10月になると思い出す元カノ。年上女に恋した42歳男が、独身を貫き通しているワケ

東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:「好きになっちゃった…」22歳・東大女子が初めて恋に落ちたのは、意外な相手で…

Vol.13 <マルガリータ> 小平諒(42)の場合



マホガニー製のバーカウンターを念入りに拭き上げた諒は、冷凍庫から氷の塊を取り出した。

ひんやりとした冷気をまとう氷塊は、諒が日頃使っている、コーヒーチェーンのマグカップほどの大きさがあるだろうか。

諒は、無骨に大きいその氷塊をしっかりと押さえつけると、アイスピックで小さく砕いていく。

だんだんと角が取れて丸みを帯びた形になっていく氷は、シェイクに使うためのものだ。

そう。たとえば、シェイカーでアイオープナーなどのカクテルを作る時のために。

アイオープナー。

そのなめらかな味わいの一杯を思い出した諒は、邪な考えを振り落とすかのように、氷を砕く手に一層の力を込めた。

― おいおい、どうかしてるって。相手は20歳も年下だぞ。

40を超えた諒から見れば、ヒヨコを超えてタマゴのような女の子──由依からアイオープナーを用いて本気の愛を伝えられたのは、2週間ほど前のことだ。

いくらなんでもその場で即答することができず、返事は有耶無耶なままにしている。それでも相変わらず週に2度3度とこのバーに顔を出してくる由依に、諒はドキマギさせられる日々を過ごしているのだった。

シェイク用の氷。クラッシュアイス。丸氷。大きく頑なだった氷塊は、みるみると諒の手の中で新しい姿に形を変えていく。

― それにそもそも、由依ちゃんとどうこうっていう話じゃない。俺はそもそも、恋愛自体もう…。

モヤモヤとした気持ちから逃れるように一心不乱に一通りの氷を作り終えた諒は、腕時計でバーの開店時刻の17時半を迎えていることを確認し、扉にかかっている札を“OPEN”に切り替える。

もし由依が来るのであれば、この札をひっくり返す前に、すでに雪崩のような勢いで店内に飛び込んできているはずだ。この時点で顔が見えないということは、きっと今夜は来店しないのだろう。

由依の不在を確信した諒は、ホッと胸を撫で下ろす。

別に、由依のことが嫌というわけではない。むしろ最近では、由依が訪れない夜に寂しささえ感じ始めている自分自身に、戸惑っているほどだ。

だけど、今日は。今夜だけは。

由依が来店しないことに対して、安堵の気持ちの方が大きかった。

ハロウィンが近い10月末のこの日は───諒にとって、あまりにも特別な日だったから。



平日ど真ん中の水曜日。時刻はまだ17時半。いつも通りの感じであれば、由依以外の客足は見込めないタイミングだ。しばらく忙しくなることはないだろう。

そう考えた諒は、「よし」とひとり呟いて気を引き締めると、おもむろに平皿を取り出し、そこに塩を乗せた。

同じく取り出したカクテルグラスのフチにカットしたライムをぐるりと塗り、皿に出した塩に付けて、スノースタイルのグラスを2つ完成させる。

そして、シェイカーにテキーラとホワイトキュラソーを注ぎ、ライムジュースを搾り入れ、先ほどがむしゃらに作ったシェイク用の氷を入れた。

8席ほどのこぢんまりのした店内に、小気味よいシェイクの音が響き渡る。

じっと目を瞑って静かにシェイカーを振る諒の姿は、誰かが見れば、祈りを捧げているようにも見えたかもしれない。

ゆっくりとシェイクをやめ、スノースタイルに仕立てたグラスに中身を注ぎ入れる。

そのグラスを諒は、誰もいないカウンターの端の席に差し出して言った。

「…おまたせ、瑶子。マルガリータだよ」

儚げに白いマルガリータは、うっすらと淡く発光して見え、美しい幽霊のようでもある。

2つ並んだマルガリータを無言のままじっと見つめていると、入り口のドアベルがカラン、と小さな音を立て、来客を告げた。

― あれ、由依ちゃんか?

