東京に点在する、いくつものバー。
そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。
どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。
カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。
▶前回:「妻とはもう無理」結婚わずか3ヶ月で、35歳会計士が離婚を切り出したワケ
Vol.12 <グラスホッパー> 桂沙耶香(31)の場合
食卓の上でほかほかと湯気を立てていた豚の角煮は、22時を回った今、すっかり冷えて固くなってしまった。
「はぁ…」
飯田橋のマンションの明るいダイニングで、料理が冷めていくのをじっと見つめていた沙耶香は、深いため息をつく。
どうせこうなる、とわかっていても、手の込んだ料理が誰にも食べられずに冷めていくのを見ているのは気分が悪かった。
「はいはい、旦那様は今日も帰って来ませんよ…っと」
気を紛らわせるために軽い口調でひとりごちながら、角煮の皿にラップをかける。
隅々まで手入れの行き届いたキッチンにその皿を持っていくと、ゆっくりと冷蔵庫を開ける。
その冷蔵庫の中には───筑前煮やアジの南蛮漬け、カニクリームコロッケなどの手間暇をかけた料理の数々が、所狭しと並んでいた。
これが、沙耶香の毎日だ。
ひとりぼっちの、孤独な結婚生活。公認会計士をしている夫の龍一とは、3年間の結婚生活のうちのほとんどを別々に過ごしている。
それでも、結婚して専業主婦になった以上、家庭的でいることは義務のようなもの。
そう信じて疑わない沙耶香は、いつフラッと帰ってくるともしれない龍一のために、欠かさずこうして夕飯を作ってはLINEで献立を送り続けているのだった。
「いいもん。いつも通り、私の明日のお昼にするから」
そんな独り言を言いながら沙耶香は、作り過ぎてしまった角煮を冷蔵庫にしまおうとする。
けれど、作り置きの料理で埋め尽くされた冷蔵庫には、これ以上大皿を入れる余地はなかった。
「よいしょ…っと。あれ…入らない…っ」
ひしめき合うお皿やタッパーたち。そのなかでひときわ大きなスペースを取っているのは、まだ一口も手をつけられていないホールケーキだ。
昨日1日かけて作った、手作りのケーキ。
龍一好みのシンプルないちごのショートケーキで、上にはきちんと『HAPPY BIRTHDAY!』というチョコレートのデコレーションまで施してある。
それなのに───誕生日の昨日。龍一は、当たり前のように帰ってこなかった。
帰宅どころか、送ったケーキの写真も、いつものメッセージと変わらず既読スルーされている始末だ。
「生ケーキはさすがに、これ以上はとっておけない…よね」
賞味期限的な意味でも、角煮を入れる場所を作る意味でも、せっかく作ったケーキは廃棄すべきだろう。
そう思った沙耶香は、冷蔵庫から両手で慎重にケーキを取り出す。
けれど、その途端。とてつもない悲しみと苛立ちが、突然沙耶香を襲ったのだった。
頼まれてもいないのに、沙耶香が勝手に作っているのだ。ただの料理であれば、沙耶香が自分で食べればいい。
けれど、これは龍一のバースデーケーキだ。沙耶香が先に手をつけてしまっては台無しだと思い、昨日から手をつけないままの状態でしまっておいた。
そのケーキが結局、口をつけられないまま廃棄になる。綺麗にデコレーションして、美味しく食べてもらおうと念入りに作り込まれたのに、ゴミ箱行きになる。
その様子が沙耶香には、まるで自分自身を見ているように感じ、無性に辛くなってしまったのだった。
「もうっ!なんなのよっっっ!」
気がつけば沙耶香は、手に持っていたケーキをシンクに力いっぱいぶちまけていた。
ケーキだけではない。先週作った筑前煮も、4日前に作ったアジの南蛮漬けも、一昨日作ったカニクリームコロッケも…さっき作った豚の角煮も、冷蔵庫から次々に取り出してはシンクに捨てていく。
どれもこれも、歯科衛生士をしながら婚活をしていた独身時代に、料理教室に通って覚えた自慢のメニューだ。
「どうしてっ!私、こんなつもりじゃなかったのに…!」
すっかり冷蔵庫の中身が空っぽになると、沙耶香はまるで、自分自身も空っぽになってしまったような気がした。
肩で息をしながら沙耶香は、歯を食いしばり絶望的な虚しさに耐える。
そして、3年前。結婚たった3ヶ月目で龍一から「離婚しよう」と言われた、あの夜のことを思い返すのだった。
結婚して3ヶ月目に訪れた悲劇
「ゲェ〜、よくそんなもの食べられるね。俺はムリ」
いつもの夕食のあと、龍一と一緒に食べようといくつかのフレーバーを買っていたアイスクリーム。
