ある日突然「そっくりさん」にスポットライトがあたる場合がある。記憶に新しいところではウエストランド井口にそっくりな地下アイドル兼ピン芸人や、ハリセンボン近藤春菜にそっくりな市議などがネットやテレビなどで大いに脚光を浴びた。「ドラえもんの声に激似だ」とウワサになったクレープ店の女性スタッフに至っては、大手食品メーカーのCMに起用されるほど一躍時の人となった。
印鑑職人の井ノ口清一さん(54)も、そっくりさんで注目された一人。「髭男爵の山田ルイ53世にそっくりな印鑑職人がいる」とSNSで話題となり、瓜二つだというご縁で、遂にコラボ商品を発売するまでになったのだ。
そして井ノ口さんがこれまで歩んできた道のりを伺うと、印鑑にまつわる栄華・没落・復興のすべてを経験した、まさに貴族と呼ぶにふさわしい生きざまだったのである。
◆足に障がいを持つ両親のために跡を継ぎたかった
京都の伏見にて「印鑑の西野オンライン工房」を運営する井ノ口さんは、京都の伝統工芸品「京印章」を受け継ぐ技術者だ。印影を手描きし、彫刻も手仕上げで完成させる、現代では数少なくなったハンドメイドの京印章制作士である。「すくい文字」と呼ぶ、起筆部や終筆部が跳ね上がるオリジナルな書体は「元気があって縁起がいい」と評判の声が高い。
創業は昭和20年。「西野」とは初代である祖父が修業した印房の名で、のれん分けで当地へやってきた。井ノ口さんは平成17年に先代である父が営む淀西野印房の3代目を承継し、業態を店舗販売からオンラインオーダー型に切り替えたのである。
「亡くなった両親はどちらも足が不自由な障がい者でした。そんな両親が苦労している姿を見て育ったので、いつかは自分が店を継いで楽をさせてあげたいと思っていたんです。私は一人っ子ですから、自分が継がないと歴史が途絶えますしね。とはいえ、承継は簡単ではありませんでした……」
◆祇園で遊ぶほど羽振りがよかった印鑑業界
幼い頃から絵が得意だった井ノ口さんは大阪芸術大学へ進学。学生時代にパチンコにハマってしまい、スッたぶんの元を取るべく、卒業後はパチンコメーカーに就職した。
「パチンコの本場である名古屋へ行き、電話帳で片っ端からメーカーを調べて、面接の約束を取り付けていったんです。そうして、のちにギンギラパラダイスや海物語シリーズで知られるようになった三洋物産に合格し、入社後は盤面のデザインをやっていました」
名古屋でパチンコデザイナーになった井ノ口さん。しかし、社会人になって5年が過ぎた頃から、京都に残した、足が不自由な両親を気がかりに感じるようになってきた。
「愛情をいっぱい注いで育ててくれた両親に恩返しをしたい気持ちがふつふつと芽生えてきました。外出が困難な両親にかわり、自分が営業にまわって注文を取れば、店を何倍にも大きくすることができるはずだと野望も抱いていたんです」
平成6年に退社し、京都へ戻った井ノ口さん。当時はまだ印鑑のデジタル化は進んでおらず、印鑑業界は羽振りがよかったという。
「組合の青年部の月例会へ行くと、打ち上げはいつも祇園の高級店なんです。『印鑑業界は潤っているな~』と感心しましたね。私はお金がなかったので、会合へ行くたびにおごってもらっていました」
◆月に1本も売れず宅配便のアルバイトを始める
そうして家業に入った井ノ口さん。「営業して新規の注文をとってくる」「店を大きくしてあげる」と両親に豪語するも、現実はうまくいかなかった。
「店の周辺が工場地帯なので、会社をまわれば印鑑の受注はいくらでもあると考えていたんです。甘かったですね。営業経験がなく、門前払いの連続でした。1本も売れない月もあったんです。印鑑の製造に他業種が参入し、安いゴム印が普及し始めた時代でもありました」
印鑑のデジタル化こそまだ進んではいなかったが、廉価なゴム印の製造で他業種や海外からの参入が増えていた。井ノ口さんはここで初めて印鑑業界の危機を肌で感じたという。そして井ノ口さんは、店を大きくするどころか、自分の人件費のせいで店が赤字になるジレンマを抱えるようになってしまった。
「両親を安心させたくて京都へ戻ってきたのに、反対に両親に迷惑をかけてしまう。それがつらくて、夜はクロネコヤマトの宅急便で働いて自分の給料ぶんを稼ぐ日々でした」
◆時代に先駆け制作したホームページが業界重鎮の逆鱗に触れる
自分には印鑑業界はむいていない。もう辞めよう。そう諦めかけていた矢先、「ホームページで注文を取る方法がある」と知る。
「まだパソコンのOSがWindows95だった時代です。インターネットを使えば印鑑の注文を請けられるかもしれない。そう思って、まだ初版の頃だったホームページ・ビルダーを使い、今では考えられないような質素なWebサイトを制作しました。すると、ここからオーダーの依頼が届くようになったのです」
起死回生の一打だった。のちに隆盛を誇るECサイト、オンラインショッピングサイトのムーブメントに先鞭をつけたのである。「やっとこれで両親の恩に報いることができる」。そう安心していたのもつかの間、新たなトラブルが巻き起こる。
