◆これまでのあらすじ
大手IT企業勤務の森永智樹(29歳)は、先輩に紹介された会員制ワインバーでソムリエの梨穂と出会い、好意を抱く。しかし体型に自信がなく、ダイエットを開始。皇居ラン後にバーに寄るルーティンでみるみる効果が表れ、後輩・京子から好意をほのめかされ…。
▶前回:会社帰りに立ち寄った有楽町のバーで思わぬ出会いが。 大手IT勤務・29歳男はつい…
入会の決め手は…【後編】
「ずいぶん体が絞られてきましたね」
カウンター越しに立つ梨穂が、智樹の変化を指摘した。
横幅の広い大きな目を細めてニコッと微笑む様子は、どこか嬉しそうにも見える。
「今日もランニングをされてきたんですか?」
「は、はい。そうなんです」
ランニング後のルーティンとなったワインバーを訪れた智樹は、梨穂に気に留めてもらっていることを実感し、喜びを噛みしめる。
ダイエット目的で皇居外周を走り始めて、1ヶ月。体重は6キロも落ち、体力もついてきていた。
気温が落ち着いてきたため、最近は疲労感に打ちのめされることもなく、気分は爽やかだ。
だが一方で、あるジレンマを抱えていた。
智樹は、グラスを手に取り、ワインを口に含む。以前なら、運動後の乾いた体に冷えたワインが染み渡る感覚に浸っていたが…。
― いまいち美味しく感じないんだよな…。
体質が改善されたせいか、ワインを飲みたいという欲求が薄れてきていた。アルコールを摂取すると、体に悪いものを取り込んでいるかのような罪悪感に駆られる。
だから、梨穂に会いたいという気持ちはあるのに、すんなりと店に足が向かないのだ。
でも、梨穂と会うためには、ここに来るしかない。
感情と相反する行動を取らなければいけない現状に、もどかしさをおぼえていた。
「あの…。梨穂さん」
智樹は、勇気を振り絞って声をかける。が、次の言葉が喉に詰まって出てこない。
「よかったら連絡先を交換しませんか?」…このひと言が言えないのだ。イメージはできているのだが、いざ本人を前にするとためらいが生じる。
― ダイエットの成果が出て、コンプレックスも解消されてきたのに…。
そのときふと、職場の後輩・伊藤京子の存在が脳裏をよぎった。
同僚との飲み会を途中で抜けてしまったことに関して、彼女が言った言葉を思い出す。
「寂しかった」
好意を含んでいるとも取れるセリフに、また心が揺れ動く。
智樹は、ほかの客と会話を交わす梨穂にさりげなく視線を向けた。
― 梨穂さんとは、縁がないのかな…。
梨穂を遠い存在に感じ、つい弱気になってしまうのだった。
◆
智樹は冷えたジョッキを手に持つと、ビールを勢いよく口のなかに流し込んだ。
― ああ、やっぱりこっちのほうが美味い…!
