何かと話題になることが多い「東大」。今年の春からは東大の学費値上げ問題がたびたび取り上げられ、議論を呼んでいましたが東京大学は9月24日に学部の授業料値上げを正式に決定。来年度の入学者から今より約11万円引き上げ、国が定める上限の64万2,960円とすると発表しました。「ますます富裕層だけしか学べなくなる」など、東大生や教員からも反発の声が相次いでいます。『「反・東大」の思想史』(新潮選書)の著者で甲南大学法学部教授の尾原宏之さんに学費値上げ問題について聞きました。
東大に莫大な国費が投入されるワケ
――東大と言えば、学部の授業料値上げ問題が話題になりました。
尾原宏之さん(以下、尾原):根本的に学費はタダであるべきだ、というのはその通りなんです。お金のことをそれほど気にしないで勉強できる、誰でも自由に学問ができるというのは、理念としては絶対にそうあるべきだと思います。ただ、聞いてみるとですね、学問に打ち込みたいというより、学費を投資の一種と考えてる人が多いのが実態なんじゃないかという気がします。高い地位や高収入を得るための投資として考えているのでは? と。つまり、本来は志のある若者にのびのび学問に打ち込んでもらうための安い学費が、非常に「コスパ」のよい自己投資として捉えられているのではないでしょうか。
国立大学は税金で賄われている部分が大きい。「儲からないけれど、世の中にとって必要なこと」はたくさんあります。社会福祉や刑事弁護もそうですし、公教育や学問それ自体もそうです。この他にも、芸術、文化、ジャーナリズムなどさまざまな領域で「お金にはならないけれど、社会のためにはなくてはならないもの」があって、それを支える人材を育成するために国費を投入すべきだ、というロジックは社会全体にある程度共有されていたように思います。
大学に使われる税金は、学歴とは無縁な恵まれない人々も払っている。東大の安い学費が、自己の栄達つまり私利私欲のための投資にすぎないとなれば、なぜみんなでそれを負担しなければならないのか、という疑問が生じる。
資本主義世界では自利と利他の区別は必ずしも明確ではありませんし、もとより職業選択の自由は誰にでも保障されるべき権利ですが、とはいえ、いわゆるハゲタカ外資系コンサルなどで若くして年収2,000万や3,000万をもらいたいのであれば、どうぞ自腹で勝手にやってくださいという話になりかねない。そこは東大生自身にも考えてほしいと思います。
――東大卒業生の官僚離れもここ数年言われてきたことですが、この10年で官僚になる卒業生が半減したこともニュースになっていました。
尾原:「ノブレスオブリージュ」ではありませんが、決して高くはない給与で有能な人が国や社会のために働いているという前提があったからこそ、官僚は尊敬されてきた部分がありました。もちろん、公務員の働き方改革や賃上げは急務だと思います。でも、もっぱら自分の利益のために能力をフル活用するべきだ、という価値観が強くなると、多少賃上げしたところで官僚志望者はあまり増えないかもしれません。
東大出身者の多い大手ローファームの弁護士や外資系コンサルの社員などは、基本的に大企業や強者を守ることで高収入を得ています。お金がない人たちや冤罪で苦しむ人たち、大企業に抑圧されている労働者や弱者を助ける仕事は儲からない。強者の側に立って利益を得る仕事に優秀な人材が集中すれば、困るのは弱い立場の人々です。弱者といえど東大に注ぎ込まれる税金を負担していますから、自分をいじめる人材を自分で育成していることになります。
東大生には、お金儲けや私生活を充実させることだけではなくて、大学時代に得た能力を社会や弱者にどう還元していくかということを今一度考えてほしいと思います。お金がない人たちにものし上がる機会を提供するために学費は安くあるべきだ、というのはもちろん一理あります。ただ、それは一部の識者も言っているように、奨学金の拡充などで対応できることではないでしょうか。
東大に限りませんが、学問の府であるべき大学が、将来の社会的なステータスや収入の獲得と過度に結びついていることが問題で、これは新卒一括採用などが改まらない限りは改善しないと思います。大学名や、22〜23歳の時に受けた面接や知能テストの結果でその後の人生が大きく制約されるのはおかしいのではないでしょうか。
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福沢諭吉を踏襲?慶應塾長の提言の背景
――ちょっと前の話ですが、中央教育審議会の特別部会で慶應塾長の伊藤公平さんが「国公立大の学費を年150万円に上げるべきだ」と提言して物議を醸しました。しかし、尾原さんの『「反・東大」の思想史』第一章を読むと福沢諭吉が似たような主旨のことを言っているのに驚きました。
尾原:明治日本がいち早く近代化を達成するためには、急速に人材を育てる必要がありました。そこで、東大などの国立学校を設け、多額の国費を投入したわけです。しかし、日本には慶應義塾をはじめとする私学がすでに存在していました。政府には、多様な私学の成長を支援するという選択肢もあり得ましたが、それは非常に時間のかかることです。結局、政府は自前で強大な国立学校を作ることを選びました。
結果として、東大をはじめとする国立学校は安い学費で充実した教育を提供し、人材が集中し、私学の発展は阻害されました。多様な学校が自由に競争し成長することを是とする福沢は、「民業圧迫」によって教育をモノトーンにした政府と国立学校を激しく批判します。そういう歴史を踏まえた上で、伊藤塾長はあのように言われたのだと思います。
最初に申し上げた通り、「誰でも自由に学問できる社会が望ましい」というのはその通りだと思いますが、「国家が学費の安い強大な大学を作ってエリートを養成する」以外にもいろいろな可能性はあり得ます。福沢をはじめ、これまで蓄積されてきた議論をあらためて振り返り、あるべき大学教育のかたちを議論し直すべきだと思います。
尾原 宏之
甲南大学法学部
教授