恋は、突然やってくるもの。
一歩踏み出せば、あとは流れに身を任せるだけ。
しかし、最初の一歩がうまくいかず、ジレンマを抱える場合も…。
前進を妨げる要因と向き合い、乗り越えたとき、恋の扉は開かれる。
これは、あるラブストーリーの始まりの物語。
▶前回:新宿で甘い夜を楽しむはずが…。待ち合わせ場所に来た女の顔を見て、28歳男が凍りついたワケ
結婚への躊躇い【前編】
「ああっ!すみません、彩花さん。つい仕事の話に夢中になってしまって…」
彩花は「いえいえ」と応じながら、テーブルを挟んで向かいに座る橋村に微笑みかけた。
「橋村さんのお話、聞いていてとても楽しいですよ」
彩花は、湯気のおさまった蟹味噌入りのフカヒレスープをレンゲですくって口に含む。
週末の今日。
彩花は、橋村からの誘いで、銀座にある中華料理店を訪れていた。
こうして食事をともにするのも、もう3度目。橋村は、彩花が勤めている大手金融会社からの距離を考慮して、お店を選んでくれた。
「橋村さんは、海外への進出を具体的に考えているんですね」
橋村は、都内に数店舗出店している和菓子店の経営者だ。
30代半ばで父親から事業を引き継ぎ、近い将来、海外への出店を目指している。
その具体的なプランを語って聞かせてくれていた。
「いやあ、仕事の話になるとつい熱が入ってしまって…」
橋村は面目なさそうに頭を下げるが、仕事熱心な姿勢に、彩花は好感を抱いた。
そのとき橋村が、場の空気を変えるように「ふう」と息をついてひとつ間をとる。
「実は、今日彩花さんをお誘いしたのは、大事な話があって…」
居住まいを正して話し始める橋村に、わずかに緊張感が漂う。
彼が何を言わんとしているか、彩花は察しがついている。
食事をするのも3度目。関係に何らかの答えが出るような予感はしていた。そして今日、この場に足を運んだ時点で、彩花の中でも大方答えは決まっていた。
「これから、僕の隣に彩花さんがいて欲しいと思っています」
真剣な眼差しを受け、彩花もかしこまる。
すでに喉のほうまで、「はい」との返答が迫ってきていた。
「結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
橋村が言い終えたところで、彩花は、口から出かかっていた言葉を飲み込む。
― けっ…こん…。
それは彩花にとって、素直には喜べない要求だった。
食事を終えた彩花は、タクシーで代官山にある自宅マンションに向かいながら、橋村の言葉を思い返した。
「結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
彼は、誠実な人柄だ。ゆえに、彩花への思いがいかに真剣であるかを訴えたに違いない。
ただ、彩花は即答できなかった。
「もう少し時間をもらえませんか?」
橋村の好意に応じたかったが、真摯に向き合っているだけに曖昧な感情のまま返事をするわけにはいかず、やむなく出した折衷案だ。
「結婚かぁ…」
窓の外を眺めながら、ボソッとつぶやく。
彩花は27歳だが、結婚というものをまだ具体的に考えたことがなかった。
交際して月日を重ねれば、次第に結婚も現実味を帯びてくるものだと理解はしているものの、念頭におかれるとどうも足踏みしてしまう。
― 結婚のフレーズさえなければ、OKしてたんだけどな…。
とはいえ、橋村の存在が自分にとって大事なものであることは承知している。
逃してはいけないという感情と、冷静に対処すべきだという相反する感情が、交錯する。
― う~ん。結婚についてもっと真剣に考えておくんだった…。
人生の岐路に立たされていることを、彩花はうっすらと感じていた。
◆
翌日、彩花は友人の茉莉の部屋を訪ねていた。
「えっ!それってもうプロポーズじゃん!良かったね!」
昨日の件を伝えると、茉莉は我がことのように喜んではしゃいだ。
茉莉とは、知り合ってからもう5年ほど。最初に会ったのは、友人の開いた合コン形式の飲み会だった。
もともと参加予定だったメンバーの代打でやって来た茉莉は、男性陣を押しのけるように率先して場を仕切り、一騎当千の活躍ぶりを見せた。
その男勝りな姿に、彩花は憧れに近い感情を抱き、その会で唯一連絡先を交換。
以来、頻繁に連絡を取り合う親しい間柄となったのだ。
気兼ねなく付き合ってこれたのは、彩花も茉莉も、結婚などまるで意識していないフットワークの軽さが共通していたことが大きい。
だが、今は状況がやや異なる。
