恋は、突然やってくるもの。
一歩踏み出せば、あとは流れに身を任せるだけ。
しかし、最初の一歩がうまくいかず、ジレンマを抱える場合も…。
前進を妨げる要因と向き合い、乗り越えたとき、恋の扉は開かれる。
これは、あるラブストーリーの始まりの物語。
▶前回:机に置き手紙を発見した25歳女。封筒を開くと、1通の便箋と“固い物体”が出てきて…
入会の決め手は…【前編】
「いや、森永。お前がワイン好きだったなんて知らなかったよ」
大手IT企業に勤める智樹は、職場の先輩・佐々木に連れられ、会員制のワインバーに向かって歩いていた。
「はい。最近ハマり始めて。それに僕、さっきみたいな騒がしい場所が苦手で…」
先ほどまで、職場の同僚たち7~8人で、有楽町にあるビアホールを訪れていた。
智樹はビールが嫌いなわけではないが、大きな声を出して会話を交わしながら酒を飲む環境を好まない。
30代も目前となり、落ちついた場所で静かに味わいたいという思いが強くなっている。
智樹は同僚たちの輪に入り切れず、それに気づいてくれた佐々木に声をかけられ、店を抜け出してきた。
背の高い佐々木の背中を追いかけるようにして、あとをついていく。
「まあ、俺も昔はビールばっかり飲んでたけどな…。ああ、ここだよ」
10分ほど歩いたところにあるオフィスビルのような建物の脇に、細い通路があった。
知らなければ素通りしてしまいそうな通路の先は、地下へと続く階段になっている。
地下へ降りて奥へと進むと、重厚感のある木製の扉が道を塞いでいた。
扉を開けて店内に入ると、目の前にカウンターテーブルがあり、10脚ほどの椅子が並ぶ。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに女性が立ち、「ボトルお持ちしますね」と脇に捌けていった。
一連の流れから、佐々木が頻繁に通っていることがわかる。
店内には小さくクラシックが流れており、ワインの香りがほのかに漂う。
大人の空間といった雰囲気に、やや気後れした。
「こちら、ソムリエの梨穂さんだ」
佐々木から紹介を受け、カウンターに戻ってきた女性と顔を合わせた智樹は、思わず息をのんだ。
― な、なんてキレイな人なんだ…。
横幅の広い大きな瞳に見据えられ、体が強張った。
なんとか声を絞り出し、挨拶を交わす。
胸の高鳴りがおさまらない。
久しぶりに味わう感覚だった。
梨穂がグラスにワインを注いでいく。
ボトルを扱うしなやかな手つき。美しい所作には妖艶さも感じられ、思わず見入ってしまう。
「頂きます」
智樹はグラスを手に取り、口もとに運ぶ。
シャルドネの爽やかな酸味が口に広がり、喉の奥へとスッと流れていく。
「美味しいです。フルーティーで飲みやすいですね」
ワインに詳しくないため拙いコメントしか言えず、智樹はもどかしい。
しかし梨穂は、ニコッと微笑んでくれた。
― 笑顔も素敵だな。同じ歳くらいかな…。
さり気なく梨穂の容姿を観察してしまう。
「森永、なんか食べるか?ここ、フードメニューもうまいんだよ」
「ええっと…。佐々木さんにお任せします」
「そうか。う~ん、最近食欲なくってさぁ」
腹のあたりを手でさすりながら顔をしかめる佐々木に、梨穂が心配そうに声をかけた。
「佐々木さん。ちゃんと食べないと、ますます瘦せ細っちゃいますよ」
佐々木は高身長でスタイルがいいが、色白の痩身で健康的には見えない。
体型の話題になってしまったことに、智樹はキュッと口をつぐむと同時に、腹の底にも力を入れる。
佐々木の体型に相反して、智樹は近頃ポッチャリ体型。年齢のせいか、腹まわりに脂肪がつきやすくもなっていた。
以前からダイエットは念頭にあったが、始めるキッカケがなく放置してきた。
― こんなことなら…もっと早くダイエットを始めておくんだった…。
梨穂を前に、実行しなかったことを後悔する。
「…それにしても、素敵なお店ですね」
智樹は話題を逸らし、店内を見渡した。
黒を基調としたインテリアで統一された店内は、間接照明の柔らかい光により、モダンな雰囲気のなかに温かみを感じさせる。
「だろう?そうだ。お前も会員になればいい」
「僕も、なれるんですか?」
「ああ、紹介制だからな。俺の紹介ということで」
「なるほど。まあ、会社からも近いし、通いやすいかもしれないですね…」
智樹は戸惑う素振りを見せはしたが、心のなかではガッツポーズを決めていた。
― やった!これでまた会いに来られる!
