「とんち教室」「話の泉」にかじりつく
山藤さんは、『自分史ときどき昭和史』の中で成功の理由を自己分析している。
ひとつは「器用」。「描く前に、こういうタッチ描こうとすると、ほぼそれに近い絵が描ける」。絵のスタイルも「切り絵」「インクスポット絵」など10種類ほど持っている。そこに「言葉」が加わる。「落語」「漫才」「俳句」「和歌」「川柳」「春歌」「都々逸」「民謡」「とんち」「芝居の台詞」「ごろ合わせ」「駄洒落」などにはほとんどすべて対応できる知識と技量がある。実際、落語、俳句、川柳、駄じゃれなどに関する著作もある。デザイン科出身なので「レタリング」も得意だ。ありとあらゆるスタイルの文字が書ける。
加えて一番の才能は「耳」だという。子供のころの唯一の娯楽がラジオだった世代。「二十の扉」「とんち教室」「話の泉」などの人気番組にかじりついた。そこで鍛えた「耳」が、面白い話や、すばらしい言葉を聞き逃さない。
自身の性格も幸いした。熱烈なタイガーズ・ファンという一点を除いては、過度に怒ったり、嫉妬したりしない。クールな観察眼と、対象との距離感が必要な風刺画の世界に適していた。幼少時からの「夢想癖」もプラスになった。
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「似顔絵塾」で革命起こす
山藤さんの最大の業績とは何か。『私の死亡記事』(文春文庫)の中で、こう記している。
「山藤の功績で最も風化しないのが、『似顔絵塾』だろう。アマチュアの中の異才を多数発掘し、それによって似顔絵の概念を大きく変えた」
81年から『週刊朝日』誌上で開講した「山藤章二の似顔絵塾」。素人の似顔絵投稿から山藤塾長が合格作品を選ぶ。腕達者の中からプロになった人も。全国各地でしばしば塾生たちの作品展も開かれている。
「この塾は日本の似顔絵史に革命を起こした。似顔絵を『たかが』から、『されど』に変えた・・・ハガキ一枚の似顔絵に、これほどの前衛性、独創性、批判性、滑稽性があろうとは、だれも気付いてはいなかったはずだ」
かつては「俺の絵」を探し、創り上げることに悶々としていた山藤さん。「ブラック・アングル」で「俺の絵」のスタイルを確立し、「似顔絵塾」を通して多くの弟子や後継者を生み出す。気がつくと「俺の絵」はいつのまにか「俺」を超えて、新しい流派、文化ジャンルになっていた。