すっかり油断していた諒は弾かれたように顔を上げたが、そこにいたのは由依ではなく、落ち着いた雰囲気の小柄で若い男性だった。

「すみません。1人なんですけど…いいですか?」

「もちろんです。どうぞ、お好きな席へ」

諒はさっと自分の分のマルガリータを手元に引っ込めると、接客用の微笑みを浮かべた。

“瑶子”の分のマルガリータは下げるタイミングを逃し、そのままカウンターの端に残したままにした。

突然やってきた男性客は、若く見えるがずいぶんとバーに慣れているようだった。

さまざまなカクテルを、小気味良いペースで満遍なく注文していく。じっとカクテル作りの手元を見つめる男性客を前に、必然的に諒は彼とぽつりぽつりと会話を交わすことになった。

「お客さん…」

「あ、佐藤と申します」

「佐藤さん、ですね。小平と申します。今日はお仕事はお休みですか?」

「はい。祝日働いた分、今日は休みで。ずっと来たかったこのバーに、やっと来られて嬉しいです」

「こんなところ、近所の学生もたくさん来るしがない小さなバーですよ」

「いやいや、全部すごく美味しいです。失礼ですけど小平さん、10数年前はあのバーでチーフバーテンダーされてましたよね?あの、日比谷の五ツ星ホテルの…」

「ハハ、やだな。昔の話ですよ」

「いろんなバーのバーテンダーさんから、小平さんの話聞くんです。ずっと憧れの存在で…ようやくここで独立されてることを知って、休みをとって来たんです」

「困ったな…」

佐藤の質問の仕方は、不躾なようでいながら分を弁えているような、不思議な距離感があった。

― こういう品のいいお客様、前の職場ではよくいらっしゃったな…。

静かでありながら深い会話に、意図せずとも、五ツ星ホテルで働いていた16年ほど前のことがつい思い出される。

それはつまり諒にとっては、“瑶子”に想いを巡らせることとイコールだった。

「諒…」

優しく、“諒”という漢字の持つ意味までしっかりと込めるような発音で、自分を呼ぶ瑶子の声。

まだ耳に残るあの声が、瑶子の記憶を開けそうになった、その時だった。

「リョウさん!」

ガラン!という騒がしいドアベルの音と共に、「リョウ」という音だけの発音で、名前が呼ばれる。

「リョウさん、ごめん!今夜はこの通り、友達とハロウィンパーティーするから来られないの!寂しいと思うけど我慢して…って…。

うわ、ごめんなさい!お客さんいると思わなくてっ」

今度こそ、由依だった。「じゃまたね!」と、嵐のように現れては去っていった由依は、幽霊とも花嫁衣装ともつかないコスチュームに身を包んでいたようだ。

自分の名前を呼ぶ、まったく違う発音の声。さらにはバーに似つかわしくない騒がしい雰囲気にすっかり現実に引き戻された諒は、やれやれと肩をすくめながら佐藤に謝罪する。

「彼女、まだ若くて学生なんですよ。ハロウィンなんて僕の頃はこんなに賑わってなかったですけどね。あの仮装、ゴーストかな…騒がしくてすみません。

…うちはいつだって、幽霊は大歓迎なんですけどね」



密やかな雰囲気が壊れてしまったことで、佐藤は気分を害して席を立つかもしれないと、諒は思った。

けれど、諒の謝罪に対して佐藤が放った言葉は──予想していない意外な言葉だったのだ。

「あの…」

「はい?」

「勘違いだったらすみませんが…」

「はい」

「幸せになっても、いいと思いますよ」

「…え?」

グラスを拭く手を、諒は思わず止めた。佐藤の目線は、今は諒の手元ではなく、カウンターの端に注がれていた。

儚く、白く、美しい幽霊のように淡い光を放つ、マルゲリータ。

今度こそ諒は、“瑶子”の記憶の扉を開けざるを得なかった。

「諒。アイオープナーのカクテル言葉は?」

「えーと…『運命の出会い』」

「正解!やるじゃん、諒」

「そりゃ、瑶子にあれだけ覚えろって言われたらね」

「えらい、えらい。バーテンダーの話題の引き出しは、多いにこしたことないもの。豊富な話題と、人を観察する目。愛する婚約者が一流のバーテンダーで誇らしいわ」

コーヒーチェーンのマグカップを片手に、そう言って諒の額にキスをするのが、瑶子のいつものクセだった。

藝大油画の非常勤講師だった瑶子と、新入生だった諒。1浪して藝大に入ったものの1年で中退し、アルバイトで始めたバーテンダーが諒の本職になった頃、2人は正式に恋人になり、諒が26歳の秋に婚約者になった。