その中から、沙耶香が一番好きなチョコミントを選んだ時に龍一が言ったのが、その侮蔑の言葉だった。
「え?なんでそんなこと言うの?美味しいよ」
「いやいや、チョコミントなんて歯磨き粉の味じゃん。沙耶香、いくら歯科衛生士だったからってキャラ作らなくていいから笑。今後はチョコミントはやめて、違うの食べな?」
「…別に、キャラ作ってるわけじゃないし」
ムスッとする沙耶香に、龍一は意外そうな表情を浮かべる。
「え?なに?怒ったの?」
「…怒ってないよ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって」
「いや、怒ってるよ。なに沙耶香、アイスの味くらいでさぁ」
「怒ってないってば!しつこいなあ!!」
思ったよりも大きな声が出てしまったことに、沙耶香自身もハッとする。
けれど、言われた側の龍一は、沙耶香よりももっと顔を引きつらせ…しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いたのだった。
「なんかさ…俺たち、勢いで結婚したみたいな部分あったけど…合わなくない?」
「え…?」
その言葉に、沙耶香は思わずギクっとしてしまう。と同時に、強い怒りも覚えた。
龍一とは、合わない。
その言葉は沙耶香にとって図星であり、かつ、自分の全てを否定する言葉だったから。
幼い頃からずっと専業主婦になりたかった沙耶香は、とにかく“結婚”を人生のゴールにしていた。
歯科衛生士になったのも、自分磨きをしながら、歯科医師と出会ったり、食事会などに呼ばれる機会が多そうだから。
現に、龍一との出会いは食事会だった。
公認会計士として監査法人に勤める龍一の第一印象は、「専業主婦になるには最高の物件」。そう感じた沙耶香は、自分の方から龍一に猛アタックし、結婚に至った。
龍一への気持ちは───第一印象から、変わっていない。深い愛情や燃え上がるような想いは、未だに持てていない。
だけど、そうは言っても、龍一に対して“いい妻”をやれているはずだ。
龍一が言うようにメイクも薄くしたし、龍一が言うように友達と夜遊びにも行かない。
龍一が言うように外食はせず、龍一が言うように毎日好みの手料理を作っている。
結婚してからずっと、コップの磨き方から洗濯物の畳み方一つまで、ニコニコと龍一の言う通りに合わせてきたのだ。
― それなのに…合わない、って?
たしかに、チョコミントのことくらい、笑って受け流せばよかったのかもしれない。けれど、小さな不満を溜め込み続けた結果、不覚にも爆発してしまった。
「……」
何も言えずにいる沙耶香に向かって、龍一は重たい口を開く。
「沙耶香…。今ならまだ傷は浅い。お互いのために、離婚しようよ」
その言葉にさらに傷ついた沙耶香は、立て続けに龍一の前で、半狂乱になって取り乱す姿を見せてしまったのだった。
自由への扉
散乱した料理を片付け終わった沙耶香は、気がつくと家を出て、夜の街を彷徨っていた。
足取りは、鉛を引きずるように重い。けれど、これ以上龍一のために設えた空間にこもっていたら、頭がおかしくなりそうだったのだ。
飯田橋の低層マンションを出て黙々と近所を歩くうちに、秋の夜風で頭が冷えていく。
「はあ…。我慢して我慢して我慢して…最後に爆発するクセ、やめなきゃダメだよね」
そう反省できるようになった頃。沙耶香が俯いていた顔を上げると、いつのまにか辺りは楽しげな人々が行き交い賑わっていた。
― 私、いつのまにかこんなところまで来ちゃってたんだ。
沙耶香が立っていたのは、神楽坂だ。様々な飲食店がひしめき合い、お客はみな楽しげにグラスを傾けている。
「いけない、帰らなきゃ」
こんなところをもしも龍一に見られたら、女性が夜に1人でうろつくなんて…と、眉をひそめるだろう。ましてや、お酒を飲みに来ているなんて思われたら…。
と、そこまで考えて、沙耶香はふと思った。
お酒を飲みに来ているなら、なんだというのだろう?どうせ龍一は、今夜も帰ってこないに決まっている。
そう考えると無性に腹が立ってきた沙耶香は、思い立って目の前にあった店の扉を開ける。
その店がバーだとわかったのは、一歩足を踏み入れてからのことだった。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?」
「いえ、ひとり…です」
「でしたら、カウンターへどうぞ」
ぽっちゃりとした、人の良さそうな雰囲気の30代のバーテンダーに案内された沙耶香は、磨き上げられたカウンター席へとつく。
― わぁ…。なんかこういうの、すごく久しぶりでドキドキする…!
