口内炎と思いきや「舌がん」ステージ4。人気ヒップホップMCの“その後”「人生が暗転したような気分だった」

「生存率はどのぐらいでしょうか?」「それはネットで検索してください」

これは約5年前、M.C. BOO(エムシーブー)さんが医師から「舌がん」のステージ4を告げられた際のやりとりだ。そして、何気ない日常生活が一転する——。

◆M.C. BOOの軌跡

1980年代から90年代にかけて一世を風靡し、“ヒップホップ黄金期”に活躍したニューヨーク発のヒップホップグループ「Beastie Boys(ビースティ・ボーイズ)」は、数多くの名曲を残し、伝説的なグループとして知られている。そんなビースティ・ボーイズとライブで共演を果たし、全米デビューを飾った日本人がM.C. BOOさんだ。

学生の頃からラップパフォーマンスを行っていたM.C. BOOさんは、ビースティ・ボーイズの日本ツアーに参加したことがきっかけで、ラップユニット「脱線3」のレコードデビューにつながり、吉本興業の音楽部門初のアーティストとして活躍するなど、ジャパニーズヒップホップシーンの黎明期を支えた。

2000年代に入ってからは、スニーカーブランドやアパレルブランド、イベント等のプロモーションやプロデュースなどを手がけ、クリエイティブディレクターとしての仕事もこなすように。さまざまなジャンルと横断的に関わりながら、独自の審美眼とネットワークを築いていったのだ。

クリエイティブ関係の仕事に才覚を見出したM.C. BOOさんは、順風満帆な人生を送っていたかのように見えた。

しかし、2019年に衝撃的な出来事が起きる。予想もしなかった「舌がん」ステージ4の宣告……。闘病生活を経て、たどり着いた境地とは何なのか。

現在は社会復帰し、株式会社ヘラルボニーのアカウント事業部でクリエイティブプロデューサーとして勤めているが、今回は、M.C. BOOさんの歩んできた軌跡を紹介しながら「人生が暗転したような気分だった」という宣告の瞬間までを振り返る。(記事は全2回の1回目)

◆ビースティ・ボーイズのライブに飛び入り参加

M.C. BOOさんは高校時代からヒップホップのグループを組んでいたという。当時はインターネットもなければYouTubeもなかった。そのため、ラップやDJの仕方がわからないところからスタートし、仲の良い同級生にDJをやってもらいながら、“遊び半分”で音楽を楽しんでいたとか。

「神戸出身なので、関西を中心にクラブでライブを行っていました。すごく楽しかったけど、80年代後半から90年代初頭の日本は、“ラップ”と言っても『サランラップ?』と聞き返される時代。これでは到底、ラップだけでは飯は食えないなと思っていました」(M.C. BOOさん、以下同)

転機になったのは、1992年にビースティ・ボーイズが大阪と東京でライブ公演を行った際に、M.C. BOOさんがラップのフリースタイル(即興)に呼ばれたことだった。

飛び入りでラップに参加したつもりが、ビースティ・ボーイズのメンバーに深く気に入られたことで、ライブの半年後にアメリカの大手レーベル「キャピトル・レコード」からM.C. BOOさんのフリースタイルが収録されたレコードが発売されたのである。

「メジャー・フォース(日本初のクラブミュージック・レーベル)を設立した高木 完さんのもとに、ビースティ・ボーイズからレコードやテープのサンプル音源が届いたんです。そしたら、『これ、BOOのラップ入ってない?』という話になって。どうやらサンプルだなと思っていたら、いつの間にか世界デビューしていたんですよ」

それ以来、日本国内のライブはもとより、Run-D.M.C.やDe La Soul、Digital Undergroundといった海外アーティストのフロントアクトの仕事が多く舞い込むようになった。

「その頃はすでに『スチャダラパー』が売れていた時期でしたが、来日するミュージシャンの関西のフロントアクトは、僕たちが結成した『脱線3』がほとんど務めていたんですよ。そんな折に、高木さんから『メジャーフォースで1stアルバム出そう』と誘われて、1994年に発表しました。

プロデュースは高木 完さんとスチャダラパーのshincoさん。当時のキャッチフレーズは“西のスチャダラパー”という風に売り出してましたね。おかげさまでCDもたくさん売れて、その後はEPICソニーと契約してメジャーデビューすることになったんです」

◆海外でのレコーディング経験が大きな自信に

そして、2stアルバムはビースティ・ボーイズの活動拠点だったLAの「G-SON STUDIOS」でレコーディングを実施することに。ビースティ・ボーイズのメンバーと共に楽曲制作を行い、1995年に2stアルバム『XXX JAPAN』をリリースした。

脱線3の活躍は目覚ましく、お笑い芸人が所属する吉本興業の音楽部門初のアーティストとして契約を結んだ。

ビースティ・ボーイズとのエピソードについて、M.C. BOOさんに伺うと「同じカルチャーの中で意気投合し、お互いをリスペクトすることができた」と話す。

「今だと外タレが東京に来たら、渋谷や原宿に行くのが一般的になっていますが、実はビースティ・ボーイズが最初だったと思います。僕らの仲間内がやっている渋谷のレコード屋やスニーカーショップを案内したり、秋葉原の面白い場所へ連れて行ったりと、一緒に東京観光したんです。