約1ヶ月ぶりのビール。喉越しの良さも、あとに残る爽快感も、ワインのそれをゆうに上回る。これこそカラダが求めていた刺激だと、久しぶりの味を堪能した。
「うん!美味い!!」
隣にいる同僚の山岸も、腹の底から感嘆の声をあげていた。
『ミスターストイック』の異名を持つ山岸だが、今日はチートデイということで、トレーニングは休み。そんな山岸を含めた同僚たちとともに、有楽町にあるビアホールを訪れているのだ。
騒々しい空間が苦手な智樹だが、ビールの爽快な飲み口とマッチしているように感じ、居心地は悪くない。
「なあ、森永!美味いなぁ!」
普段からテンションの高い山岸がさらに感情を高ぶらせ、智樹の肩に手をのせて同意を求めてくる。
「ん?んん?おおっ?」
山岸は、何か違和感をおぼえたのか、智樹の肩から腕にかけてのラインをまさぐった。
「なんだよ。くすぐったいよ」
「森永。お前、だいぶ体が引き締まってきたな」
「ああ。ランニングを続けてるし、最近は少し筋トレも始めたんだ」
「おおっ!それは素晴らしい!どうだ、体を鍛えるのは楽しいだろう?」
「まあね。やればやっただけ成果として表れるからな」
肉体に変化が感じられると、努力が報われたような気分になり、ますます意欲も湧いてくる。
「なあ、森永。お前、うちのジムに入会したらどうだ?そして、一緒にフィジークの大会に出ようじゃないか」
「いや、そこまでは…」
「お前は向いていると思うぞ」
「そうかな…」
― 興味ないわけではないけど…。
今にも増してストイックな生活をするようになれば、ますますワインバーから足が遠のき、梨穂に会う機会も減ってしまう。
梨穂との関係が深まる望みは、まだ断たれたわけではない。
わずかでも可能性が残っている限り、自らそれを放棄してしまうことはできず、明言はできなかった。
「来週末に大会があるから見に来るといい。あの熱気を感じたら、きっとやりたくなるはずだ!」
山岸は自信満々に言い放つと、残りのビールを一気に飲み干した。
「隣、いいですか?」
山岸が席を離れると、後輩の京子が足早に歩み寄り、腰をおろした。
「森永さん。やっと一緒に飲めましたね」
「ああ、そうだね」
京子がジョッキのふちに口をつけ、ビールをグビッと飲み込んだ。
ほんのりと頬が赤らみ、いつもよりも少し目尻が下がっている。
京子は丸顔で幼く見える顔つきをしており、いわゆる小動物のような可愛らしさがあった。
梨穂の洗練された美しさとは異なるが、好感の持てる顔立ちをしていた。
「さっき、山岸さんと話しているのが聞こえたんですけど、森永さんは体を鍛えてるんですか?」
「うん、ダイエットを兼ねてね」
「そうだったんだ。急に痩せちゃったと思って、ちょっと心配してたんですよ」
智樹は笑って健康ぶりをアピールした。
「あんまり痩せないで欲しいなぁ…」
智樹の耳に届くか届かないかぐらいの声で、京子が呟いた。
「私、どっちかっていうとポッチャリした体型の男性のほうが好きなんですよねぇ。見ていて安心するというか、癒やされるというか…」
ひとり言のようではあるが、明らかに智樹に向けての発言である。
以前であれば、内心浮かれていたに違いないが、今はいたって冷静に受け止めていた。努力に対して正当な評価を与えてもらっていないような寂しさを感じる。
― なんだろう。なんか違うんだよな…。
手の届きそうな距離にある京子に心移りしそうにもなったが、早計だったと思い直す。
しばらく会話を続けたが、智樹は、どうもうまく噛み合っていないような歯がゆさをおぼえた。
◆
智樹は、山岸が出場するというフィジークの大会にやってきた。
会場となっている総合体育館は、ほぼ満員の状態。ステージ上にいる選手に向けて、客席から声援が送られる。
「キレてるよ!キレまくってるよー!!」
「肩にメロンのってんのかーい!!」
やや癖の強い掛け声が多くあがり、まるで観客同士も競い合っているかのようで、熱気に満ち溢れている。
― すげえ盛り上がってんなぁ…。
智樹は圧倒されながらも、ステージ上の選手たちに視線を向ける。
現在、180cm以下級の出場者がパフォーマンスを披露しており、横一列に並ぶ選手のなかに山岸の姿があった。
鍛え上げられた見事な肉体。スポットライトを浴びることで筋肉の印影が際立ち、芸術作品のような美しさを見せる。
山岸は真剣な表情でポーズをとっては、時おり白い歯を見せて笑顔を決め、自信に満ちた視線を客席に放つ。
智樹も周囲に負けじと声援を送ろうとするのだが、上手いフレーズが浮かばず、気恥ずかしさもあってためらってしまう。
― もし俺があの場所に立つことになったら、どうなるんだろう…。
ふと、智樹は自分が大会に出場しているシーンを思い描いた。
披露した自身の肉体に湧き上がる観客、飛び交う声援を想像すると胸が高鳴るところはある。
しかし、未知なる領域に足を踏み入れる決断への、最後のひと押しとなるものがなかった。
― 次は女性の部か…。
山岸を含めた男性選手たちが舞台袖へと捌けていき、次のプログラムが会場内にアナウンスされた。
「続いては、女子フィジーク160cm以下級に出場の選手の入場です」
音楽とともに女性選手がステージ上に並び始めると、再び客席から大きな歓声があがった。
男性選手の放つ威圧感とはひと味違う、美しさを重視したような華やかさを感じる。
― ん、んん…!?
入場する選手たちを眺めていると、ひとりの女性に目が留まった。
見覚えのある女性だ。
智樹は前のめりになり、何度も目を瞬かせた。
― 嘘だろう…。梨穂さん…!?
ソムリエエプロンをまとった清楚な印象の梨穂が、まるで装いを変え、ビキニ姿で健康的な肌を晒しながら誇らしげにポーズを決めていた。
◆
大会が終了し、智樹はロビーで出場者が出てくるのを待っていた。
― いやあ、驚いたなぁ。まさか梨穂さんが出場しているなんて…。
ビキニ姿でポーズを決める梨穂の姿が、目に焼きついている。アドレナリンが全身を駆け巡るような興奮が、今もなお冷めない。
躊躇していた掛け声も、いつの間にか大きく張り上げてしまっていた。そのせいで喉の奥が痛む。
― そうか。だから梨穂さんは、俺の体の変化にすぐに気づいたんだ。
ダイエットを始めた智樹に敏感な反応を示したのは、自らも肉体への意識が高かったからなのだと納得がいく。
そのとき、出場者専用のゲートから、着替えを終えた山岸が出てきた。
「山岸!お疲れ!」
智樹が声をかけると、満面の笑みを浮かべて近づいてきた。
「おお、森永!応援ありがとう!どうだ、楽しめたか?盛り上がってただろう?」
「ああ、すごかったよ」
「そうだろう。興味を持ったんじゃないか?」
「うん、まあ…」
会話をしているとすぐに梨穂が姿を現した。
声をかけようか迷っていると、脇を通り過ぎようとしたところで山岸が先に呼び止めた。
「梨穂さん。お疲れさま!」
「ええっ!梨穂さんと知り合いなの?」
すると、振り返った梨穂もまた、智樹の存在に気づいた。
「あれ…?森永…さん?」
梨穂も驚いた様子を見せる。
「知り合いもなにも。梨穂さんとは同じジムでトレーニングしているんだ」
「そうだったの!?」
そこで智樹は、自分が梨穂の勤めているワインバーの客であること、山岸は会社の同僚であることをそれぞれに説明する。
「意外と、近くに共通の知り合いがいたんですね」
梨穂がいつものように大きな目を細めて、にっこりと笑った。
「俺、こいつをジムに入会させようと思ってるんです」
山岸がそう言うと、梨穂が表情をパッと明るくした。
「そうなんですね!」
「あ、いや。まだ決めたわけでは…」
「そうだ。このあと、ジムのみんなで打ち上げに行くんですけど、森永さんも一緒にどうですか?ビアガーデンなんですけど」
「梨穂さん、ビール飲まれるんですか?」
「実は、飲むのはワインよりもビールのほうが好きなんです。大会が終わって、やっと飲めるから楽しみで」
「そうなんですか…」
「どうですか?一緒に」
梨穂の言葉を聞いて、足に絡みついていた重たい鎖が外れたような気分になった。
一気に視界がクリアになり、進むべき道が拓けたようにも感じられる。
「はい!行きます!」
梨穂の誘いに、智樹は声高らかに応える。
そしてジムへの入会についても、智樹はすでに、晴れやかな気持ちで決断していた。
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