自分の世界を変えるチャンスが来てるってこと。歓迎すべき感情なんだよ」

そうなのだろうか。疑問が全て消えたわけではない。それでも、光江さんの言葉は不思議と胸にしみこんできた。

「…でも…そのモヤモヤが変わりたいと言うサインだったとしても…動きだすといっても、どの方向に行けばいいのか…」

目標とかが何も見えていないんですと伝えると、30歳に近づいてるのに何甘えたこと言っているんだい、と笑われた。

「白馬の王子様が迎えに来てくれるのを待ってる…っていう少女趣味の発想が通用しないのは、なにも恋愛だけじゃない。人生のあらゆることが同じさ。運命を変えるカード…人生を変えてくれる人や出来事なんてただ待ってるだけじゃ現れるわけはないんだから。

探しに行くの。探しあてるんだよ。よく自分探しとか言うけど、本当の自分探しは外に出て行くことじゃない。自分の中に潜ること。それが自分を知ることだよ」

「…自分を、知る…」

「今、宝ちゃんが持ってるもの、思い描くものの中で好きなことは何?はっきりとこれだ!と思えなくてもいい。最初は、こっちのほうがなんとなく好きだなくらいのゆるい感覚でその方向に進み始めてみるだけでもいいんだ。

もちろん人生の全てを好きな事だけして生きてますって言う人の方が少ない。大体の人がどこかで折り合いをつけてやってる。それはそれで偉い事だと思うけど、アタシ自身は…好きじゃないことに人生を割く時間を、ほんの少しでも少なくする方がいいと思うけどね」

「確かに仕事もプライベートも…好きなことだけで生きていけたら…それはとても素敵なことで…でもそれは理想で…」

現実はそう甘くないのでは。私がそう言うと、光江さんが鼻で笑った。

「理想を掲げなくてどうするんだい?最初から無理だと言ってしまえば、その道はあっさりと消える。でも理想を持って、少しでもその理想の方向に近づこうとするのなら、細々とでも曲がりくねってでも…その道は続いて、いつか目的地にたどり着けるかもしれない」

「…でも目的地がどこかわからないのに、…踏み出せるでしょうか?」

「だから、心に聞くの。自分の“好き”は一体どこにあるのか、ってね。自分の本心に真っ向から向き合うってなかなか怖いから、大概の人は大人になると、そんなのは夢物語だとか、我慢が当たり前だと自分に言い聞かせて、自分の冒険心を塗り潰してしまう。

まあ確かに冒険は怖いし、成功の確率も高くはないだろうけど。宝ちゃん、アンタにはこの街があるじゃないか」

「…え?」

「目的地がわからなくなって、迷って失敗して、つらくなったら、いつでもここに戻ってくればいいだろ。そしてまたやり直せばいいだけさ。人生は無駄だらけの方が美しいとアタシは信じてる」

「…つまり私は、この街を離れたほうがいいと…?」

「そうは言ってない。でも何を選んでも、どんな場所に行っても、アンタには戻ってくる場所もあるし、人もいる。諦めが悪くて強欲で、でも愛すべき仲間たちがね」

光江さんは、シャンパンをグッと口にした。…苦くて甘い人生と名付けられたシャンパンを。そしてにやりと笑ってから続けた。

「ここは、何度でも失敗をやり直せる街。…何度でも青春をやり直せる街だからね」



2年後・西麻布/Sneet



「…宝ちゃん、ロンドンですっごく楽しそうだよね」

愛は、宝から送られてきた写真を、雄大と大輝に見せながら小さく溜息をついた。

「愛さん、いつまでも娘を旅立させた母親みたいな反応するのやめなよ」

大輝が笑い、雄大も同調する。宝はつい1か月前に、翻訳を専門的に学ぶため、ロンドンにある大学院への入学を目指し、ロンドンに住まいを移した。まずは半年間、試験を受けるための予備校のような学校に通い、その後入試にトライするのだという。

羽田まで見送りにいった時に愛が大号泣し、宝は困った顔で旅立ち、その後雄大と大輝は愛を慰めるのに苦労したのだった。

「週末はパリで、伊東さんとお試し同居中なんだろ。そのうちあっさりと入籍しました~って連絡くるかもな」

雄大の言葉に、え~そうかな、と反応したのは大輝だった。

「宝ちゃん、何事も時間かけちゃう超慎重派だからな~。そこがいい所なんだけど、一歩進んだら2歩下がるみたいな子じゃん。ロンドン行くまでもまずは日本でしっかり勉強してからって感じだったし、結婚はまだまだじゃない?

でも、伊東さん、超根気よく待ってたよね。オレ、それは尊敬する。宝ちゃんと結婚っていうのも…許せちゃうかも」

「…ちょっと大輝。忠告しとくけど、あんた宝ちゃんが人妻になったら…また許されぬ恋ゆえに燃えちゃうとかやめてよ?」

えーなにそれ、ちょっと楽しそうとふざけた大輝は、脚本家としてつい先日深夜ドラマでデビューを果たし、雄大と愛にも結婚の話が出てはじめていたりして。それぞれの人生も少しずつ進み始めているのだ。

「で?大輝さん、次はいつ私とデートしてくれるんですか?」

この店の正社員となったともみは、“女帝の後を継ぐもの”と自ら名乗り、徐々にこの街の有名人となり始めている。そして大輝へのアプローチは相変わらずで、何度かデートにはこぎつけたらしい。

「んーしばらく無理かなぁ」

そう笑って、ともみをかわした大輝に、未だ京子との付き合いがあることを愛も雄大も知っているけれど、ともみとも大人の関係になっているのかいないのか…はまだなんとなく聞けていないという状況で。

街も人も少しずつ変わってゆくもの。その変化は必然で拒むことはできない。でもその変化が…願わくば、少しでも良いものでありますように。そのためにこの西麻布という街を守り続ける女帝の物語は…また、別のお話で。

Fin.



▶前回:「合格した人が妬ましい…」28歳女性に初めて芽生えた“欲”に、男友達がかけた意外なひと言とは

▶1話目はこちら:27歳の総合職女子。武蔵小金井から、港区西麻布に引っ越した理由とは…