それとなく梨穂の顔を覗いた。
◆
2日後。
智樹は、桜田門の前に立っていた。
皇居外周を走るランナーたちが、スタート地点として利用する場所だ。
智樹はさっそくダイエットの敢行を決意し、ランニングを始めることにしたのだ。
ほかのランナー同様、ランニングウェアを着込み、専用のシューズを履いてアップをおこなう。
― それにしても、まだこんなに暑いのかぁ…。
9月も半ばとなり、時刻も19時を過ぎたというのに、あたりには熱気が漂う。
仕事終わりにランニング施設へ向かい、着替えを終えて歩いてきたので、すでにだいぶ汗をかいていた。
かなり過酷なダイエット法ではあるが、智樹がランニングを選んだのは同僚からのアドバイスがあったからだ。
職場に、山岸という男がいる。
普段からスポーツジムに通ってトレーニングに励み、食事面においても節制を怠らない。
周囲からは『ミスターストイック』なる異名で呼ばれ、フィジークの大会に出場して入賞経験もあった。
「ダイエットを始めようと思うんだけど、一番すぐ痩せられる方法って何かな?」
智樹が尋ねると、山岸は「そうだな。一番か…」と腕組みをして少し考えた。
「それなら、一番やりたくないと思うことをすることだな」
山岸の答えを聞いて、“走ること”が真っ先に頭に浮かんだ。しかも長距離。
それを見透かすかのように、山岸が言った。
「今、思い浮かんだことに取り組むんだ」
こうして智樹は、ランニングに励むことを決意。丸の内にあるオフィスから近いランニングコースである皇居を選んだ。
準備運動を終え、スタート地点に立つ。
すでに息も乱れ、心が折れそうにもなる。
しかし、ふと、梨穂の顔が脳裏をよぎる。
― よし、頑張るぞ。痩せて会いに行くんだ!
明確な目標を持つ者の意志は強い。智樹は、弱気な感情を振り払い、前へと一歩踏み出した。
ランニング終了後。智樹はワインバーを訪れていた。
本当は、ダイエットの効果が多少表れてから訪問するつもりだった。しかし、ランニング施設を出ると自然と足が向いてしまったのだ。
疲れ果てた心と体が、無意識に癒やしを求めているのだと智樹は思った。
「大丈夫ですか?ずいぶんお疲れのようですけど…」
智樹の異変に気づいた梨穂が、体調を気遣う。
「はい。実は、さっき皇居の周りをランニングしてきて…」
「そうなんですか?まだ暑かったでしょう」
「おかげでヘトヘトです」
智樹はグラスを持ち、よく冷えたシャルドネを口に含む。
喉を通り抜け、乾いた体に染み渡っていくような感覚が心地良い。
「でも、素敵ですよね。そうやって体を鍛えている人って」
「え?本当ですか?」
思いがけない賞賛を受け、智樹はすぐさま反応を示す。
「トレーニングって自分と向き合うことだと思うので。覚悟のいることだから、取り組んでいる人はカッコいいです」
梨穂の言葉が胸の奥にスッと入り込む。
シャルドネを追いかけるように全身に染み渡り、心が揺さぶられた。
今にも店を飛び出し、皇居をもう1周走りたいほどに気分が高揚する。
― よし!これから、走り終わったあとは毎回ここに寄ろう。
智樹は、新たなルーティンを決め、モチベーションを高めた。
◆
週3回程度のペースでランニングを続け、2週間が経った。
智樹のダイエットは順調に進み、体重はすでに3キロ以上も落ちていた。
体が軽くなったせいか、体調もすこぶるいい。
仕事への意欲も湧き、心身ともに充実。歯車が上手く噛み合い、すべてがいい方向に進んでいる実感があった。
― よし、今日も走りに行くぞ。
時間は18時半になろうとしていた。智樹はデスクの上を片付けて、帰り支度をととのえる。
立ち上がって職場をあとにしようとしたところで、近づいてくる足音に気づき、振り返った。
「森永さん」
声をかけてきたのは、2つ年下の後輩・伊藤京子だった。
「これからみんなでビアガーデンでも行こうって話してたんですけど、一緒にどうですか?」
智樹は一瞬迷ったが、すでに走る気マンマン。そのあとの冷えたワインも楽しみで仕方ない。
「ああ、ごめん。このあとちょっと予定があって…」
返事をすると、京子が口を尖らせて頬を膨らませた。
「森永さん、前回も途中でどっか行っちゃったじゃないですか。いつの間にか居なくなってて寂しかったです」
「え、ええ…」
「でも、予定があるなら仕方ないですね。また今度一緒に飲みに行きましょう!」
そう言い残して離れていく京子の姿を、智樹は呆気に取られつつ、目で追った。
― 寂しかった…って言ってたよな?
会話を振り返り、言葉の真意に考えを巡らせる。
― どういう意味だ?一緒に飲みたかったってことだろうけど…。
踵を返し、ゆっくりと歩みを進め、オフィスを出てエレベーターへと向かう。
あまり受けたことのない類の言葉が智樹の頭の中を駆け巡り、心にざわめきをもたらす。
― まさか、俺を好きってこと?いや、いやいや、それは考えすぎか…。
先走った思考を抱く自分を戒めながらも、智樹はにわかに浮き足立つのだった。
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