◆主人公の祖父・永吉を演じる
朝ドラことNHK連続ドラマ小説『おむすび』の人気がなかなか高まらない。その中で我が道を行くのが松平健(70)である。橋本環奈(25)が扮するヒロイン・米田結の祖父・永吉を飄々と演じている。
健さんにとって朝ドラは芸能生活50周年にして初めて。「とてもうれしいです」。大スターにとっては小さなことに思えるが、本音らしい。ここまでの俳優人生が実は山あり谷ありだったせいでもあるだろう。
本名は鈴木末七。7人きょうだいの末っ子で、1953年11月に愛知県豊橋市で生まれた。幼いころから運動神経抜群で、中学では頼まれてサッカー部のキーパーを務めた。
この時期、大工の父親が日活系映画館の社長から招待券をもらうようになったため、それを使って映画館に通い始める。スクリーンに見入る日々が続いた。
ただし、俳優を目指したのはまだ先のこと。愛知県立豊橋工業高校(現・愛知県立豊橋工科高等学校)を中退後、名古屋市の寿司店で働き始めた。寿司職人は憧れの職業だった。
心境が変化したのは石原裕次郎さん主演の映画『太平洋ひとりぼっち』(1963年)を見たから。太平洋をヨットで単独横断する主人公の青年に惹かれた。健さんも冒険心を掻き立てられ、俳優を目指して上京する。1970年、まだ16歳だった。
週刊誌で裕次郎さんの住所を知り、東京・成城の自宅を訪ねた。個人情報という感覚が存在しなかった時代である。その場で石原プロモーション入りを申し込んだ。ツテはなかった。おそろしいまでの行動力である。
だが、断られた。健さんに見込みがなかったからではなく、当時の石原プロは映画制作が順調ではなかったこともあり、新人俳優を採っていなかったのだ。
それでも健さんはひるまなかった。自分で見つけた俳優養成所に入り、次に中堅の劇団フジに入団する。やがてドラマにも出るようになった。うち1本が憧れの裕次郎さんが主演していた刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)である。
◆勝新太郎との出会い
1972年7月に始まったこのドラマに健さんが出演したのは1974年2月の第81回。当然のように犯人役だったが、目立った。
直後、TBSの特撮ドラマ『ウルトラマンタロウ』(1973年)のタロウ役の選考にも最後まで残ったものの、これは落ちた。合格したのは二枚目俳優として鳴らした篠田三郎(75)である。
しかし、落ちて良かったのだろう。20歳だった1974年、大きな転機が訪れた。劇団フジの主演舞台の脚本を書いていた作家が、勝新太郎さんの主演映画『座頭市御用旅』(1972年)の脚本も手掛けていた縁で、勝プロダクションのプロデューサーが舞台を見に来た。
プロデューサーは健さんの演技に惹かれたらしく、「勝に会ってみないか」と誘った。くしくも裕次郎さんと勝さんは親友である。
勝さんと健さんが会ったのはフジテレビの控室。勝さんは健さんを見つめた後、唐突に「お前、京都に来られるか」と言った。健さんは「はい」と答えるしかない。勝さんは美顔で身長が179センチもある健さんに将来性を見出したらしい。一方で健さんは京都に行く意味が分からなかった。
それでも言われるままに京都・太秦のスタジオに出向いた。すると勝さんはフジ『座頭市物語』(1974年)の撮影を止め、健さんにカメラの前に立つよう命じた。
「俺が言うから芝居してみろ」「ここに何十年ぶりに会うお母さんがいる。顔を上げて『お母さん』って言ってみろ」。いきなりのカメラテストである。勝さんは思いつきで行動する人で、若手俳優や若手記者を困らせるのも好きだった。
テストが終わると、勝さんが言った。「しばらく俺の横で見てろ」。勝さんの演技を見て勉強するように命じたのである。健さんは京都に来たら役がもらえるのではないかという淡い期待も抱いていたが、見込み違いだった。来る日も来る日も勝さんの演技を見るだけの日々が続いた。
◆「主役以外やったらダメだ」
ようやく『座頭市物語』にゲスト出演したのは数カ月が過ぎてから。1975年放送の第23回である。演じたのは庄屋の息子役で、浅丘ルリ子(84)演じた三味線弾きと駆け落ちするという設定だった。
