衆院選と同じ日の「最高裁判所裁判官の国民審査」何を“基準”に投票する?  法律が定める正しい“投票ルール”とは

10月27日の衆議院議員総選挙と同時に、最高裁判所の裁判官の「国民審査」が行われる。しかし、有権者にとっては投票の方法が分かりにくいうえ、何を基準に投票すればよいかの判断も難しい。また、過去、この制度によって罷免(ひめん)された裁判官は一人もおらず、実効性・存在意義に疑問があるとの指摘もなされている。そもそも何のための制度なのか、理解が浸透しているとも言い難い。

最高裁判事の国民審査の存在意義はどこにあるのか。法律が定める正しい投票ルールはどのようなものか。また、現行制度の下で何を“基準”として投票すればいいのか。「バンダナ教授」の異名を持つ憲法学者の上脇博之教授(神戸学院大学法学部教授)に聞いた。

最高裁判所の国民審査は何のため?

最高裁判所の国民審査の制度(憲法79条2項~4項)については、前述の通り今までに罷免された裁判官がおらず、実効性に欠けるとの指摘がされてきた。また、存在意義が乏しく廃止すべきという意見もみられる。

そもそも、なぜ最高裁の国民審査の制度が存在するのだろうか。上脇教授は、「国民主権原理」と「国民の基本的人権の保障」の見地から、きわめて重要な存在意義があると説明する。

上脇博之教授(神戸学院大学法学部)(本人提供)

上脇教授:「国民審査の制度がどれほど重要なのか、理解するにあたっては、戦前と戦後の違い、つまり『大日本帝国憲法』と『日本国憲法』の違いを把握しておく必要があります。

戦前の大日本帝国憲法の下では、国民に主権はなく、基本的人権という観念もありませんでした。『臣民の権利』といって法律の枠内でしか与えられず、しかも、法律で定めさえすれば、どのようにでも制限できるしくみになっていました。裁判についても天皇の名で行われ、公権力によって権利侵害を受けた人の救済が不十分でした。

戦後、日本国憲法はその反省から、基本的人権を守るため、国民主権原理を採用しました。

まず、国民の基本的人権にかかわる法律については国民代表機関である国会に定めさせ、行政は法律に基づいて行わなければならないことにしました。

加えて、国会が定めた法律やそれに基づく行政が国民の人権を侵害した場合に、裁判所、特に最高裁判所が『これは憲法違反ですよ』と判断する権限を与えました。

つまり、最高裁判所は国民の人権を守る『最後の砦』としての役割を果たします。もし、そこに国民の基本的人権をないがしろにする裁判官がいたら、最高裁判所がまったく機能しないことになります。

したがって、最後の最後には主権者である国民がそのような裁判官を辞めさせられるようにしたのです」

すべての国民にとって「自分ごと」

以上の説明は理論的な意味しか持たないように思えるかもしれない。しかし、上脇教授は「国民審査は私たちの日常生活にも密接に関わっている」と指摘する。

上脇教授:「法律を定める国会においても、基本的人権に関する多数派の無理解や無関心によって少数派の人権が侵害されることがあります。一例を挙げると、最近になってようやく国の損害賠償責任が認められた『旧優生保護法』の問題はその最たるものです。

また、誰もが、ある日突然、公権力から人権侵害を受けるおそれがあることを忘れてはなりません。近年でも、冤罪で身柄拘束を受けたり、違法な行政処分によって財産権等が奪われたりする例がありました。

最高裁判所は、そういうとき、国民の権利・自由・平等を守る最後の砦です。政治部門である国会・内閣(行政)が国民の基本的人権を侵害した場合にきちんと『憲法違反だ』と判断しなかったら、最高裁の裁判官はその役割を放棄したことになります。

他方で、最高裁判所長官の指名とその他の裁判官の任命は内閣、つまり行政のトップが行うことになっています。そして、内閣総理大臣は国会の多数派から選出されます。

最高裁判所の裁判官が『政治部門』によって選ばれる一方で、国民自身は裁判官の任命に関与する手段がないのです。

そのようなしくみの下で、もしも、国民審査の制度がなかったら、国民の人権を守ってくれない裁判官を排除する手段がまったくないことになります。

したがって、国民主権原理と基本的人権の尊重の見地から、国民審査の制度はきわめて重要なのです」

意味があるのは「×」だけ…国民審査の“投票ルール”とは

では、現行の国民審査制度はどうなっているのか。そもそも漠然と「国民がその裁判官の良し悪しを判断する制度」という理解はされているものの、法律で定められた正確な投票ルールが十分に知られているとはいえない。

国民審査の具体的な方法については「最高裁判所裁判官国民審査法」という法律で定められている。そして、投票の方式については以下の通り、罷免すべきと考える裁判官について「×」のみを記入するよう規定している(同法15条1項、【画像1】参照)。

【画像1】現行制度での投票用紙(出典:総務省)

裏返せば、積極的に「罷免すべき」という以外の意思表示、つまり「信任したい」「罷免すべきでない」という意向や「どうすべきか分からないので棄権したい」などの意向は、一切反映されないことになる。

「×」の投票しか効力がないことの問題点

なぜこのような制度になっているのか。それは制度設計として適切なのだろうか。

上脇教授:「最大の理由は、憲法79条3項が『投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される』と定めていることです。

あくまでも『リコール』、つまり、辞めさせたい人を辞めさせるしくみを指していると解釈されているのです。

古い最高裁判例も、この立場を前提として、現行制度は合憲だと判示しています(最高裁昭和27年(1952年)2月20日判決参照)。

ただし、違憲とまではいえないとしても、現在の投票方法が適切かどうかは別の問題です」

上脇教授は、せめて「棄権」の意思表示ができるように制度を改めるべきだと指摘する。

上脇教授:「現在の制度は、審査する側である有権者の立場への配慮が欠けていると考えられます。

たしかに、辞めさせたい裁判官に票を投じる『リコール制度』である以上、積極的に『〇』を信任と扱う投票方法にしなければ憲法違反だ、と評することは難しいかもしれません。

しかし、『投票』という行為は本来、明確な意思をもって行うべきものです。『意味がわからないまま白紙で投票する』あるいは『罷免すべきかどうか判断できないのでやむなく白紙で投票する』というのは審査のあり方として適切ではありません。

現行の制度では、以上の2つのパターンはいずれも有効投票数の母数にカウントされます。つまり、『どちらとも判断できない』という意味での白票が、事実上『積極的な信任』『消極的な信任』と同じ扱いになってしまいます。

母数にカウントされたくなければ、棄権するほかありません」

「判断できない」「判断したくない」を反映させるには?

そのような場合、実は、現行制度でも「棄権」をすることが法的には認められている。投票用紙を受け取らないか、あるいは投票せずに返却すれば、投票を棄権できる。

しかし、この方法で棄権すると、たとえば、「×を付けたい裁判官」と「どちらとも判断できない(棄権したい)裁判官」の両方がいた場合に「×を付けたい」という意向が犠牲になる。

また、棄権の方法はどこにも書かれておらず、教えてもらえることもない。結果的に、現行制度では『判断できない』『判断したくない』という人の白票が、有効投票数の母数に相当数カウントされていることになる。

上脇教授:「本来、対象となる裁判官1人1人について投票用紙を配布し、『棄権したい』という裁判官の投票用紙は受け取らなくてよい、とするのが理想でしょう。

しかし、それでは開票事務が煩雑になるかもしれません。そうであれば、現行の形式でも、1人1人について『棄権』の欄を設け、『判断できない』『判断したくない』という意向を反映できるようにすべきではないかと考えています(【画像2】参照)。私の立場からすると、現在の投票方法は投票者の棄権したいという意思を尊重していないので憲法違反です。

なお、私がこの見解を表明するのはこの場が初めてです」

【画像2】(左)現行制度下の投票用紙と、(右)上脇教授の投票用紙の案

制度の「実効性」を高めるには

とはいえ、「判断できない」「判断したくない」という意味での「棄権」は決して望ましいことではないだろう。

上脇教授:「国民審査の際に判断材料となる情報が少ないという問題があります。

広報のやり方を整えることも重要です。

たとえば、国民審査の直前だけではなく、『年1回』など定期的にマスコミが『こういう判決があり、それぞれの裁判官がどの意見だったのか』と振り返る報道をしてくれることが望ましいでしょう。『弁護士会』『市民オンブズマン』のような第三者機関による広報があってもいいのかなとも思います。

