ピーク時は年収1,000万円を稼いでいた60歳の武井惣一さん。現在は契約社員として用務員の仕事をこなしながら、「残業のつもりで」ドラッグストアでも働いているそうです。自己破産を経験し、心が折れそうになりながらも日々を懸命に生きる武井さんが語ってくれた「貧困のリアル」とは。ルポライター増田明利氏の著書『お金がありません 17人のリアル貧困生活』(彩図社)よりみていきます。

非正規で用務員として働く60歳男性の意外な過去

<登場人物>

武井惣一(60歳)

出身地:埼玉県三郷市/現住所:東京都墨田区/最終学歴:高校卒

職業:不動産・設備管理会社勤務/雇用形態:非正規(契約社員)

収入:副業と合わせて26~27万円/住居形態:賃貸アパート

家賃:6万8,000円/家族構成:妻、長男と長女は社会人で独立

支持政党:自民党/最近の大きな出費:アパートの更新料と火災保険料(合計で約8万6,000円)

最大で10連休の人もいるというゴールデンウィーク最後の夜。遅い夕飯を食べながらテレビを観ているとUターンラッシュの映像が流れてきた。

「わたしには年末年始もゴールデンウィークも関係ありませんよ、もう何年も。時給や日給で働いている身では、休みはありがた迷惑です」

現在の仕事は不動産・設備管理会社の契約社員。この1年間は都内城東地区にある公設の複合施設に配置されている。

「図書館、生活者センター、体育館、集会室などが入っていましてね。部分的に休みの日があるけど建物自体は年末年始以外は開いているんです。なのでゴールデンウィークであろうがお盆休みであろうが交代で出勤するわけなんです」

担当業務は通用門での受付、駐車場の管理、共用部分の簡単な清掃。生活者センターや集会室で催しがあるときは会場の設営と撤去作業も行う。

勤務体系は4勤1休のローテーション制。なのでゴールデンウィークと言われる4月29日から5月5日までの間で公休日だったのは5月2日だけだった。

「この仕事に就く前は経営者だったんですよ。小さな印刷会社を営んでいました。合資会社だから実質的には個人商店みたいなものだけど」

創業したのは88年。翌89年に法人改組し、JR上野駅の近くに工房を構えていた。

「パンフレット、リーフレット、ポスター、折り込みチラシ、会社案内、帳票類などのデザインと印刷を手がけていました。年商では3,000万円を超えた年もあったんですよ」

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順調だった仕事が激減→自己破産に陥ったワケ

それなりに順調な商いを続けていたのだが、08年のリーマンショックで一気に需要が落ち込んだ。追い討ちを掛けるように東日本大震災も発生。受注、利益とも低水準をウロウロする状態に陥る。

「企業の広告宣伝費削減、ペーパーレス化が大きかった。紙媒体よりネットで広告を打つというのが伸びてきたんだ。これが痛かった」

意外なところでは少子化の影響も。

「印刷屋と少子化の間に何の関係があるんだと思うでしょうけど、うちは公立の小中学校の文集作成や卒業アルバムの制作も委託されていたんです。ところが子どもの数が減っていくものだから数は落ちる一方でした」

学校の統廃合もあったので作成部数は90年代半ば頃のほぼ半分。売上げで数百万円の減少という落ち込みようだった。

「一部外注に出していたものを内製化する。印刷用紙やインクの仕入れは価格の安い業者に変更するなどして立て直しを図ったのですが、焼け石に水でした。同業他社との競争も激しくなって立ち行かなくなってしまった」

18年3月の決算は300万円近い赤字を計上。過去の設備投資に伴う借入金返済も重荷に。受注は更に減少、品物を納めた会社が倒産して代金の未収が数件発生。とうとう資金繰りがつかなくなり事業継続を断念し、自己破産を申請したという顛末だ。

「負債は1,200万円近かった。だけど会社の金庫は空っぽ。当座預金の残高は数万円。わたし個人の資産もほとんど吐き出していたからどうにもならなかった」

自己破産と債務免責はあっけないほど簡単に認められ、どうにか借金からは解放された。

「生きていかなきゃならないからクヨクヨしてる場合じゃないでしょ。息子も娘も学校を卒業していた。妻と2人で暮らす収入があればいいと思って職探しを始めたんです。働けば社会との接点も持てるから」

ハローワークの紹介だったが、面接はあっさりしたものだった。

「詳しい職務経歴書なんて求められなかった。ホワイトカラー的な仕事ならともかく、契約の用務員採用なんてこんなものですよ」