勝さんは勉強を積ませた健さんに大女優との共演を用意した。心憎い配慮である。あまり知られていないが、浅丘は健さんが石原プロに入社を希望した1970年には同社に所属していた。
翌1976年4月からは初主演作を得た。巨匠・五味川純平さんが戦時下の人間を描いたフジ『人間の條件』である。1959年に公開された映画版で仲代達也(91)が演じた梶役だ。
ドラマ版のチーフ監督は元日活の沢田幸弘さん。『太陽にほえろ!』に健さんが出演したときの監督で、裕次郎さんと親しかった。健さんは不思議と裕次郎さん、勝さんとの縁が濃かった。
しかし、ドラマ版『人間の條件』はあまり当たらなかった。放送時間帯は平日午後1時半から。昼メロの時間帯だ。硬派作品としてスタートしたものの、途中から徐々に梶の妻・美千子(堀越陽子)の視点が増え、昼メロ色が出てきてしまい、テーマが曖昧になってしまったからである。
以後の健さんは仕事のない時期がない日々が続く。勝さんから「主役以外やったらダメだ」と命じられたからである。もどかしかったのではないか。もっとも、仕事はなくても給料はもらえた。お陰で悠々と生活することができた。気っぷがいい勝さんらしいが、一方で勝プロが巨額の負債を抱えて1981年に倒産したのもうなずける。
◆『暴れん坊将軍』での成功
『人間の條件』から約1年半が過ぎた1978年1月、『吉宗評判記 暴れん坊将軍』(テレビ朝日)の主演に抜擢された。新鮮さも買われた。勝さんの教えを守り、助演を避けてきたことが功を奏したのである。まだ24歳だった。以後、この作品は2003年4月まで約25年も続いた。
『暴れん坊将軍』の放送中、健さんは安泰だったと思われている。実際には違う。1980年11月から半年間にわたって同じテレ朝で放送された主演刑事ドラマ『走れ!熱血刑事』が見事にコケた。月曜午後8時台の放送だったにもかかわらず、6~7%の世帯視聴率しか獲れなかった。
健さんが演じた主人公は山本大介。10代のころは極悪の不良だったが、人情刑事に諭されて更正し、刑事になった。だから非行に走る10代を放っておけない。
今、振り返ってみても当たりそうもないストーリーである。『暴れん坊将軍』が成功していた健さんなのだから断ってもよかった気がするが、そうは出来ない事情があった。制作が勝プロだったのである。同時期、勝プロは別の刑事ドラマも撮っていた。勝さん主演の日本テレビ『警視-K』(1980年10月)だ。全編ほぼアドリブ。マイクで雑音も拾うという画期的なドラマだったが、斬新すぎて平均世帯視聴率は5・4%。半年間放送の予定だったものの、1クールで打ち切られた。勝プロにとって刑事ドラマは鬼門だったらしい。
それから24年後、健さんは『暴れん坊将軍』が終わってから1年半後となる2004年の大晦日、『NHK紅白歌合戦』に『マツケンサンバⅡ』で初出場する。切れ目なくスポットライトを浴びていたから、やはり恵まれていたように思われるが、これも違った。
1992年にリリースした『マツケンサンバⅠ』はほとんど話題にならず、1994年に出した『マツケンサンバⅡ』も大手レコード会社はCD化を引き受けてくれなかった。売れないと思われていたのだ。このため、自主制作盤の形態となり、健さんの舞台の会場で売られただけだった。
『マツケンサンバⅡ』の人気にようやく火が付いたのは2003年ごろ。制作から約10年が過ぎていた。メジャーな音楽番組などで紹介されたからではない。ラジオの深夜放送で流されたことをきっかけだった。
劇場関係者によると「健さんは誰にでも気を使う人」だという。人知れず苦労をしてきたせいでもあるだろう。<文/高堀冬彦>
参考文献
読売新聞 東京朝刊 2024年5月17日、同24日、同31日付
朝日新聞 東京夕刊 2013年7月26日付
NHKドラマ・ガイド『おむすび』Part1(NHK出版)
【高堀冬彦】
放送コラムニスト/ジャーナリスト 1964年生まれ。スポーツニッポン新聞の文化部専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」編集次長などを経て2019年に独立。放送批評誌「GALAC」前編集委員