ルイーズ・ブルジョワ Louise Bourgeois
1911-2010 / FRA USA
No. 132

パリでタペストリーの修復を業とする裕福な家に生まれる。ソルボンヌ大学で数学を学んだ後に美術に転向し、1938年アメリカ人美術史家と結婚後アメリカに渡る。ニューヨークではマルセル・デュシャンやホアン・ミロ、現地の抽象表現の画家たちとも交流した。『父の破壊』(1974)、『ヒステリーのアーチ』(1993)、『蜘蛛』(1997)ど、その造詣はフェミニズムの文脈でも注目を集める。1993年のヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカを代表して出品、1995年にはニューヨーク近代美術館で回顧展を開催した。長きにわたってアメリカ美術界の主流の外に身をおいて制作を続け、その大胆かつ先鋭的な造詣は時代を先取りするものとして今も高く評価されている。

少女時代の心の傷を癒すための芸術作品
ルイーズ・ブルジョワ

 六本木ヒルズの広場にパブリック・アートとして置かれている巨大な蜘蛛のブロンズ作品『ママン』。お腹に抱える卵が大理石でできた高さ9メートルを超えるモンスターのような彫刻ですが、あの作品の生みの親が、パリに生まれてその後70年にわたりニューヨークで制作を行ったルイーズ・ブルジョワです。現在、森美術館にて個展が開催されているブルジョワの芸術にとって「蜘蛛」は重要なモチーフであり、自身のママン(母親)を象徴するものだと語っていました。蜘蛛が母親とはいったいどういうことなのでしょう。

「蜘蛛は私の母への賛歌のようなものです。母は私の親友でしたし、蜘蛛のような織工でした。私の両親はタペストリーの修復業を営んでいたのですが、母はその工房の責任者でした。母は蜘蛛のようにとても賢い人でした。蜘蛛は病を広める蚊を食べてくれる好ましい存在です。つまり母のように役に立ち守ってくれる存在だったのです」(2007年、テート・モダンの『ママン』所蔵のプレスリリースより)と母ジョゼフィーヌとの相関を挙げつつ、「糸で布の傷を繕い、癒す修復家である一方、蜘蛛は周りを威嚇する捕食者でもあり、母性の複雑さを表現するものでした」と語っています。さらに「蜘蛛が巣作りのために体内から糸を出すように、自身の体から負の感情を解放するために作品を作っているのです」とも。つまり蜘蛛は母の象徴であるだけでなくブルジョワ自身でもあったのです。

 彼女のこのような発言から察せられるように、ブルジョワの芸術には彼女の育った家庭環境が大きく関係していました。1911年のクリスマス当日にパリで生まれたルイーズは、姉アンリエットと弟ピエールの三人兄弟の真ん中として育ち、両親はアンティークの タペストリーの修復工房を経営していました。しかし、女性の価値を認めない傍若無人の父ルイは、妻や娘たちを軽視するような言動を日常的に行なっていたばかりか、若いイギリス人女性を家庭教師として雇い、愛人として家族と同居させていたというとんでもない人物でした。

 ブルジョワは長らく病弱だった母の介護をしながら、数学と幾何学を学ぶためにパリの通信制学校で学び始めます。しかし1932年に母の死を経て、数学の道を諦めて美術を学び始め、フェルナン・レジェに師事。そのレジェから彫刻家になることを勧められたそうです。地道にアート制作を続けながら、父親の店舗内に自分の小さなギャラリーを開き、 知り合いだったピエール・ボナールらの版画や素描を扱っていた頃に、その画廊でアメリカ人の美術史家ロバート・ゴールドウォーターと出会い結婚。夫とともにニューヨークに定住するためにアメリカへ移住します。

 新天地でアート制作を再開したブルジョワ。当初は、フランス時代の記憶、家、木、女性などを主題にした絵画作品も制作していたのですが、1951年の父の死と、それに続く10年以上の精神分析に集中する期間を経て、父親との確執と向き合う作品を制作するようになっていきます。さらに1960年代後半になると、男女の関係や父親に対する愛憎満ち溢れた複雑な感情をより掘り起こすことで、切断した男性器を吊り下げた作品のように性的に露骨なものへと変貌していくのです。また、この頃からブルジョワがフェミニズムの文脈において高く評価されたのも、男性に支配されていたアメリカのアートシーンから距離を置きながら、女性としての独自の触覚的で官能的な立体作品を発表していったからです。

 このようにセクシュアリティやジェンダー、身体をモチーフにしたブルジョアの作品の多くが自伝的なものであったわけですが、そんな彼女の創作は裏を返せば少女時代に父親から受けた虐待による心の傷を癒すためのものであり、困難に立ち向かいながら生きることへの意志やカタルシス(浄化)を表現する術だったのかもしれません。今回の展示においても、彼女の生い立ちや男性が圧倒的に優位だったアート界での孤立した状況を理解した上で作品に直面すると、生涯にわたって葛藤し続けたこのアーティストの心の叫びや切実な訴えが聞こえてくるはずです。

Illustration: SANDER STUDIO

『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』(美術出版社)現在森美術館で行われている展覧会の公式カタログ。丁寧な作品解説のほか、ブルジョワの精神分析的著述も掲載。

展覧会情報
ルイーズ・ブルジョワ展
地獄から帰ってきたところ
言っとくけど、素晴らしかったわ
会期:2024年9月25日(水)~2025年1月19日(日)*会期中無休
会場:森美術館(六本木ヒルズ森タワー53 階)
住所:東京都港区六本木6-10-1

文/河内 タカ

高校卒業後、サンフランシスコのアートカレッジに留学。NYに拠点を移し展覧会のキュレーションや写真集を数多く手がけ、2011年長年に及ぶ米国生活を終え帰国。2016年には海外での体験をもとにアートや写真のことを書き綴った著書『アートの入り口(アメリカ編)』と続編となる『ヨーロッパ編』を刊行。現在は創業130年を向かえた京都便利堂にて写真の古典技法であるコロタイプの普及を目指した様々なプロジェクトに携わっている。この連載から派生した『芸術家たち 建築とデザインの巨匠 編』(アカツキプレス)を2019年4月に出版、続編『芸術家たち ミッドセンチュリーの偉人 編』(アカツキプレス)が2020年10月に発売となった。