東京に点在する、いくつものバー。
そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。
どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。
カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。
▶前回:「3ヶ月で離婚なんて…」“好条件の男”と結婚してすぐに、別れを切り出された28歳妻は…
Vol.13 <アイオープナー> 黒井由依(22)の場合
「じゃあ、私そろそろ帰るね。また明日」
橙色に染まっていく窓からの景色を見ながら、由依は帰り支度を整えて言った。
「あ…。黒井さん、お疲れさま」「気をつけて」と返すのは、おとなしくて人の良さそうな男の子たちばかりだ。
由依の所属する東京大学工学部のゼミには、由依のほかに女の子はひとりもいない。
長い手足。小さな顔。形の良い唇。少しグレーがかった瞳…。
ミス東大に推薦されるほどの美貌を持つ由依は、大勢の女の子たちの中でも目を引く方だ。ましてや男性比率の高い本郷キャンパスの中ではまさに、“高嶺の花”といった存在なのだった。
― 10月に入った途端、夕暮れの訪れが一気に早くなったような気がする。
キャンパスを出て、暮れゆく不忍池の隣を小走りしながら由依はそう思う。
それは、由依にとっては嬉しいことだった。
目指しているのは、上野駅前から少し路地裏に入ったところにあるバーだ。店がオープンするのは17時半と1年を通じて変わりはないものの、早く日が沈めば、早く店に行けるような気がするから。
20分ほど歩いて、薄汚れた木製ドアの前に辿り着く。
由依はようやく立ち止まって少しだけ息を整えると、勢いよくドアを押し開けて叫んだ。
「リョウさん!」
“リョウさん”というのは、このバーのマスターだ。
リョウの目の前にあるカウンター席に座るなり由依は愛おしそうな声を出す。
「ねぇ、リョウさん。好き!私と付き合ってください!」
彼は髭を蓄えた口元を“への字”に曲げながら、呆れたような表情を浮かべ、由依をにらむ。
「あのねぇ、由依ちゃん…。毎度毎度、ほかのお客様いたらどうするの」
「だから、迷惑かけないように、こうして誰も他にお客さんのいない開店すぐの時間に来てるでしょ。ね、えらい?えらい?」
「…まあ、早く座んなさい。注文何にする?」
「リョウさんをください♡」
「はい。ラムコークでいいね」
もう何度、こんなやりとりをしただろう。このバーに通い始めてから由依は、ほとんど毎週リョウに熱烈な愛情を伝え続けている。
コーラを注ぐリョウの姿を見つめながら、由依は切なさとときめきが入り交じったため息をつく。
筋肉質な手足。しかめっぱなしの顔。清潔に整えた口髭。つぶらで優しい瞳…。その全てが、由依の胸をときめきで締め付ける。
年は42歳で、由依よりも20歳も年上だ。けれど、そんなことは全く気にならない。
半年ほど前、退屈なゼミの飲み会を抜け出しフラッとひとりで入ったこのバーで、由依の体を稲妻のような衝撃が駆け抜けた。
その時こそが、由依がリョウに恋をした瞬間であり、初めて恋を知った瞬間でもあった。
差し出されたラムコークを飲みながら、由依はリョウに話しかける。
「美味しい!ねえ、リョウさん。そろそろ私と付き合ってくれる気になった?」
「由依ちゃん。何度も言ってるけどね、なにも俺みたいなオジサン選ばなくても。美人で頭もいいんだから、同年代でいくらでもイケメンがいるでしょ」
「だってぇ、同年代の男の子より、リョウさんの方がいいんだもん。ねねね、今飲んでるこのラムコークのカクテル言葉は?」
「“もっと貪欲にいこう”だよ」
「へえ。ところでリョウさんは、ブータンに行ったことある?」
「あるよ。随分前にね。タクツァン僧院っていう断崖絶壁にある寺院に馬で登ったよ」
「じゃあさ、あの文学賞の佳作読んだ?」
「読んだ。まさか古今和歌集をあんなふうに使ってくるとはね。正岡子規もびっくりだよ。ラストはレイモンド・チャンドラーの“長いお別れ”に影響受けている感じがしたよね」
「ほら、そういうところが好き。どんな話だって、誰よりもよく知ってるんだもん。こんな人、東大にだっていないよ」
「ただの年の功ってやつだよ。あとは、バーテンダーどんな話にでもついていかなきゃいけないってだけ。東大のお嬢さんとは世界が違うよ──」
リョウの言葉に、由依は身構える。
― ああ、また言われる。“あの言葉”を…。
由依とリョウのやりとりは、いつもこうだ。大きな愛を伝え続ける由依に対し、彼は全く由依に対して興味を示さない。
初めて店を訪れた時、一見するととてもインテリジェントには見えないリョウが、ありとあらゆる知識に精通しているのを目の当たりにした由依は、自分でも信じられないほど深い恋に落ちた。
けれど、どれだけ熱烈に口説いても、最後にリョウが発する言葉は決まっている。
「由依ちゃんは、物珍しさを好きと勘違いしているだけだよ。こんなに年上の男も、由依ちゃんのことを口説かない男も、今まで居なかっただろうしね。
20個も年下の女子大生なんて、俺から見たらヒヨコより小さいタマゴみたいなもんだよ…」
これまでに何度も言われた言葉を投げかけられた途端、由依は憤慨する。
「もう!リョウさんっていつもそうやって有耶無耶にする。今は令和だよ?こんな自由な時代だよ?恋愛に年の差なんて関係ないじゃん」
「はいはい、タマゴちゃん。こういう話はもう終わり。ここはバーなんだから、くだらないこと言ってないで黙って酒飲んでなさい」
リョウは、どんな話題にも乗ってくれる。
お酒のことはもちろん、世界を巡る旅のこと、文学のこと、アートや雑学のことも、どんな話題だってリョウのお手のものだ。
リョウが42歳だということも、昔は日比谷にある五ツ星ホテルのバーテンダーとして活躍していたことも、何だって、聞けば包み隠さず教えてくれた。
けれど、二つだけリョウが教えてくれないことがあった。
一つは、どうして一流ホテルのバーテンダーだったリョウが、縁もゆかりもない上野でカジュアルすぎる小さなバーを開くことになったのか。
もう一つは、リョウがこれまでにどんな恋をしてきて、今どんな恋をしているのか──。
― リョウさん、やっぱり好きな人がいるのかな…。そうだったら私、耐えられないよ…。
由依は自分でも、どうしてこんなにリョウのことが好きなのかわからない。けれど、日に日に増していくこの気持ちが、ただの物珍しさなんかではないことははっきりとわかる。
「で、タマゴちゃん、次は何飲むの?ラムコークおかわりか、あとはカルアミルクとか?」
いつもの由依が好きそうなカクテルの名前をあげるリョウを、まっすぐ見つめる。
― 私が本気だってことを、リョウさんにわかってほしい。子ども扱いしないで、きちんと自分と向き合ってほしい。
そう強く願い続けている由依は、ここのところあちこち他のバーを訪れては、バーテンダーたちに恋の相談を持ちかけている。
そして今夜は、ついにその相談の結果を実行するべく、リョウの元を訪れたのだ。
由依は、ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、はっきりとリョウに向かって注文する。
「“アイオープナー”をお願いします。私だけじゃなくて、リョウさんの分も」
「…」
リョウが一瞬たじろいだのがわかる。
「…かしこまりました」
少しの沈黙の後、小さい声で返事をしたリョウさんは、次々とカウンターの上に材料を揃えていく。
ホワイトラム。アブサン。ヘーゼルナッツリキュール。オレンジキュラソー。砂糖。
そして最後に取り出したのは──、タマゴだった。
卵黄のみが取り出され、全ての材料がリョウの手の中で激しくシェイクされていく。
カクテルグラスに注がれた液体は夕方と同じ橙色だ。
ふたつのカクテルグラスを並べて、リョウが言った。
「お待たせいたしました。“アイオープナー”です」
「リョウさん、乾杯しよ」
「わかったよ。乾杯」
アイオープナーは、短時間で飲むべきショートカクテルだ。ぐい、とグラスを仰ぎ一気に味わう。
ラムの力強さと、アブサンの独特なアニスの風味。それらをオレンジキュラソーの甘味が和らげているが、度数は40度を超えている。
その目が覚めるような味わいを引き立てているのは、他でもない、タマゴだ。
強いアルコールが、由依の胸を一層熱くする。
飲み干したグラスをそっと置くと、由依はもう一度まっすぐにリョウに向き合った。
「リョウさん。その目をよーく開いて、見てよ。私のこと」
「…」
「リョウさんから見たら、私なんてタマゴかもしれない。けど、こんな強いカクテルにだって使えるじゃん。私、オトナだよ」
「いや、でも…。何でそんなに俺のこと」
「ね、教えて。このアイオープナーのカクテル言葉は?」
「“運命の出会い”……だったかな」
往生際の悪さを見せるリョウの目は、けれど、さっきまでの小さな子どもを嗜めるようなものとは、少しだけ違っているような気がした。
「そういうこと!好きになるのに、理由なんてないもん」
「……」
今はまだ、ふたりの関係は、橙色の夕暮れだ。由衣だけがただ、夕方になるとリョウのところへ走っていく。
だけどいつか、リョウと目覚まし時計の音を一緒に聞けたら“アイオープナー”の橙色は違って見えるだろうか?
そんなことを考えながら、由依は初めての強いカクテルに頬を赤らめる。
「ねえ、リョウさん。私、本当にリョウさんのこと大好きだよ…」
▶前回:「3ヶ月で離婚なんて…」“好条件の男”と結婚してすぐに、別れを切り出された28歳妻は…
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
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