恋は、突然やってくるもの。
一歩踏み出せば、あとは流れに身を任せるだけ。
しかし、最初の一歩がうまくいかず、ジレンマを抱える場合も…。
前進を妨げる要因と向き合い、乗り越えたとき、恋の扉は開かれる。
これは、あるラブストーリーの始まりの物語。
▶前回:バーで出会った清楚女性の“裏の顔”に遭遇。あまりのギャップに、29歳男は驚愕し…
異性の友だち【前編】
「ねえ、吉沢くん。今日って、やっぱり参加できない?」
帰り支度を整え、デスクから離れようとしていた吉沢諒也は、足を止める。声をかけてきたのは、同僚の及川葵だ。
「…ああ、今日は先約が入っててさ」
諒也があっさりと返答すると、葵は不満げに口を尖らせた。
今日は、同期女性の送別会があるのだ。
6年前、 諒也はその女性と共にこの大手製薬会社にMRとして就職。以来、同じ新宿の営業所に勤めてきた。
だからか、葵としては、諒也に送別会に参加してほしいと望んでいたようだった。
だが、諒也は、彼女と親しくしていた覚えはない。
諒也は、仕事とプライベートを完全に分けるタイプ。同僚とはいえ一線を引き、むしろライバルであると捉えてきた。
自分の営業所内での成績がトップなのは、そんな姿勢を維持してきたからだと諒也は自負している。
「ちょっと顔出すくらいできないかなぁ…?」
それでもなお諦めずに食い下がる葵が、やや煩わしい。
「うん。悪いけど」
「ええ…。なに、彼女?」
「いや、彼女ではないけど…」
実際に彼女ではないが、約束の相手は女性ではあった。諒也は仕事ができる上に容姿もいいため、言い寄ってくる女性はあとを絶たない。
交友関係は狭いものの、女性とは適度につながりを持ち、プライベートを充実させていた。
― 察してくれよ。
心のなかで呟くと、葵も「わかりましたよ」と言わんばかりに肩をすぼめながら頷いた。
― やっと諦めてくれたか…。
葵は面倒見がいいタイプなのか、職場で孤立しがちな諒也にこうしてよく声をかけてくる。
すると、葵が突然、上目遣いに諒也の顔を覗く。
「その目、どうしたの…?」
「え?目って…」
諒也は指で左目の上瞼をさする。ズキンと鈍い痛みを感じた。
◆
― おいおい。会計だけで、もう20分以上待ってるぞ…。
翌日、諒也は新宿にある眼科クリニックを訪れていた。
待合室のソファに座りながら、スマートフォンで時刻を確認する。
診察を受けるのにも1時間以上待たされていたため、いらだちが募る。
昨日、職場で葵に指摘された目の異変。診察の結果は、ものもらいだった。
諒也は、寝不足やストレスが重なると度々ものもらいになる体質だ。これまでも、目薬を処方してもらいに眼科を訪れることが多かった。
治療を終えたばかりだが、左目の上瞼の違和感は拭えない。
― くっそう、あの先生のせいだ…。
MRとしての取引相手に、この時代に飲み会への参加を強要してくる医師がいるのだ。彼のせいで疲れが出たのだろう。
諒也は、思い返してはストレスを抱える。
クリニックには、幼い子どもからお年寄りまで幅広い世代の患者が訪れ、待合室は飽和状態だ。
忙しい諒也は、次の訪問先へのルートを考えてクリニックを選んだつもりだったが、完全に裏目に出た。
― ああ、早くしてくれよ。そろそろ出ないと間に合わないぞ。
次のアポの時間が迫ってきている。
移動の最短ルートを思い描きながら、正面にある受付の様子を観察した。
カウンターの高さに頭が届かないくらいの身長の子どもが、受付の女性に何やら話しかけている。
明らかに無駄話ではあるものの、女性は手元を忙しなく動かしながらも、にこやかに対応している。
― こんなに混んでるのに、よくあれだけ丁寧に対応できるなぁ…。
その女性は先ほども、お年寄りが持ち出した気候に関する長話に耳を傾け、対応していた。
そんな姿を見ていただけに、諒也は感心する。
― ああ、もう限界だ。出ないと間に合わないや。
タイムリミットがきてしまい、やむを得ず立ち上がって受付に向かう。
「すみません…」
声をかけると、受付の女性が顔をあげ、口角をあげた穏やかな表情で返事をした。
「吉沢ですけど、お会計の順番ってまだでしょうか?」
「申し訳ありません。もう少々お待ちいただけますでしょうか」
「あの。実はこのあと、仕事のアポが入っていまして…」
諒也は、手もとに用意していた名刺をカウンターの上に置いた。
会社名を見た女性は、諒也がMRであることに気づき、「いつもお世話になっています」と挨拶を述べる。
「少しの時間、抜けさせていただけないでしょうか。先方への挨拶が済み次第、すぐに戻ってくるので。そんなに時間もかからないと思います」
諒也が速やかに用件を伝えると、女性は少し困った表情を浮かべて、後ろを振り返った。
背後のデスクでは、もうひとりの受付担当の女性が事務作業をおこなっていた。
女性はひとつ頷くと、「わかりました」と呟いた。
「これは内緒ということで…」
周囲を気にかけながら諒也に顔を寄せ、小声で囁いた。
「ありがとうございます。助かります」
「では、お待ちしています。行ってらっしゃいませ」
女性は一礼すると、すぐにまたパソコンの画面を眺めてキーボードを打ち始める。
諒也はその様子を気にかけながら、クリニックの玄関を出た。
一旦立ち止まり、ガラス扉越しに受付を覗く。
胸の奥がじわっと熱を帯びるような感覚をおぼえた。
後ほど戻ってくるのは会計のためではあるものの、再会する約束を交わしているかのようで気持ちが弾んだ。
諒也は医師との面会を終え、急ぎ足でクリニックに戻った。
まだ午前の診療時間中で、待合室には多くの人の姿がある。
ほのかな高揚感を抱きつつ玄関を抜けて受付に顔を見せると、例の女性がすぐに気づいて会釈をした。
「お疲れさまです。こちら、お会計になります」
あらかじめ準備してあったのであろう明細書と領収書が、ブルーのトレーに乗せられ、差し出された。
諒也は、金額を確認してお札をトレーに乗せる。お釣りが即座に戻ってきた。
「ありがとうございます。お大事にどうぞ」
女性があの柔和な微笑みを浮かべたのも束の間、すぐに目を逸らし、事務作業に戻ってしまった。
― あ、あれ…。もう終わり?
思い描いていた状況と異なり、肩透かしを食らったような気分になる。
― もう少し会話とか…。せめて名前ぐらいは聞きたかったんだけど…。
ほかの患者同様、流れ作業のような対応で済まされ、会話どころか何の感情のやり取りもないまま断ち切られてしまった。
声をかけようにも、相応しい言葉が見つからない。
会話のキッカケを探すが、背後に、順番待ちをしている別の患者からのプレッシャーを感じる。
諒也は後ろ髪を引かれる思いで、自動ドアに向かって足を踏み出した。
― 俺としたことが、何もできなかった…。
職場ではトップセールスを誇り、トークスキルにも自信を持つ諒也。だが、会話の糸口すら見つけられずに退散させられてしまった。
えも言われぬ敗北感に打ちひしがれる。
しかし、考えてみれば、諒也は女性に対して自分からアプローチをかけたことなどほとんどないのだった。
いつも女性のほうから言い寄られるから、好みの相手を選別するだけで済んでいたのだ。
悠長に構えていたがゆえの、踏み込みの甘さ。それが敗因だと、諒也は分析する。
― くっそう。このクリニックの担当って、誰だったっけな…。
このまま引き下がるのは男としても、トップセールスマンとしても、プライドが許さない。
クリニックは営業所の管轄地域内であり、身近に担当者がいるはずだった。
その人物を頼れば、女性と再び接触を持ち、距離を縮めるキッカケがつかめるはず。
そう算段した。
◆
諒也は仕事終わり、新宿西口にある『LUCIAN』を訪れていた。
テーブルを挟んで向かいの席に座っているのは、同僚の葵だった。
昨日、診察を受けに行ったクリニックの担当者が葵であるとわかり、諒也のほうから声をかけて誘い出したのだ。
「吉沢くんから誘ってくるなんて、初めてじゃない?どういう風の吹き回し?」
これまで、葵から飲み会の誘いをかけられてもほぼ断っていただけに、不信感は拭えないようだった。
「いや、うん。まあ、たまにはね…」
いつもの自信に満ち溢れた姿はなりを潜め、口ごもりながら答える諒也の様子を、葵は訝しんでいる様子だ。
― どう言ったらいいのか…。
諒也はただでさえ交友関係が狭く、友だちのカテゴリーに入るような異性はいなかった。
ゆえに、色恋にまつわるプライベートな話を葵にどう切り出していいものか、判断に迷っていた。
それでも、ワインを飲み進めるうちにリラックスし、口もとが緩んでいく。
「及川の担当している、眼科のクリニックあるじゃん。そこに昨日、ものもらいを診てもらいに行ってきたんだけど…」
これまでの経緯を話して聞かせると、葵も状況を理解するとともに、表情が和らいでいく。
「なんだぁ、そういうことね。吉沢くんも可愛いとこあるんだぁ。ふ~ん」
説明を受けて納得しながらも、諒也の意外な一面を知りニヤニヤと笑顔を浮かべる。
「有紀さんのことだね。確かに、有紀さんは色白で清楚な感じがしていいよね。誰に対しても優しいし。吉沢くんが好きになるのもわかるよ」
「いや。まだ好きっていうわけじゃあ…」
「私、連絡先知ってるから、飲み会でもセッティングしてあげようか?」
「えっ!マジで!!」
諒也はつい大きな声を張り上げて周囲の視線を集めてしまい、恐縮する。
しかし、それぐらい大きな収穫だった。
女性からの提案であれば、警戒心は和らぐはずであり、開催の可能性は高い。
異性の同僚のありがたみを、諒也は初めて身にしみて感じた。
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【後編】同僚にセッティングしてもらった飲み会。順調に関係が進展すると思われたが…