もちろん、基本的人権に無理解な勢力が政治的に『この裁判官を罷免しよう』と働きかける運動をするような危険性も考えられなくはありません。そうなれば裁判官の独立・司法権の独立が脅かされるおそれがあります。

しかし、現時点では、それ以前に判断材料が少なすぎます。

少なくとも、マスコミや弁護士会などが、国民審査のタイミングか否かにかかわらず定期的に、最高裁の判決内容と争点、それに関してそれぞれの裁判官がどのような判断を行ったかという『事実』についての情報を整理し、国民審査の目的や方法の解説とともに広報することは、もっと行われてよいのではないでしょうか」

現行制度下で「投票」を決めるための“基準”は?

上記のような問題点を抱えつつも、10月27日の国民審査の投票は、現行制度を前提として行われることになる。

その際、私たち有権者は、どのような基準で判断を行うべきか。

上脇教授は、現時点でできる限りの手段として、以下の通り説明する。

上脇教授:「まず、公報や報道が少ないとはいえまったくのゼロではありません。積極的に情報提供している報道機関や法律家団体もありますので、自分から情報を取得していくことが大切です。

その際、それぞれの裁判官が憲法問題、特に人権保障について、どのような判断を行ったかに注目することをおすすめします。

最高裁は憲法問題についての最終の判断を行う『終審裁判所』で、自分の人権が侵害された場合に『最後の砦』になってくれる機関だからです。

最高裁判所の判決には、各裁判官が『意見』を明記することが認められています。判決の結論に賛成しつつ自分の見解を補足的に述べる『補足意見』と、判決の結論に反対する『反対意見』があります。

幸いなことに、NHKの特設ページ等、情報をある程度整理してまとめてくれているところがあります。各裁判官について、注目の裁判での判断内容や、趣味等も含めたプロフィールなどを紹介しています。

また、弁護士の団体『日本民主法律家協会』の国民審査プロジェクトチームが独自の視点で情報を整理し、意見を発表しています。

それらを参考にして、『この人は、もしも自分が人権侵害を受けたときにどのような判断をしてくれるだろうか』『人権保障の砦としての役割を担うにふさわしい人か』という観点から判断することをおすすめします」

審査の対象となる裁判官の中には、就任して間がなく、判決の実績がない人や少ない人もいる。そのような人については、どう判断すればよいか。

上脇教授:「任命されたばかりの裁判官については、正直なところ、情報が少なく、判断が難しいと思います。それは、私が『棄権』の選択肢を設けるべきだと考える理由の一つです。

裁判官出身の人については、その人がかかわった下級審の判決をチェックする方法が考えられます。もちろん、下級審の判決には『意見』を付することができないので、その判決の結論に対する賛否は分からないという難点はあります。そこは複数の判決をチェックするしかないかもしれません。

それ以外の官僚出身、弁護士出身については、前職での実績や言動を知ることができるのであれば、可能な限りそれらの情報を自発的にチェックするしかありません。ただし、その際、確かな情報かどうかを吟味する必要があります」

現行の国民審査の制度は、その重要性が国民の間で広く認識されているとはいえないかもしれない。それは、在外邦人に国民審査が認められていなかったことを理由として提起された訴訟(最高裁が違憲判決を行った)において、国側が「国民審査という制度は必要不可欠のものではない」と主張したことにもあらわれている。

また、制度のあり方や運用方法についても、上脇教授が指摘するように、さまざまな問題点や改善の余地があるかもしれない。

他方で、国民審査制度は、究極的には私たち国民の基本的人権を守ることを目的とした制度であることに疑いはない。

有権者としての私たちには、今回の国民審査での意思表示をどうするかに加え、制度の問題点は何か、どのように改良していくべきか、といったことについて考え、具体的に行動することが求められているといえるだろう。