そしたら後になってビースティ・ボーイズが、アパレルブランド『MILKFED.』の創設者で映画監督でもあるソフィア・コッポラ達に“東京の面白さ”を伝えたと思うんですよ。そこで生まれた映画作品が『ロスト・イン・トランスレーション』だったかなと、90年代カルチャーが脈々と受け継がれていくのは、すごく興味深かったですね」

◆「業界人が集う秘密の溜まり場」を青山に作ったことも

2000年代に入ると、M.C. BOOさんは東京へ上京し、DJやMCなどの音楽活動やイベントの主催をするようになる。並行して、デザインや美術のネットワークを駆使しつつ、アーバンカルチャーのアーティストが手がける作品をフューチャーした「アートエキシビジョン」を開催するなど、仕事の幅を広げていった。

その当時は、吉本興業がスノーボードやサーフィンなどのストリートスポーツに力を入れ始めた時期で、その周辺のクリエイティブやプロデュース、テレビ関係の仕事も、M.C. BOOさんが会社を立ち上げて担当するようになった。

「海外アーティストを招聘し、外資系ブランドの日本展開におけるクリエイティブ制作を請け負うなど、徐々にプレイヤーからプロデューサーへと軸足を移していきました。その頃から、自分の中で“MC”の意味の捉え方をテレビの司会進行のイメージが強くなった“マスターオブセレモニー”から、マーケティングの“マスターオブコミュニケーション”に変えたんです」

クリエイティブの案件で印象に残っているのは、タバコのキャメルをプロモーションする仕事だとM.C. BOOさんは言う。

青山に「CPFギャラリー」という“アーティストの溜まり場”を作り、ギャラリー兼制作スタジオ兼タバコ吸い放題スペースを3年半ほど運営していた。

Wi-Fiやコピー機の完備、ジュースやお酒などのドリンクコーナー、DJブースなど、CPFギャラリーに来れば仕事も遊びもできる空間だったそうだ。

「CPFギャラリーのクリエイティブとして、キュレーションからクラブイベントのブッキングなどを担当したんですが、今で言うインフルエンサーマーケティングのような取り組みをやっていました。国内外のアーティストや業界人を集めて、会員のメンバーになった人はスタジオでの作業やイベントの開催ができるようにしたんです。

ドイツとスペイン、そして日本の3カ国合同プロジェクトだったので、ベルリンに行ってDJイベントをやったり、毎月海外の人気DJを招聘して結構派手にプロモーションしていました」

そして、取引先のひとつだった大手制作会社のアマナにキャリア入社し、「オモシロ未来研究所」を立ち上げる。そこでは企業やブランドに対して、アーバンカルチャーやストリートカルチャーをテーマにしたコミュニケーション戦略やコンサルティングの案件を担当、活動範囲をさらに拡大していく。

◆「口内炎が1ヶ月も治らない」検査結果は舌がんステージ4


M.C. BOOさんが、自身の体の異変に気づき始めたのはアマナへ入社した2年目のときだった。

「舌に口内炎ができて、ちょっと調子悪いと思っていたものの、特に何も気にせずに毎晩お酒を飲んで遊び回っていました。しばらくすれば、口内炎は消えるだろう。そう軽い気持ちで考えていたんですが、なかなか口内炎は治りませんでした。そこでまずは医者に診てもらうために、かかりつけの耳鼻科に行ったんです」

最初は口内炎と診断されたが、一向に治る気配がない。そこで、もう一度耳鼻科に足を運ぶことに……。

そのときは、大学病院から来た若い先生に診てもらったのですが、言われたのは「1ヶ月経って治らないのはおかしいので、もう1週間待って様子が変わらなければ大きい病院に行った方がいい」ということだった。

「東京医科大学で検査を受けた当日は、『色々と調べるので今日はお帰りください』と言われました。その後、10日くらいして検査結果を聞きに行ったら、『舌がん』ステージ4の宣告を受けたんです。そのときは本当に『まさか自分が……』という気持ちでした。がんになったとは思いたくないし、今までの人生そんなに運が悪くないと思って生きてきたのもあって。

でも、首にしこりが2つあったんですよ。年をとると顔の骨格が変わるから、『しこりくらいできるかも』とわざと前向きに考えていましたが、ちょうど同じ時期にタレントの堀ちえみさんが舌がんを患っていて。その様子を赤裸々にブログへ綴っていたのを読んだりすると、“自分もそうなのかもしれない”と考えるようになっていました」

M.C. BOOさんは、衝撃的な事実を知らされて「まるで後ろから殴られ、人生が暗転したような気分でした」と語る。

人生はいつ何が起きるかわからないのだ。

<取材・文/古田島大介、撮影/藤井厚年>

―[M.C. BOO]―

【古田島大介】

1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている