本日10/21(月)発売の東京カレンダー12月号!「温泉ワーケーション」企画で生まれた小説は、こちらからお読みください。
― 無理して結婚しなくてもいいのかも……。いままでずっと1人だったし、何の不便もなかったじゃない。
南帆はパソコンとスマホ、あと少しの着替えを持って、家を出た。
◆
2人の喧嘩の原因は、同棲中のカップルによくある本当にささいな出来事だった。
出版社で働く南帆はフルリモートワークで、広告代理店の営業をしている亮平は、基本オフィス出社。だから必然的に家にいる時間の長い南帆が家事をすることが多い。
それに今年34歳になった南帆は、家事を積極的にすることで少しでも「結婚」ということを彼に意識させたかった。特に慣れない料理には苦戦したが、自分なりに試行錯誤して頑張っていた。
事件が起きたのは、ある日のこと――。
朝、会社に行く前に「今日はポテトサラダが食べたいな」と亮平が明るい声で言った。
「わかった」と言ったものの、その日は校了中で、仕事が終わる頃にはもうクタクタだった。頭も体も疲れ切っていたため、手作りする余裕はなく、スーパーで買ってきたお惣菜のポテトサラダをテーブルに出した。
亮平が帰宅し、いつものように笑顔で「いただきます」と箸を手に取る。けれど、ふと、表情がわずかに曇り、ぽつりとつぶやいた。
「あ、お惣菜なのか…」
疲れが溜まっていたせいかもしれないけれど、亮平のその一言に、南帆の中で張りつめていた糸がぷつん、と切れてしまったのだ。
普段、亮平は感情を押し殺して人に迷惑をかけまいとするタイプだ。彼の明るい振る舞いの裏には、周りを気遣う繊細な思いが隠されていることを南帆は知っていた。
でも、その夜の「お惣菜なのか」という一言には、ただの残念さだけじゃなく、少し寂しさや期待を裏切られたような感情がにじみ出ていた気がする。
その一言に反応してしまった自分もばかばかしいとは思った。亮平の言葉は、彼なりに素直に感じたことをつぶやいただけだ。
それなのに、南帆はその言葉に過敏に反応してしまい、ついカッとなって家を飛び出してしまった。自分でも子どもっぽい行動だと思いながら、でも同じ空間にいると不用意な発言をしてしまいそうで怖かったのだ。
南帆が家を飛び出し、息が切れるほど歩いた後、不意にスマホが震えた。画面には「編集長」の名前が表示されている。こんなときに、と思いながらも電話に出た。
「お疲れさまです」
「今日休みだって?最近ちょっと調子が悪そうだな。何かあったか?」
編集長の声はいつも通りだが、心配している様子がにじみ出ている。普段は冷静で仕事一筋の編集長が、こうやって気にかけてくれるのは珍しいことだった。
「ありがとうございます。大丈夫です。少しリフレッシュしたくて外に出ています。校了は無事終わって問題ありませんのでご安心ください」
「そうか。俺もこの業界で長くやってきたけど、人は何かに向かっている時こそ、一番悩むもんだよ」
その言葉に、南帆の心が少し温かくなった。編集長はあまりプライベートなことには干渉しない人だが、今日は特別に感じられた。
「ありがとうございます。編集長の言葉、心に留めておきます」
「しっかり休んで戻ってこい。何かあれば、遠慮なく言えよ」
電話を切った後、南帆は編集長の温かさに少し驚きながらも、心が軽くなったのを感じた。いつも自分を追い詰めてばかりだったが、少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
◆
― 同棲自体、無理しすぎちゃったのかもしれない。
横浜駅で買った崎陽軒のシウマイ弁当を「踊り子」号で食べながら、そんなふうに考える。南帆は、昨夜勢いで予約した、湯河原にある老舗の温泉旅館に向かっていた。
そもそも亮平とは、食事に対しての考え方がまるで違う。
理屈っぽいと自分でもわかっているが、南帆は、食事は栄養を効率的に摂取できればよい、と考えるタイプ(特に平日は)だ。
だが同棲して3ヶ月目にしてようやく分かってきたのだが、亮平は違った。
そうでなきゃポテトサラダを食べたい、なんて言わないだろう。ポテトサラダなんて、亮平に言われるまで存在を忘れていたくらい。“サラダ”というのは名ばかりで、糖質と脂質のかたまりのように思える。
その割に作るのが手間だ。
じゃがいもをふかして、キュウリを塩で揉みこみ水分をしぼり、玉ねぎを薄切りにし水につけ、それらを混ぜ合わせてちょうどいい味付けにしなくてはならない。同棲して一度だけ作ったのだが、もう二度と作るものか、と思ったのをよく覚えている。
そんなことを考えていると、あっという間に湯河原駅に到着した。横浜から特急で50分ほど。呆気なさすぎるほどだった。
「いらっしゃいませ」
旅館に到着すると、受付にいた女性がにっこりと微笑みかけてくれた。海外旅行が好きな南帆は普段から外資系のホテルに好んで泊まるが、今回は旅館にしてよかった、と心から思う。
部屋に案内されると、さっそく備え付けの源泉かけ流しの露天風呂に身を沈めた。その瞬間、体がじんわりと温まり、旅の疲れが溶けていくのがわかる。湯けむりがふわりと立ち上がり、静寂の中に聞こえるのは、湯の流れる音だけ。時折、開けた窓から虫が鳴く声が遠くに聞こえ、まるで自然と一体になったような感覚に包まれる。
風呂から上がると、ちょうどいい具合にお腹が空いていた。
旅館内のレストランに足を運び、一人静かに和食のコースを楽しむことに決めた。初めは、一人でフルコースなんて贅沢すぎるかなと少し迷ったが、他にすることもない。せっかくの機会だから、時間をかけてゆっくりと味わうことにした。
まず運ばれてきたのは、丁寧に盛り付けられた先付け。器にほんの少し乗せられたひと口の料理が、食事の始まりを優雅に告げる。次に、お吸い物の蓋を開けると、湯気とともに上品な出汁の香りがふわりと立ち上り、心がほぐれていく。しっかりとした風味ながら、どこかほっとする味わいだ。
そして八寸。目の前に出された小皿の数々には、鮮やかな彩りが並んでいた。小茄子とかぼちゃ、ゴボウと銀杏。それぞれ、煮方や焼き方が微妙に異なり、ひと口ひと口が違った表情を見せる。どれも素材の味を最大限に引き出し、薄味ながらも豊かな風味が口いっぱいに広がる。
料理の繊細さに思わず驚き、こんなにも丁寧に作られた料理を前にして、自然と料理人の顔を思い浮かべてしまった。
「料理って、人の気持ちが伝わるんだな…」
静かな夜の空気とともに、心の中で亮平の面影が静かに揺れる。
八寸を食べ終えると、鰻の蒲焼きと白焼きが運ばれてきた。いつもの癖で、取り皿に分けそうになる。
― あ、今日は1人で両方食べるのか……。
2人が出会ったきっかけは、中高一貫女子校時代の友人・愛莉からの紹介だった。
「南帆に合いそうな人がいる」
そうやって紹介されたのが亮平だった。
最初見たときは、なんというか、拍子抜けした。
「自分に合いそう」と言われたので、自分と似た、どちらかと言えば大人しいタイプの人かなと思っていたのだが、目の前にいる亮平は真っ黒に日焼けしてがたいがよく、明るくてよく笑う、自分とはまるで違うタイプだったからだ。
年齢は南帆と同じ34歳。広告代理店で営業をしているという。
でもその日の食事で、彼に嫌な気はしなかった。恋愛としての好きか、と聞かれたらわからないが、友人からの紹介ということもあってか安心感もあり、そのあとデートに誘われたときも快諾した。
初デートは、うなぎ屋だった。ちょうど7月の暑い夏の日で、南帆の好きなうなぎ屋がちょうど2人の家の中間地点だったので、日本酒を飲みながら鰻を食べたのだ。
「蒲焼きと白焼き、どっちが好き?」
「蒲焼きかなぁ。南帆さんはどっちが好きなの?」
「どっちも好きだよ。じゃあ蒲焼きを頼もうか」
「あ、両方頼もうよ。南帆さん、日本酒好きだし、白焼きも食べたいでしょう」
恋愛になると相手のことを考えすぎて、すぐに遠慮してしまう南帆のことをすべてお見通しな気がしてとても驚いた。今考えると、このときに「彼と一緒にいたい」と思ったのだ。
今日運ばれてきた鰻は、南帆の好きな白焼きが多めだった。皮はパリっと、身はふんわりしていて最高に美味しい。日本酒が進む。今日は亮平がいないから、蒲焼きもすべて自分で食べた。
◆
レストランから戻り、布団に飛び込む。スマホはずっと振動していたが、それさえも心地よく聞こえながら、朝までぐっすり寝てしまった。
翌朝、南帆は目覚めた瞬間に不思議な感覚に包まれた。心と体は温泉旅館で十分にリフレッシュしたはずなのに、何かが引っかかっていた。昨夜の出来事が夢のようにぼんやりと頭の中で揺れている。
「昨日の鰻、美味しかったな…」
ぼんやりとしながら、亮平のことを考えた。ふたりの最初のデートで食べた鰻のことを。そして、その亮平が今ここにいないことを。スマホを手に取り、ふと通知を確認すると、亮平からのメッセージが何通も来ている。
「亮平、どうしてるかな…」
南帆はメッセージを開こうとしたが、その手を止め、スマホを机に置いた。昨夜は少しだけ日本酒を飲みすぎたせいかもしれないが、自分が家を飛び出した理由がぼやけて感じられる。そもそも何にそんなにイライラしていたのか、今はもうよくわからない気がした。
「なんでこんなに固執してたんだろう…」
何かを急いで証明したり、作ったりしなくてもいいのかもしれない、という考えがふと浮かんできた。
結婚や家事が自分を悩ませていた理由も、今ならもっと冷静に理解できる。南帆がずっと目指していた「理想の女性像」や「結婚の形」は、自分が本当に望んでいたものだったのか。それとも、社会や周りの期待に応えようとしていただけだったのか。
朝食を済ませたあと、旅館からすぐ近くのカフェに行った。気さくな感じの初老の女性オーナーと会話をしていると、驚くことに同じ業種だということがわかった。
彼女は早期リタイアして、父親が買ったという別荘があった湯河原で、カフェを始めたという。ちょうど男女雇用機会均等法が制定されたときの入社で、“女性活躍”という名のもとに仕事にまい進し、30代半ばの頃に結婚をしたらしい。子育てを終え、そして夫となった人も10年前に亡くなり、この地でカフェを始めたようだ。
人見知りの南帆にしては珍しく彼女に心を開き、思わず聞いてしまった。
「結婚して……よかったですか?」
これを聞くと、たいていの既婚者は言葉を濁す。でも彼女はまっすぐ前を見て、そしてふんわりと目をほころばせ、こう言ったのだ。
「すごくよかったわ。もう亡くなっているからかもしれないけど……。若い頃は恋愛もたくさんしてきたのよ。海外にいっぱい出張があったから、その土地で彼氏ができたりしてね。あ、旦那が聞いてないかな…」
キョロキョロする彼女はとてもチャーミングで、南帆は心がじんわりと温かくなった。亡くなった夫とともに、彼女は今も生きているのだとはっきりわかった。
南帆は思わず、今回の“ポテトサラダ事件”のことを彼女に話した。すると彼女はこう言った。
「なぜ、彼に合わせて無理をしているの?彼のことが好きなのだったら、嫌なことはイヤ、とはっきり言ったほうがいいわ」
彼女はそうきっぱり言った。
「でも…料理くらいできなきゃって思って」
「彼がそう言ったの?人間関係のすれ違いは、ほとんど自分の思い込みからよ」
そう言われてはっとした。
南帆は驚き、思わず黙り込んだ。彼女の言葉が胸に響いた。自分の中で抱えていた「結婚観」や「女性らしさ」、それに縛られていたのは他でもない、自分自身だったのかもしれない。
「自分の思い込み…」
南帆は小さく呟いた。女性オーナーは微笑みながら、続けた。
「結婚も恋愛もね、相手を変えようとしたり、自分を無理に変えるものじゃないのよ。大切なのは、2人がどうやってお互いに正直でいるかってこと。
私も若い頃は、夫に期待しすぎたり、自分が良妻であろうと必死だったわ。でもね、夫が病気になった時、わかったの。彼が欲しかったのは、完璧な妻じゃなくて、ただそばにいてくれるパートナーだったって」
オーナーは遠くを見るような目で続けた。
「結局、一緒に笑って、時には喧嘩して、お互いの弱さを知って、それでも支え合う。それが結婚よ。料理ができるとか、家事が完璧だとか、そんなことは後からついてくるもの。あなたが大事にすべきなのは、彼とあなた自身の心の距離をどう近づけるか、だと思うわ」
その言葉に、南帆は深くうなずいた。
いつも亮平に「良い彼女」であろうとしていたが、それは自分の理想を押し付けていたにすぎなかったのかもしれない。亮平は、ただ一緒に過ごし、笑い合い、時には肩の力を抜いてリラックスする時間を求めていたのではないか。
「彼が欲しかったのは…私の完璧さじゃなくて、ただの私…」
南帆は急に亮平に会いたくなった。彼に、自分の素直な気持ちを伝えたい。彼のために何かをすることより、もっと自分らしくいられる関係を築きたいと思った。
オーナーは南帆の表情の変化を感じ取り、優しく微笑んだ。
「自分を大事にしながら、相手を大事にする。それが長く続く関係の秘訣よ。焦らなくてもいいの。自分がどう感じるかを大切にしてね」
南帆はその言葉を胸に刻み、カフェを後にした。自分を偽ることなく、もっと自然体で亮平と向き合う。そう決めた瞬間、心の中のモヤが晴れていくような気がした。
◆
宿に戻り、帰り支度をしながら南帆は考えていた。
亮平にちゃんと伝えよう、いやなものは嫌だ、と。
いままでずっと、自分にも彼にも、不誠実なことをしてきたのかもしれない。
亮平が私のことを、嫌になる可能だってある。それは彼の自由だ。
私はいままでずっと一人だったし、一人だって生きていける。でも人生で初めて「結婚したい」という感情を教えてくれた人。
少しの怖さもあるが、きちんと向き合ってみようと決意してチェックアウトを済ませて宿から出た。すると……。
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一方の亮平は…?