「アナログ作業の伝統がある京都では当時、デジタルに対する忌避感や嫌悪感がありました。そして印鑑業界のとある大御所が、講演会で『西野の印鑑は機械彫りなのに手仕上げだと嘘をついている』と堂々とデマ発言をしたんです。お年寄りですから、インターネットやホームページという聴き馴れぬ横文字が気に喰わなかったのでしょう」
年長者だった重鎮にとって「インターネット」「ホームページ」というIT用語は、海外から京都を襲いにきた得体のしれない化け物のような感覚だったのだろう。また、そんな舶来語を使う印鑑工房が手仕事をしているはずがないと勝手なイメージと憶測で発言したと考えられる。しかし聴講していた人数は100名を超え、噂はすぐに広がった。
「デマが飛び交い、訴訟を起こすかというところまでいきました。しかし周囲から『あのお方に逆らわない方がいい』『敵に回すな』と止められたんです。さらに『新参者が偉そうにするな』『お前が詫びを入れろ』と、いやがらせのメールまでもが届くようになりました」
それはまさに印鑑業界の闇と呼べる圧力だった。
◆広告費がかさみ過呼吸やめまいが絶えなくなった
またしても、両親のためによかれと思ったことが裏目に出てしまった井ノ口さん。とはいえWebサイトによる受注は堅調かつ上り調子で、将来性を感じるには充分な結果が得られていた。「見返してやりたい!」とハートに火がついた井ノ口さんは、黎明期だったインターネットによる大手総合ショッピングモールに出店する。これにより、売り上げは爆発的にアップしたという。しかし……。
「初めての経験だったので当時は上手に運営する方法がわからなかったんです。そのため、売り上げは上昇したものの、言われるがままに注ぎ込んでいた広告費がそれを上回ってしまい、利益が出ず赤字になりました。加えて当時、父は肺気腫を患って引退を余儀なくされ、私が仕上げていたんです。彫っても彫っても赤字で、借金もしました。ノイローゼになり、めまいや過呼吸で苦しむようになりましたね。銀行の態度も冷たくなり、毎日がつらいだけでした」
正統派の高級印を手掛けていた井ノ口さんにとって、意に反する「お手頃価格の中級品」を要求されるのもキツかったという。そして、ネットショッピングの知識が身につくに従い、多額の広告費がかからぬ現在のショッピングモールへ移行。さらに自社のECサイトを充実させた。店名も「印鑑の西野オンライン工房」に改称。売り上げは年間1億円も減少したが、それでも利益率があがって黒字化し、借金も完済したという。
◆私服の山田ルイ53世が「自分にそっくり」だと気がつく
その後の道も、決して平坦ではなかった。平成23年に父、平成26年に母と、最愛の両親を亡くしている。河野太郎氏が押印廃止を推進した2020(令和2)年には売り上げが半減した。波乱万丈、緊張感がある日々が続く井ノ口さんだが、2023年のある日、心温まる出来事が起きる。
「何かのメディアで、山田ルイ53世さんの私服姿を見たんです。いつもの貴族のファッションではなく、ニューヨークヤンキースのキャップをかぶり、オーバーオールを着ておられた。その姿が、普段の私とそっくりだったんです」
画像を見せていただいたが、「山田ルイ53世本人?」と見まがうほどのドッペルゲンガーぶりである。そして井ノ口さんは、まるで返歌のようにシルクハットをかぶった自撮り画像をTwitter(現:X)へ投稿した。これが大いにバズり、山田ルイ53世本人の耳目にも届き、遂にはコラボ商品まで誕生したのである。
「うちの認知度は上がりましたね。売り上げも上がったかと言われれば、特に変化はなかったです(苦笑)。とはいえ、SNSへの可能性を感じました。若者と接する機会が増えて考え方も柔軟になりましたね。現在はXにほぼ毎日、水墨画をアップしたり、スペースで発言したり、ここから新たに何か面白いものが生みだせないかと模索しているところです」
近年はインバウンドも視野に入れ、竹や茶の木を軸とした京都みやげ感覚の印鑑や、遊び心溢れるデザインで朱肉なしで捺せる浸透印、亡くなったペットの足跡をハンコにするオーダーなど、さまざまなアイデアで電子印鑑に対抗している。
「60歳になったら印鑑でキッチンカーのようなことがしたいんです。キャンピングカーに印鑑が手仕上げできるシステムを積み込んで、お客さんの人生のエピソードを聴きながら日本中を旅する、そんな展開を夢見ているんですよ」
印鑑に携わって30周年だという井ノ口さん。「脱ハンコ」の風潮や職人の高齢化、海外製品による圧迫など苦境に立たされる印鑑業界。そのような状況のもと、彼は日々新しい商品に挑みながら生き残る道を探し続けている。その行為は、まさに復興運動、ルネッサンスそのものもではないか。
<取材・文・撮影/吉村智樹>
【吉村智樹】
京都在住。ライター兼放送作家。51歳からWebライターの仕事を始める。テレビ番組『LIFE 夢のカタチ』(ABC)を構成。Yahoo!ニュースにて「京都の人と街」を連載。著書に『ジワジワ来る関西』(扶桑社)などがある。X:@tomokiy