額にされるキスは、15歳年上の瑶子に子ども扱いされているように感じたけれど、決して嫌というわけではなかった。

ただ、これから結婚して一緒になって、自分が40、50歳のオジサンになってもこうして子ども扱いされるのだろうか?と不思議に思っていただけだ。

まさか、27歳の額にキスしてもらうことさえできなくなるとは、考えもしなかった。

結婚式を挙げることなく、瑶子はいなくなった。

婚約してからたったの1ヶ月で、流れ弾に当たるような車の事故だった。

真っ白な布を顔に被せられた瑶子の前で、「人って婚約してても死ぬんだ」なんて意味不明なことを思ったことを覚えている。

「白い衣装は、結婚式までとっとけよ」と、冷たくなった瑶子に向かって笑えないジョークを言ったことも。

マルガリータが、このカクテルを発明したバーテンダーの恋人の名前だということは、瑶子のおかげでしっかり頭に入っていた。

事故で亡くなった恋人を偲んで作ったカクテル。

「諒。よくわかってるじゃない。えらい、えらい」

そう言ってもらえるような気がして、瑶子の命日にはいつもマルガリータを作るのが習慣になった。

額へのキスはない。

これから一生、恋人も、家族も作ることはない。

そう考えれば、たった1人生きていくだけの食い扶持が稼げればいいのだ。

ホテルのバーを逃げるように辞め、藝大からほど近い上野に小さなバーを開いた。

上野を選んだのは、もしかしたらふらっと瑶子が現れてくれるような気がしたからだ。たとえ、幽霊という姿でも。

もちろん、どれだけ待っても瑶子は現れない。そうしていつのまにか、瑶子が亡くなった時の年齢を超えていた。

「いや、ごめんなさい。余計なお世話でしたよね」

恥じいるように頭を下げる佐藤の声で、諒はハッと意識を引き戻された。

「いえ、とんでもないです。あの、佐藤さん。どうしてそう思われたんですか?」

瑶子にまつわる胸の内は、過去の職場でも漏らしたことはない。不思議に思った諒がおずおずと尋ねると、佐藤は静かに答える。

「あの…カウンターの端に、マルガリータがありますよね。カクテル言葉は『悲恋』です。

それから…」

「それから…?」

佐藤はふっと、視線をドアの方へ移す。

「それから、さっきのゴーストの仮装をした女の子。彼女を見る小平さんの目が、すごく優しかったから…」

何も言えないまま諒が佇んでいると、佐藤は胸のポケットからすっと紙片を取り出し、カウンターに置く。

それは、三軒茶屋にあるバーの店名と佐藤の名前が書いてある、名刺だった。

佐藤のグラスは、ちょうど空になったところだった。着ていたジャケットの襟を正すと、現金でぴったりと会計を支払い、静かに席を立つ。

「すみません、やりにくいかと思って申し遅れました。僕もバーテンダーなんです」

「どうりで…」

「もう失礼します。どうしても仕事柄、人を観察するのがクセになってしまっていて。お気を悪くされたら申し訳ありません」

謝る佐藤に、諒はふっと微笑んで言った。

「とんでもないです。バーテンダーに必要なのは、豊富な話題と、人を観察する目。若い頃、ある人からそう教えられました。佐藤さんは一流のバーテンダーです」

恐縮しながら去っていく佐藤は去り際、閉まりかけのドア越しに諒に声をかける。

「お邪魔しました。ごゆっくり、おふたりで乾杯なさってください」

8席ほどのこぢんまりとした店内に、いつまでもその言葉が残っていた。

「ごめん瑶子、仕切り直しだ。──乾杯」

1時間前に作ったマルゲリータは、すっかりぬるくなっている。グラスの縁の塩も、シェイクした氷の粒もすっかり溶け、毎年飲んでいるマルガリータとは全く味わいが変わってしまっていた。

「美味くないな」というつもりだった。

けれど、そのかわりに諒の口から出たセリフは、似ても似つかないものだった。

「歳の差は関係ないことなんて、とっくの昔に俺たちが一番よくわかってるよな」

そしてリョウは、小さな声で言葉を続ける。

「なあ瑶子。時間が経ったら、氷が溶けたり、塩が溶けたり、味が変わったり……そういうこと、お前、許してくれるか?」



えらい、えらい。



どこかから、そんな声が聞こえたような気がした。



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▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト

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最終回:諒にケジメをつけさせたバーテンダー・佐藤。彼の店にやって来たお客は…