神楽坂らしいシックな内装のバーで、当然ながら、女性ひとり客である沙耶香を何の違和感もなく受け入れてくれたのが心地よかった。
けれど、こんな場所に来るのは、独身の時以来だ。自分が一体どんなものが飲みたいのか、一体何が好きだったのか。それを一生懸命考えてみるが、どうしても思い出すことができない。
「あの…私、何頼んでいいかわからなくて。どちらかというと、甘いのが好きなんですけど…」
仕方なくおずおずとそう言うと、沙耶香のほかにもうひとりだけカウンターについている女性──とても若く見える、20代の女性客が言った。
「お姉さん、甘いの好きなんですか?だったら私の飲んでるコレ、オススメですっ」
「ちょっと、由依ちゃん…!」
バーテンダーに「由依ちゃん」と呼ばれた女の子が掲げたのは、綺麗なミント色のカクテルだ。
「わあ、綺麗な色」
思わず沙耶香がそう漏らすと、バーテンダーが振り向く。
「こちら、お試しになりますか?」
沙耶香は高鳴る胸を押さえながら、コクリとうなずいた。
カウンターの向こうで、シェイカーにカクテルの材料が一つ一つ注がれていく。
美しいグリーンが映えるミントリキュール。香り高いカカオリキュール。とろりとした真っ白な生クリーム。
それらが氷と一緒にシェイクされている間も、由依ちゃんは終始、バーテンダーに向かってピイピイと可愛らしい雛鳥のようにマシンガントークを続けている。
「それでね、マスター。リョウさんってば私がどれだけ好きって言っても、ぜんぜん振り向いてくれなくて。
やっぱ脈ナシなのかな?それともほかに好きな人いるのかな?どう思う?…」
カクテルを待っているあいだ手持ち無沙汰の沙耶香は、思わず話に耳を傾ける。
― 恋してるんだ。かわいいな…。
そんな由依ちゃんの話を聞き流しながら、バーテンダーは出来上がったカクテルを冷えたグラスに注ぐ。
そして、その美しいミント色の液体が注がれたカクテルグラスを差し出して言った。
「お待たせいたしました。グラスホッパーです」
小さく会釈をして、沙耶香はカクテルグラスのステムを摘む。そして、とろりとしたそのカクテルに口をつけ…驚きに目を見開いた。
「これ…チョコミントだ…!」
小さく呟いた沙耶香の言葉は、隣の由依ちゃんのお喋りにかき消された。
「…あーどうしよう、私、リョウさんに好きな人いたら悲しくて立ち直れないかもー!ねえマスター、リョウさんに振り向いてもらう作戦、一緒に考えてよぉ」
チョコミント味のカクテルをゆっくりと味わいながら、沙耶香はしみじみと思う。
― そうか。普通は自分の大切な人に、好きな人がいたら…辛いんだ。
龍一との結婚生活が破綻していることは、沙耶香にもはっきりわかっていた。
けれど、ゆっくり結婚生活を振り返ってみると──。
龍一から「すごく好きな人ができた」と告白された時は、全く辛くなかったのだ。
辛くなかったから、取り乱すこともなく、“良き妻”としてさめざめと泣いて見せることができた。
龍一にほかに好きな人がいようが、もう別れたのなら、理想の結婚生活をやり直すことができると思った。
だけど、チョコミントを禁じられたあの日。「合わない」と言われたあの日のことだけは、忘れることができない。
龍一と一緒にいる間。思い描く結婚生活を成し遂げるために、自分がどれだけがんじがらめになっているか…。
大好きなチョコミントアイスの味がするグラスホッパーを飲むことで、沙耶香は唐突に、自分の不自由さに気がついたのだった。
― 私、チョコミントが好きだった。それに、派手なメイクも、夜遊びも、外食も…。それから多分、恋も好きだった。
全てを思い出した沙耶香は、ふと、体が軽くなるのを感じた。もう一口グラスホッパーを口にし、ゆっくりと目線を上げると、バーテンダーに尋ねた。
突飛な行動を止める人は、隣にいない。一つ気になっていたことを、確かめたかったのだ。
「あの…お話し中すみません。グラスホッパーって、どういう意味でしたっけ?」
「あ、グラスホッパーって言うのは…」
と、そこまでバーテンダーが言った時、由依ちゃんが口を挟んだ。
「あ、私知ってる!グラスホッパーって、バッタです!ほら、ピョンピョン跳ねる、あのバッタ」
「もう、由依ちゃん…。はい、そうです。緑色がバッタみたいな色だからって、由来になったみたいですよ」
呆れた表情のバーテンダーと得意げな由依ちゃんを前に、沙耶香はもう一度じっとグラスを見つめて、尋ねる。
「ピョンピョン跳ねるバッタかぁ。なんか、いいですね。自由な感じで。
…あの、私また、このグラスホッパー飲みに来てもいいですか?3年も無駄にしちゃったけど、今から自由になっても遅くないですよね?」
バーテンダーは一瞬キョトンとしたあと、優しい微笑みを浮かべた。
「もちろ…」と、そこまで言いかけたその時。またしても由依ちゃんが、誰よりも素早く、弾むような笑顔で答えるのだった。
「いつでも、何杯でも、好きなもの飲めばいいじゃないですか。私たち、いつだって、自由なんだから!」
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