茉莉の傍らでは、1歳になる幼い子どもがスヤスヤと寝息を立てている。
「でも私、結婚なんてまったく考えたことなかったから…」
彩花がそう言うと、茉莉は傍らに視線をおとす。
「まあ、私もこの子ができたから、勢いで結婚しちゃったっていうのもあるけど」
1年前、茉莉から突然「結婚する」と聞かされて、彩花は衝撃を受けた。
驚いたのと同時に、憧れの対象がいなくなってしまったような寂しさをおぼえたのを思い出す。
「ずっと、人に振り回されるのは嫌だなって思ってたんだけど、今はなんか心地いいんだよね。嫌なことも含めて、一生をかけて一緒に何かを積み上げているような感覚があって」
幼い子どもに手を添え、慈愛に満ちた視線を注ぐ姿は、血気にはやるかつての茉莉とはまるで違っていた。
かといって衰えを感じるわけではない。命の尊さを知り、人間的な厚みや深みといった要素が増したようである。
「結婚て、意外といいもんだよ」
屈託のない笑顔とともに放たれた言葉が、胸に刺さる。
― 私も、前向きに考えてみようかな…。
彩花の中で、橋村の告白を受け入れる準備が整いつつあった。
翌日、日曜日。
彩花は母親からの連絡を受け、代々木上原にある実家に戻っていた。
「話があるからこっちに来てほしい」
何か差し迫った事態にあるように感じ、やや緊張感を持って赴いた。
母親の佑美は、華道教授をしている。自宅1階の和室に生徒たちを招いて教室を開き、生け花や華道のマナーなどを教えている。
ほのかに漂う花の香りを感じると、実家に帰ってきた実感が湧く。
和室の隣のリビングで、彩花がソファに座って寛いでいると、佑美が入ってきた。
「急に呼び出してごめんなさいね」
佑美がアールグレイの入ったティーカップを並べ、向かいに腰をおろす。
「あれ?涼花は?」
妹の涼花も一緒だと思っていたが、姿がない。
「涼花にはもう伝えてあることだから」
涼花が実家住まいであることから納得すると、佑美が背筋を正して言った。
「あのね。お父さんと、離婚することになったの」
一家の危機を告げる、衝撃的なニュースである。
しかし、彩花にはそこまでの動揺はなかった。
驚きはしたが、どこか仕方ないような、諦めにも近い感情が湧いた。
というのも、父親の彰浩と佑美は、そもそもあまり仲がいいとは言えなかったからだ。
総合商社に勤める彰浩は海外出張が多く、家のことはほぼ佑美に任せきり。
たまに帰国して自宅に戻って来ても、互いにつれない態度で接し、険悪なムードを漂わせることもあった。
そんな状況が、現在も続いている。
2人が不仲になった原因は、自分の目に見えている問題がすべてではないと、彩花にはわかる。
夫婦間でしか通じ合えない不平不満を抱えてもいるはずだ。
子どものころ、彩花は、2人のあいだに見えない厚い壁の存在を感じていた。しかし言葉で明確に表現してしまうと取り返しのつかないことになりそうで、幼心に気をつかい、何も尋ねなかったのを思い出す。
「ふ~ん。そうなんだ…」
彩花は紅茶を飲みながら、素っ気なく答えた。
実は、彩花に結婚願望がないのには、こうした両親の関係性が少なからず影響している。
結婚に憧れが持てないから、男性に対しても一時的な快楽を求め、ライトな付き合いを望んでしまうところがあるのだ。
「離婚は、いつ決まったの?」
「もう何年も前からよ。涼花がまだ大学生だったから、卒業するまではってお父さんと話していたの。それで、春に涼花が卒業したから」
「そう…」
― そんなことは相談してるんだ…。
会話を交わしている様子などあまり目にしたことがなかったにもかかわらず、離婚に関するやり取りだけはしていたのだと不思議に思う。
― もっとプラスな話し合いをすればいいのに…。
せっかく会話を交わすのなら、もっと建設的な意見を出せなかったのかと、腹立たしくも感じてきた。
たとえ不仲ではあっても、ここまで何十年と夫婦として関係を続けてきたのに、結局は離婚という結末を迎えようとしている。
時間をかけて積み上げてきたものが、呆気なく崩壊してしまう。
― やっぱり、結婚なんてしたいと思えないよ…。
彩花の中で高まりつつあった結婚へのモチベーションが、みるみる減退していく。
そこで、スマートフォンに着信が入った。
橋村からのLINEだったが、彩花は、対応するのもどこか億劫に感じてしまうのだった。
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